第七十九層目 ヒトの可能性


 振るわれる狂爪。ただ上から振り下ろすだけのそれであっても、黒き虎の筋力と俊敏性が合わさった一撃は、まさに絶命必須の必殺技である。

 だが、その爪がジェイの胸筋に触れるかどうかの間際。突然爪が滑るようにあらぬ方向へと振り抜かれた。


「!?」


 それと同時に天地が逆さまになる虎。ぐるりと反転した視界の中で、ジェイの拳が迫る。

 最小限の力で払われた虎の足は地を離れ、いつの間にか投げられていたのだ。


「ガアァァアッ!」


 空中で体を捩じる。ネコ科の動物特有のしなやかな体の動きは、黒き虎がヒトとしての枠組みから外れかけていることを意味する。だが、それでもやはり人なのだ。その体の根本は。


「ふッ! せいッ!!」


 ジェイは虎の腕を取ると、体重をかけて虎を押し倒す。ぐにゃりと曲がった虎の肩からは、ミシミシと嫌な音が鳴る。

 人間は肩の構造が他の動物とは大きく異なる。柔軟で可動域が高く、それが故に自分よりも遥かに巨大で強い生物への対抗手段、『投擲』が可能なのだ。投擲能力は持久力と並んで、ヒトの持つ原初の魔法と言っても過言ではない。

 例えばヒトによく似た生物であるチンパンジーは、ヒトよりも小柄でありながらその腕の筋力や握力は遥かに高い。これは、樹上を移動するにあたって、自分の体重を支えながら木から木へと渡り歩く必要があったからだ。

 だが、森から出た人はその必要が無くなったと同時に、遮蔽物のない平地での生活をすることとなった。そこで編み出されたのが、投擲術だ。そして、長い時を経て人間は小さな球を時速160㎞で投げるまでに至った。


 では、動物の中でも非常に優れた柔軟性を持つ肩は、どれほどの可動域があるのか。

 答えは、前方に出す『屈曲』で180度。後ろに引く『伸展』の動作で60度だ。

 『いや、前にも後ろにも360度回転できるじゃないか』と思うかもしれないが、その時の自分の肩の動きに注目してほしい。先ほど書いた角度を超える際、肩を捩じっているのが解るはずだ。

 そう、肩の動きには屈曲と伸展の他にも、外転や内転。さらには内旋、外旋といった複雑な動きを行っている。

 だからこそ、人は様々なシーンに適応し、あらゆる活動を可能としてきた。


 だが、逆に言い換えれば、どうあがいても稼働できない領域が存在するというわけだ。

 肉体の変化によって多少可動域が上がっていたとしても、黒き虎の体はそもそもが弾虎をベースとしており、関節技が決まってしまうのだ。


「ガァアアァアッ!!」


 ゴキリッ、という鈍い音を立てる虎の肩。負荷が限界まで達した......いや、自ら体重をかけて外してみせた。

 そもそも関節技とは、これ以上負荷が掛けられてしまえば壊れてしまうという、痛みと恐怖が縛りつけるところが大きい。

 それを凌駕してしまえば、あとはどうとでもなってしまう。特に、回復能力の高い虎に関しては。


「そう来ることは、わかっていたッ!!」


 自らの肩を外し、ありえない稼働域になった状態で虎は無理矢理体勢を起こす。そして、ジェイの喉元に牙を剥いた。

 しかし、ジェイはあろうことか虎の口腔内に自ら腕を突っ込んでしまった。


「ガッ!? グアァッ!!」


 鋭い牙がジェイの腕を切り裂く。だが、意外な事にその腕は噛み斬られることは無い。むしろ、黒き虎は苦しそうに体を震えさせている。


「いいかい、一輝君。オルグやゴブリンの様に、亜人系のモンスターに遭遇した時、奴らが捕食をしようとした時が弱点だ。もしも君が完全に虎であればまた違うのだが、ヒトはその咽頭の構造上、嚥下能力が著しく悪い。なので、口腔内を掴まれると、反射的に吐き出そうとするのさ。だから、噛み斬ることができないッ!!」


 これは、人間の進化が及ぼした弱点の一つである。他の動物は、首が頭蓋骨の後ろに位置するため、気道と食道が直線的である。さらに、構造として、鼻と気管へと繋がる部分が直結しており、要するに息をしながら水を飲んだとしても溺れることはないのだ。

 それに対し人間の咽頭は、気道と食道を分ける蓋が平面交叉する形になっており、何かを飲み込もうとするときに息を止めなければいけない。直立歩行をするようになり、体の構造が変化した弊害だ。なので、水分を取りながらせき込んでしまい、気管の方へ入って咽た、なんてことは誰しもが経験ある事だろう。

 なので、いきなり喉に何かが入ってくると反射的に息を止めたり、吐き出そうとしてしまうのだ。


「ふんッ!!」


 ジェイは怯む虎の口から腕を引き抜くと、背後に回り込んで思いっきり体を捩じり、そのまま背後へと向かって体を倒す。

 美しい筋肉のブリッジがかかり、虎の頭が地面に突き刺さる。

 ベリートゥバック・スープレックス。ジェイの故郷アメリカが誇るプロレスにおいて、有名な技の一つであり、その衝撃は時に人を殺めることもある。

 黒き虎ほどになればそこまでの事には至らないが、それでも脊髄動物である限り頚椎への衝撃というものはどれだけ頑張っても弱点となりうる。

 地面がひび割れる程の衝撃を受けた黒き虎は一瞬だけ意識が飛びかけた。だが、直ぐに四肢を動かしてジェイのホールドから逃れると、距離を取って威嚇の声を発する。


「無茶苦茶な......あんな規格外の生物にプロレス技って」

「ほっほ、お主はジェイの戦いを見たことが無かったか。あれはまさに超人じゃよ。普段は武器を使っておるが、それは相手がモンスターじゃからのう。一級探索師の域におったのもそれが理由じゃ。

 あやつは、対人戦のプロフェッショナル。その戦績は......」


 百九十六戦、無敗。

 探索師達は時に犯罪者や、犯罪を起こす探索師崩れを相手にするために対人戦の訓練を積むことがある。その一環で、対人戦の組手記録や大会などもあるのだ。

 そして、現役時代のジェイの戦績は全勝無敗。剣士であれ、拳闘士であれ、魔術師であれ、その肉体と類いまれなるセンス、そして何より、日々の厳しい修行の成果によって、全てを地に伏せてきた。

 残念ながら、モンスターに関しては人の身では対処できないモノもある。どれほどに武を極めようと、数十mの体長を誇る生き物に関節技は掛からないし、ホールドも出来ない。

 だが、自分と同じサイズで、人間に近い骨格であれば負けることなどないッ!!


「君は身体能力では私を遥かに超えているだろう。だが、人を知り、自分を知り、相手を知ることはそれすらも凌駕するッ!! 我々人類は、新たな世界の『力』如きに負けはしないッ!!」

「グルルル......グアァアアァアッ!!」


 再び突進を見せる黒き虎。今度はジェイを翻弄すべく、目まぐるしい速さでジグザグに不規則な動きを見せる。

 そして、口内に集めた黄金の光をジェイへと向けて放つ。


「危ないッ!」


 その光の破壊力をよく知るヴェールは思わず声を上げる。

 魔力がすべての生き物へと浸透したこの世界で、神気の光は触れるだけで致命となりうる。だからこそ、『天使』しか行使することが許されない審判の力なのだ。


「次のレッスンだ、一輝君。種の割れた奇術は、何度も使うものではない」


 ジェイは拳に魔力を込め、打ち出す。黒き虎の放つ光に対して、あまりにもほんの少しばかりの魔力。だが、それだけで十分であった。

 ジェイによって放たれた魔力は極小の軌道修正を黄金の光へと与える。その距離、0.1mm。

 一見すると無意味に思える程の小さな差かもしれないが、コンマ数秒の世界でのやりとりでは大きな意味を持つ。僅かに逸れた事によって生まれた隙間は、ジェイへ回避の時間を与える。


 まるで山奥で静かにながるる川の様に、滑らかな動きで光を避けるジェイ。モニターで一度見た時には既に対処法を考えていたのだ。


「さぁ、一輝君。君自身を取り戻すんだッ!! 君の為にも、そして君を待つ人の為にもッ!! ヒトは、能力になど負けないッ!! その可能性を、未来を諦めるなッッ!!」


 光を避けられた虎は、がむしゃらにジェイへと腕を振るう。その腕を皮膚一枚の犠牲で躱しながら、ジェイは虎の脇に腕を回して再び背後へと滑り込む。そして、そのまま近くにあった瓦礫を駆けのぼり、そのまま地面へとバク転する。

 超急降下バックドロップ。もしも人間がこれを喰らえば、良くて頚椎骨折。もしかすれば衝撃で首がもげてしまうかもしれない。二階建ての建物ほどの高さから落とされる衝撃は、凄まじいエネルギーと音を発生させる。


 地面に完全に突き刺さった黒き虎。その四肢が遅れて地面を打った。

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