第3話 老牧羊犬アイン

 一人の青年が、墓前に花を捧げている。その足元には、一匹の老犬。

「父さん、今日もみんなを守ってね」

 そう言って、祈りを捧げる。そして、顔をあげた。

「行くよ、アイン」

 老犬が、吠えて応えた。



 野原を抜ける風が、心地よい。

 胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込みながら、コロンは走る。

 今日のやること。言うことを聞かなくなった、老牧羊犬の様子を見てくること。エニスが世話になった村人の頼みとあって、引き受けたのだ。

「しばらくすると、突然吠えて言うことを聞かなくなるんだよ」

 飼い主の青年エーミールが言うには、そういうことだった。他の牧羊犬は大丈夫なのに、と。

「歳を取った、ってことなのかなあ」

 一番頼りになる相棒だったのに、とエーミールは付け加えた。働きぶりを観察するエニスには、確かに優秀な牧羊犬に見えた。羊たちを上手く誘導し、無駄な動きもしない。老いたりとはいえ、頼もしい存在に見えた。

 コロンは、といえば、他の牧羊犬に混じって羊たちを誘導している。まるで、あの老牧羊犬の指示に従って動いているように上手く連携していた。

 しばらく歩いて行く。このまましばらく登れば、山は木々の生い茂った森に近づく。森を指さして、エニスがコロンに声を掛けた。

「コロンちゃん、あなたが暮らしていたのって、この森の中なの?」

「あ、はい! そうです!」

「なら、いろんな動物や、魔物を見かけたりも?」

 コロンはうなずく。

「見ました! 知らない動物がたくさん……火を噴く犬なんかも!」

 魔獣といえど、コロンにとっては動物の一種なのだろう。声が弾んでいる。

「火を噴く犬か……」

 反応したのは、エーミールだった。

「僕が小さい頃はそれはそれは恐ろしいモンスターだって口を酸っぱくして言われたんだよ。何人も襲われて、中には……」

 ワンワン!

 突然、老牧羊犬が吠えだした。羊たちの進路を邪魔し始めている。

 始まった、とエーミールが頭をかいた。

 これはどうしたことか、とエニスが思案していると、コロンが裾を引っ張った。

「においがします」

「におい?」

「はい」

 うなずくコロンの表情は険しかった。

「何のにおいかはわかりません。でも、危険な気がします」

 ふうむ、とエニスは少し考えてから、エーミールに向き直った。

「ここは、あのわんちゃんに任せてみましょう」

「はあ」

 博士がそう言うのなら、とエーミールは他の牧羊犬も操り、進路を変える。そうしていつもより短めの放牧が終わり、戻ってから、コロンは老牧羊犬「アイン」の元に歩み寄った。そして座り込むと、その体を撫でる。

「アイン、君は何かを感じ取ったんだね」

 くうん、アインは鳴いた。

 その両者を眺めながら、エニスはコロンの「危険な気がします」という言葉を反芻していた。

 そこに、仕事を終えたエーミールが来た。

「すっかり仲良しじゃないか、見知らぬ人には懐かない犬なんだが」

 そう言うと、エーミールも座ってアインを撫でる。

「こいつは、僕が小さい頃に来たんだ。もう十二歳くらいになる。やっぱ引退したほうがいいよな」

 寂しげな声だった。コロンは首を横に振った。

「でも、アインはまだやることがあると言っています」

「そうなのかい?」

 エーミールは、しかし驚いた様子はなかった。

「君は動物の心がわかるんだね。こいつは、家に置いて来ようとしても、どうしてもついてくるんだ。僕は、こいつと一緒に育った。今でも覚えてるよ、こいつがうちに来たのは、僕の7つの誕生日だった。小さくて、可愛かったなあ。僕は父や祖父のあとについて、こいつと一緒に放牧して。一人で放牧を任されたときは、誇らしさとともに不安もあったけど、こいつと一緒だからきっと大丈夫だって、そう思えたんだ。だから、僕にもわかる。まだ働きたいんだと」

 うん、うん、とうなずきながら、コロンは話を聞く。話を聞くうちに、こう思った。

「働きたい、だけじゃないのかもしれません」

「え?」

「エーミールさんと一緒にいたい、そういう思いがある気がします」

 言われて、エーミールは少し言葉に詰まる。そして、口を開いた。

「わかるよ、その気持ち……僕もそうだから……でも……」

 しばし目を閉じる。

「やっぱり、もう引退すべきだ。余生をゆっくり過ごさせてやりたい」

 それもまた、エーミールの思いだった。

 やがて、コロンが立ち上がり、エニスに向き直った。

「あの先の森が気になります、明日、森に行きませんか?」



 正直、その提案はエニスにとって気は進まなかった。森にはモンスターがいる。その最たるものは、火を噴く魔獣、ヘルハウンド。ここ十年おとなしくしていると言うが、それでも危険には違いない。しかし、その危険な森で十日もコロンは動物たちと暮らしたのだ。強く説得されて、渋々、受け入れた。ただし。

「条件があります」

 それは、大型犬に変身したエニスにコロンが乗り、いつでも危険から逃れられるようにしておくことだった。

 森に入ってからのエニスは慎重に進む。その速度は、コロンにとってちょうど良かったらしい。あの「危険なにおい」が濃くなるのをより感じられたからだった。

「コロン、あの木を見て」

 言われて目をやる。木が、少し焦げている。

「ヘルハウンド、ですか?」

「そう、しかもまだ熱を感じる。近くにいるのかもしれない」

 エーミールの話では、ヘルハウンドは長らく人里近くには姿を現していないという。しかし、ここから放牧のルートまで、そう距離があるわけではない。

「わかった気がします!」

 コロンが言う。

「あの『におい』、おそらくヘルハウンドのものです。人里を避けていたヘルハウンドが、森の外に出るようになったのではないでしょうか」

 エニスはコロンの嗅覚に驚く。しかし同時に、あることに気づいた。

「それなら、エーミールたちが危ないわ!」

「走って下さい!」

 コロンが言うが早いか、エニスは駆けた。

 すでに、この近くにヘルハウンドがいる。放牧など、格好の獲物がたくさんいるではないか。羊はもちろん、エーミール自身も危ないのだ。

 駆ける、駆ける。森を抜けると。

 悪い予感が当たった。一匹のヘルハウンドが、羊たちを襲っている!

 若い牧羊犬たちが必死に吠えるが、ヘルハウンドはひるまない。エーミールもまた腰に帯びた剣を構え、ヘルハウンドに向かうが、どうにも腰が引けている。

 それを見たエニスは、

「コロン、ごめん!」

 乗っているコロンを振り落とし、叫びながらヘルハウンドに向けて駆ける。

 そのとき、聞き慣れた犬の鳴き声がした。

「アイン!」

 ヘルハウンドに噛みつく、一匹の犬。もう引退だ、と置いてきたはずのアインだった。ひるむヘルハウンドにエニスも食らいつき、他の牧羊犬たちも殺到した。思わずヘルハウンドは逃げ出そうとする。エニスたちは追った。しかし。

「もう一匹います!」

 コロンの絶叫が響いた。

 突如姿を現した別のヘルハウンドが、火を吐きながらエーミールに迫った。

 また、聞き慣れた犬の声がした。アインがエーミールの前に飛び出し、ヘルハウンドとぶつかり合う。激しく牙と爪を突き立て合う二匹。アインの傷口は、さらに火で炙られる。

「アインから離れろォ!!!」

 エーミールが無我夢中で剣を振るい、運良く一撃が入る。ヘルハウンドは悲鳴をあげ、森へと逃げていく。

 エニスは慌てて戻り、ちょうど振り落とされたコロンが追い付いた。

 どうやら、危機は去った。しかし。

「アイン!」

 エーミールが血まみれのアインを抱き上げていた。



「孫が世話を掛けたようだの、すまんなあ」

「いえ……」

 エーミールの家。エーミールはアインの手当てと看病で掛かりっきりになっていた。アインは重傷を負ったものの、かろうじてまだ命をつないでいた。懸命に、生きようとしている。

 そのエーミールに変わり、その祖父がエニスとコロンの相手をしていた。

 勧められた茶を飲むでもなく、両手で包んで暖を取るコロンを、老人の手が撫でる。

「ずいぶんめんこい子だこと、ありがとなあ」

 コロンはぺこり、お辞儀をする。

「アインは森に近づいたときに吠え出しました。今日のことをわかっていたのでしょうか」

「森……か……」

 エーミールの祖父は少し難しい顔をした。

「森といったら、山の王だのう」

「山の王、ですか?」

「ヘルハウンドの王を、我々は山の王と呼んでおる。ヘルハウンドそのものも恐ろしい魔獣だが、昔おった獰猛なる山の王は本当に恐ろしくてのう」

 老人の目が、部屋の片隅の古びた帽子を見やった。

「あれは息子の帽子じゃ。エーミールの父でもある。十年前、放牧の途中で獰猛なる山の王らに襲われ、かみ殺された」

「それは……」

「気遣いはいらんよ、これが大いなる自然と生きる我らの宿命じゃ」

 老人の言葉に、コロンは唇をかんだ。

「じゃが、それも十年ほど前まで。獰猛なる山の王はその残忍さゆえに群れから逐われ、森を去った。代わりに穏やかなる山の王が現れ、以来、ヘルハウンドと我らは共存してきた」

 老人は深く息をついた。

「アインは覚えておったのじゃな、十年前のことを。あの子の父を守れなんだことを」

 アインの「まだやることがある」とは、こういうことだったのか。命を掛けて、エーミールを守りたかったのか。コロンの目から、涙がこぼれた。涙をぬぐい、エニスに向き合った。

「こういうとき、どうお祈りすればいいのですか。アインが助かりますように……」

 エニスはうなずき、手を組んで目を閉じて見せた。コロンもそれに倣う。

 この世界の神様。どうか、あの素晴らしいアインを、まだ御許に召されませぬよう。



「死なないで、アイン」

 エーミールは、そう声をかけ続けていた。

 父が亡くなったとき。泣き暮れる僕のそばにいてくれたのは、おまえだった。おまえがいてくれたから、僕は悲しみを乗り越えられた。アイン、僕のアイン、どうか、生きて……





 カラカラカラ……

 車の音がする。

 それは、コロンが作った車。

 アインは、一命を取り留めた。しかし、後ろ足の怪我は重く、動かなくなった。

「せめて、動けるように」

 そう言って、コロンは犬用の車椅子をこしらえたのだ。

 アインは、牧羊犬を引退した。

 しかし、今日もエーミールとその家族に、愛され、大切にされている。

 車椅子を鳴らして、元気に駆けまわりながら。

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