10時10分
祭
10時10分
カチッ、カチッ、無機質な音が耳の隅に響く。今の時代では珍しい環境だ。誰も部屋にアナログ時計など置かなくなったのだから。
手元には正確な時刻と誰かからのメッセージが送られてくる携帯電話。明らかに時計よりも多彩な機能で有用性においては比べるまでもない。
携帯電話の進化はデジタルに疎い人々を置いてけぼりにするほど加速し、10年前では想像もつかないほどの機能だ。今では全世界の95%の人間が携帯電話を所持しており、合理性や機能性の高さを求められる現代で、ただ時間のみを伝える置き時計の存在は退屈で非合理なものだと考える人が多くなっていった。
だがそんな日進月歩の現代の中で、くり抜かれたように時代に取り残されたレトロモダンを思わせるレンガ調の店がある。
「24 Debut 」
寂れたお店にしては綺麗な看板にそう書かれている。男は名前の意味は分からないが何となくオシャレだと思い中に入ってみた。
ゆっくりとドアを開けると、カランコロンと心地よいベルの音がする。目の前には壁一面に時計が並べられている。複雑な模様が刻まれた懐中時計、歯車の形をした時計、振り子がついた時計、壁にフックを付けてぶら下がるような時計など、多くの時計があり棚の中にも時計だけが置かれている。
「時計ばっか‥」
普段1つだけしか見ないものを大量に並べられている所を見ると得も言えぬ迫力がある。店の雰囲気に圧倒されそうになる男はドクドクとうるさい心臓を押さえながらゆっくりと店内を散策する。
「いらっしゃい」
声が聞こえる方に振り向くと、奥のドアが開いて店主と思われる男が現れた。背が高く鼻も高い、肌はミルクのように白く、髭と目尻にシワがある目つきが少し鋭い金髪の男。
どこからどう見ても外国人だ。だが、いらっしゃいの言葉のイントネーションや雰囲気で日本語が通じないということは無さそうだ。そう思い男は店主に尋ねてみた。
「ここは何のお店ですか?」
「‥目が悪いのか?時計以外に何がある」
店主は不機嫌そうにトゲのある言い方をする。確かに店の中を見渡すと時計しかないため何も言い返せないため笑ってごまかす。
「そうですよね〜。それにしても時計の専門店ですか、珍しいですね」
「そうだな」
仏頂面で言葉を返す店主の外国人は小さな木造の椅子に腰掛け、男の近くにある黒いケースの中の腕時計を取り出して眺め始めた。
「全部売り物なんですか?」
「そうだ」
「この大きな振り子の時計も?」
「そうだ」
「この高そうな腕時計も?」
「そうだ」
自分よりも背が高い振り子の時計とギラギラと銀色に光る数字が書かれていない腕時計も売り物だと答えた店主は、下から覗いたり光の当て方を調整したり、ネジを何度も何度も回して腕時計を確認していた。
職人の集中している作業というのは何故だか見ていてワクワクする。何がすごいのか、どの瞬間が難しいのか何も分からないが、ずっと眺めていたい気持ちになる。店主は見られていることに気付いているはずだが何も言わず黙々と作業をこなしていた。おそらく店主は自分を客じゃなくて子供だと思っているのかもしれない。普段なら子供扱いするとムッとするのだが今はそんな事を気にする時間がもったいないと思うほど腕時計に夢中になっていた。
5歳児の小指のようなドライバーや爪楊枝みたいなスパナ。他にも見たことがない専用器具が多くある。それらを器用に使って腕時計のパーツとなる長さ1cmほどの秒針、直径1mmのネジなど、丁寧に一つ一つをバラしていく。
「時計か‥」
無意識にぼそりと呟く男。正直、時計は必要ない。携帯があれば時刻は分かるし目覚まし機能もある。それに置き時計よりも携帯を見る回数の方が圧倒的に多いため時計で時間を確認するのは2度手間だ。
買うとしてもファッションの一つとして使える腕時計くらいで、それでも贅沢な買い物だろう。豊かではない金銭面や現状の自分の持ち物を考えると時計屋にいるのは無駄な時間だ。
だが男は不思議とこの店を出る気にはならなかった。理由は分からないが色々な形をした時計を見て、もし自分の家にあんな時計があれば、と妄想するのが意外と悪くない。それに時計の修理の様子も見ていて面白い。
しかし不可思議な点がある。店内の大きな振り子時計を除く全ての時計が10時10分に止まっているのだ。
何で10時10分なんだろうか?何か理由でもあるのか?
疑問に思うが不意に唯一動いている時計が目に入る。1秒も間違わずに刻々と時を刻み、機械ゆえのシンプルな動きを1秒ごとに繰り返す単純作業の原点とも考えられる時計の動き。針は決められたルートを延々と進み続けている。
「買うのか?」
男は耳の奥まで深く響く低い声が聞こえ、ようやく意識を取り戻す。珍しくボーッとしていた。気がつくと時計の針は2周3周しており特に欲しいわけでもないのに時計に気を取られていた。
「買うつもりは無かったですが、少し興味が出てきました」
「そうか」
もし買うならば中央の棚にある奴にしとけ、と言い残して店主は腕時計を仕事に戻った。店主の忠告通りに中央の棚に向かう。そこには置き時計の姿はなく、比較的に小さい懐中時計や腕時計が並べられていた。一つの棚に10個ほど並べられており全てキチッとケースに入っている。そしてケースの下には小さな値札が置いてあった。
複雑な模様をした懐中時計やシックな腕時計の値段を確認すると10万や20万もするのばかりだった。とてもじゃないが高校生の自分には払えない値段で、何でここの棚を見せたんだよと少しムッとする。別のところを見ようと
回りくどい嫌がらせを受けたように思い、
「すいません、時計の修理をお願いしていた
短髪の少しウェーブがかかった髪型をしたスーツ姿が似合わない塩顔の男が入ってきた。細いタレ目が特徴的でヘコヘコしている。
「いらっしゃい」
店主は時計を直す手を止めずに声だけで客を迎える。
「えーと、腕時計を引き取りに来たんですけどぉ」
「‥‥」
男の呼びかけに答えない店主。話しかけてるのに無視するって、客に対して流石にその態度はダメなんじゃないの?と啓太は自分とは関係ないはずだが内心少し慌てはじめる。
「えっと聞こえてますぅ?」
「仕事の邪魔だ」
ええぇ‥?
お客さんを仕事の邪魔だって言ったよ‥
開いた口が塞がらない啓太、しかし邪魔だと告げられた張本人は動揺することなく店主に話しかける。
「腕時計を修理するのも立派な仕事ですけど、接客も大事な仕事なんじゃないんですかぁ?」
日下部は語尾を持ち上げる嫌に耳に残る喋りで、遠回しに店主を否定する。
「‥引き取りは2日後だと伝えたはずだ」
煩わしそうに呟く店主。てかそれよりもこの人2日前なのに取りにきたの?
思わず日下部を見つめる啓太。だが日下部はその言葉を予想していたのか薄ら笑いを浮かべながら話す。
「あれ、そうでしたっけ〜?私はできるだけ早くお願いしますとお願いしたつもりなのですがぁ?」
「2日後の午前10時に渡す、そう伝えた」
「ここの時計屋は修理の腕が良いとお聞きしたので頼んだのですが、噂違いなのですかねぇ?」
「‥引き渡しは2日後だ」
客という立場を使って無理をふっかける日下部と頑なに拒否する店主。
約束を反故して急に時計を修理して引き渡せって言ってこの態度って、日下部って奴やばい奴だな。それなら客を仕事の邪魔だと言う店主の方がまだ‥
‥いや店主も悪いな、どっちも悪い。
心の中に喧嘩両成敗という言葉がしっくりと来ているが当の本人たちはどちらも自分の主張を変える気などさらさらないようだ。
「まだ時計の修理ができていないのですかぁ?」
「‥まだ途中だ」
小さなピンセットを片手に仕事を進めながら短い言葉を返す店主。低く力強い声で職人の空気を醸し出している。
その空気が見えないのか無視しているだけなのか分からないが日下部はニヒルな笑みで無理難題を言い続ける。しかし店主は一向に首を縦に振らない。
しばらく無意味な押し問答が続き、流石にイラついてきたのか日下部は腕を組んで革靴の先でダンダンと小刻みに地面を踏み鳴らしていた。そして痺れを切らして一つの提案を持ちかけた。
「じゃあ直さなくていいので腕時計を返してください」
えっ?直さなくていい?
何を言ってるのこいつ?
「どういう意味だ」
「だから言葉通りですよ、分からないかなぁ。修理しなくていいので腕時計を組み立てて返してください」
嫌味ったらしい言葉で無作法に右腕を突き出して寄越せと言わんばかりに手首をチョイチョイと二回手招く日下部。
非常識な男だと思っていたがここまで自分勝手で精神年齢が低い大人を初めて見た啓太は信じられないモノを見つめる目で日下部を見ている。
「一度修理に出した時計は直すまで返す事はできない。そういう決まりだ」
「いや、そんな決まりはこちらには関係ないですよねぇ?元々はこちらが買って、所持している物なんですから返してくれと言ったら素直に返すべきでは?」
水を得た魚のように日下部は
「それに腕時計など、もはやスマートフォンの台頭によって無用の長物となった過去の遺物ですよ?今で腕時計を付けてる人は高級時計を買えるというステータスを誇示したいだけ、言わばファッションみたいなものですよ。そのアイテムの一つが故障していようがしていまいが特に問題は無いんじゃないですかぁ?」
両手を広げて自分の姿をアピールし、演説のように話し続ける日下部。
「それなのに時計を専門にして商いをするなどよほどの品揃えがないと利益を出すのは難しいでしょう。まぁ時計の修理も引き受けるという商売の多角化をしているのは褒めるべき点ですが、この程度ならば修理を専門にしている店の方がまだマシです。つまりあなたのしている事は単なるお店ごっこなんですよ!」
分かりましたか?と言い切ってスッキリした顔でニヤつく日下部。この男は面の皮が厚いというか、空気が読めないというか、とりあえず度胸はそれなりにあって厚かましさに関しては誰にも負けないのだろう。
啓太は日下部への負の感情を抱きつつ、もっと不快な思いをしているはずの店主を見つめる。黙々と作業をしていた店主もピンセットを置いてゆっくりと立ち上がる。だが店主は何も言わず、ただ日下部を見つめ返していた。
カチッカチッ、正確に変わらずに時を刻む音だけが響く。ちょうど秒針が半周した時、店主はゆっくりと口を開いた。
「時計は何よりも厳格であるべき物だ」
その声は低く重く、時計のように無機質な声だった。
「時計の部品は全て必要で不必要なものはない。そして部品に違いは許されない。部品の重量に偏りがあるだけで時間は狂い、バランスが少しでも悪いと針は回らない。わずかの間違いが所持者の人生をズレを生む。その責任が時計にはある。」
「‥それが何だっていうんです?」
忌々しいと言わんばかりに睨んだ目で威嚇する日下部。自分の思い通りに動かない店主に心底を腹を立てているのだろう。
「故障して時間を刻めないならそれは時計じゃない。だから俺はまだ時計ではないものを返す気は無い」
同じ声色で諭すように教えるように話す店主は
「あなたも強情ですね‥そういうところが気にくわないんですよ」
「‥それに依頼人はお前じゃない、お前の父親だろう」
「代わりに私が引き取りに来ただけですよ。父も、もちろん私も暇ではないので融通を効かせて欲しいものですけどね」
「次からはお前じゃなくて依頼人が取りに来い。じゃないと渡さない」
はっきりとお前は来るなと伝える店主。そう言われ、みるみる顔を赤らめた日下部は感情のまま叫ぶ。
「何ですか客に対してその態度は!こちらの親切なアドバイスを無下にするとは本当に失礼な男ですね、こんな寂れたお店は私から願い下げですよ!」
ドスドスと足音を立てて勢いよくドアを開けて出ていく日下部。けたたましくベルが鳴り、少しして静かになった部屋に針の音だけが響く。
親切なアドバイス?失礼な男?こちらから願い下げ?あの男は何を言っているのだろうか。どうやって生きてきたらあのようになるのか知りたいと思うほど傍若無人な態度だった。
そんな日下部がいなくなった後、何事もなかったように店主は作業台に戻りピンセットを片手に慎重に部品を眺めていく。こっちもこっちで客の扱いは問題だよな‥
店主にも少し呆れている啓太を尻目に、店主は人体模型図のように骨組みが透けて見えるようになった機械の集まりを小さく分解していく。そしてある箇所で店主の腕が止まった。
それは車輪のような円形の金属で、細い針金のようなものが中心に渦巻いている部品だった。店主は何度もピンセットで持ち上げて、顕微鏡のようなものでじっと見つめていた。
「そこがおかしいんですか?」
「‥聞いてどうする」
「どうするも何も、興味があるだけです」
そうか、と呟いて店主は先ほどまで眺めていた小さな車輪のような部品をミニチュアサイズの万力に挟み、回し始めた。
「これはテンプだ」
「テンプ、ですか」
「そうだ。テンプは時計の心臓だ」
店主はテンプについて教えてくれた。興味があると言ったのが店主にとって好ましく映ったのかもしれない。店主によるとテンプはゼンマイから伝わったエネルギーを規則正しい動きに変換する部品らしく、今回はそのテンプを支えるテン真が削れていたのが故障の原因とのことだ。
テンプを支えるテン真が削られていると、回してもすぐに止まってしまい針は動かなくなってしまう。多くは語らない店主だが、時計について教えてくれる時の言葉は重く、大切な事だけ話してくれる丁寧な話し方だった。
「そのテン真が削れたらどうするんですか」
「‥新しいテン真を作るしかない」
「えっ!?作るんですか?」
そうだ、と変わらない口調で店主は囁く。啓太は先ほど見せてもらった削れたテン真を見つめるが、テン真はアリほどの大きさしかない。
「こんなものどうやって作るんですか?」
「‥見ていれば分かる」
そう言って立ち上がる店主は店の裏へと歩く。そしてしばらくすると白いケースを持って戻ってきた。中には少し大きめの消しカスのような何かが入っているように見える。
そして店主は時計の売り場から少し離れたところにある
「そのピンセットで持っている奴は何ですか」
「テン真になる鋼の棒だ。そしてこれは旋盤だ」
そう言うと、機械からヴゥーー!と工場の機械のような音が聞こえてくる。どうやら取りつけた鋼の棒が高速で回っているようだ。そして店主は近くにある顕微鏡を見ながら彫刻刀のような刃物で回っている棒を削っていく。
金属が擦れる音が響き、啓太の目からは棒が削れているかは分からないほどのミリサイズの作業だ。それを黙々とこなす店主は仕事に没頭している。
腕時計の部品は髪の毛ほど小さいのだと、分解されているのを見て気づく。そこにミクロの狂いも許されない。啓太は店主の仕事を見ているとなぜ時計が高いのか分かった気がした。
テン真を作り終えた店主は元の作業台に戻り、テンプの組み立てに戻った。そして一つ一つのパーツを繋げていき、テンプを小さい万力に挟んでピンセットでそっと回していく。
するとテンプは風車のようにゆったりと回り、そして止まることなく同じペースで滑らかに動き続ける。修理のできに満足したのか店主はテンプを置いて、分解していた部品たちを一つの時計に戻していく。
「すごい‥」
思わず声が漏れてしまう。職人の作業には無駄がなくシンプルだけど複雑で、見ていて清々しい気持ちにするような、参ってしまうような一言では表せない心情にさせられる。
「‥時計を買わないのか?」
こちらを見ずに小さな声で囁く店主。どういう意図で言ったのかは分からないが嫌がらせではない純粋な問いだと考え、できるだけ爽やかに返事をするか。
「高校生の僕には10万円なんて手が届かないですよ」
笑顔でそう言うと、しばらく店主は何も言わずに黙々と作業する。2、3分してから店主は重い口を開いた。
「中央の棚の下にある時計を見たらいい」
それだけ言って作業に戻る店主。
棚の下?
確かにチラッとだけしか見てないから棚の下にある時計は確認してないけど‥
啓太は店主に言われた通りに中央の棚の下側を覗いてみる。するとそこは腕時計が置かれており特に先ほどの時計と変わりはないが、値札を見ると3万円や5万円の物がちらほらとあり、まだ高校生の自分でも手が届きそうなものが揃っていた。‥それでも高いのだが。
だが先ほどの店主の仕事ぶりを見ていると啓太は自分の時計が欲しくなっていた。ファッションとかステータスの意味ではなく純粋に時計が欲しい。店主の時計に対する姿勢や気持ちなどを見ていて感化されしまった。
だが買うならばどういう腕時計にしようか、値段も大事だがそれよりも欲しいと思える時計があるかどうかだ。啓太は棚の下にある腕時計が入ったケースを眺める。
そして一つの時計に目が止まる。黒い革のバンドに丸い
これがいいなぁ、そう思い値段を確認する啓太。
5万3千円‥
思わずウッと息が詰まってしまう金額だ。日々のお小遣いと貯金。そしてこれから入ってくるお年玉の額を考慮し買うかどうか考える。
頑張れば5万3千円は買えなくはない。だが半年以上はお小遣いが無くなるし、他に欲しいものが出た時に諦めることになる。そう考えると簡単に買えるものではない。啓太は顎に手を置いてうーんうーんと悩む。
必要かどうかと言われれば不必要だ。だが心はここで買わないと後悔すると叫んでいる。どうしようもなくこの腕時計に惹かれており、少し安めの3万円くらいの腕時計で妥協、何て事は絶対にしたくはない。
「買うのか‥?」
ずっと悩んでいると作業中の店主が少し手を止めて話しかけてきていた。啓太は少し驚くがすぐに返事をする。
「悩んでますね‥あまりお金に余裕がないのですが」
「‥どれを買うつもりだ?」
「この時計が気になっています」
そう言って自分が欲しいと思う時計を店主に向ける。思ったより軽く、腕に巻いても違和感はなさそうだ。
「それなら多少なら安くしてやってもいいぞ」
「本当ですか?」
願ってもない店主の提案に心を躍らせる啓太。唯一の問題点が小さくなると反比例するように買いたい気持ちは強くなる。しかしその後の店主の言葉で啓太はより悩むことになる。
「良いのか?」
「良いのか、って何がですか」
「‥その時計は手巻きだぞ?」
「手巻き?」
あぁ、と低い声をこぼして店主は啓太の持っている時計を貸せと手を差し出してくる。その手はゴツく、どこか黒ずんでいる職人の手だ。啓太は大切なものをそっと預けるように腕時計を店主に渡す。そして店主は文字盤の右に付いているチョボのようなネジを引き出し、ゆっくりと巻き始めた。
「‥手巻き式は自分の手でゼンマイを巻かないと止まってしまう。今は自動巻きかクォーツ式の時計が主流だ」
低くしっかりした声、慈しむように優しくゼンマイを回す店主。
「この腕時計は72時間、つまり3日以上回さないと止まってしまう」
手巻き式の時計は携帯電話のように電力さえあればずっと勝手に時を進むわけではなく、自分の手で時を刻む力を蓄えないといけない。という事はつまり3日以上経つとこの時計は‥
「忘れてしまうと、時計じゃなくなるんですね」
「そうだ」
そう考えると少し悩む。初めてこれほどの高い買い物をするので上級者向けのような品物を買うのは気後れする。それに巻くのを忘れた時に時計の意味をなさなくなるデメリットは怖い。だけど‥
「‥買いたいです」
自分の口から出た言葉はくぐもった声になった。
「いいのか?」
「‥はい」
「‥そうか」
店主は啓太が選んだ腕時計を持って店の裏へと引く。しばらくすると小さな茶色の腕時計を入れる四角い箱を手に持って現れた。そして店主は啓太に話しかける。
「ここに腕時計を入れてある。傷をつけたくないなら腕時計を外したらケースに入れておけ」
「はい」
「手巻きの時計をつけた事はあるか?」
「いいえ、ないです」
そうか、と低い声で呟いた後、店主は手巻き時計の取り扱い方を教えてくれた。
「今からこの時計の時間を合わせるが、いいか?」
「お願いします。」
そう言うと竜頭を引いて時計の時刻を合わせる店主。今の時刻は14時23分。最初の10時10分から移動し少しずつ本来の時間に合っていく腕時計。針は命を宿すように刻々と動き出す。
その様子を見ていた啓太はずっと疑問だったことを店主に尋ねる。
「何で最初の時刻は10時10分なんですか?」
初めて店を訪れた時、動いていない時計の全てが10時10分に定められている理由が分からなかった。胸の奥でずっと引っかかっていた疑問だが店主は特に勿体ぶらずに当たり前のことを教えるように伝えた。
「時計が一番綺麗に見える時間だからだ」
「時計が一番綺麗に見える‥?」
そうだ、と呟く店主は近くにある手頃な懐中時計を手に取って10時10分について教えてくれる。
「‥昔どこかの企業が時計の針を8時40分に合わせた広告を作ったが売れ行きは悪かった。だが10時10分に定めた広告を作ったら時計は売れた。誰も理由は分からなかったがな」
時計の針を本当の時間に合わせている店主。少し沈黙した後にまた店主はゆっくりと続きを話してくれた。
「それから時計は10時10分に近い時刻で広告が作られるようになった。どの国でもどの企業でもそれは変わらない。」
「そうなんだ‥」
10時10分だから売れたのに理由があったのかは誰も分からない。だが売れる。その事実だけで十分なのだろう。
「‥難しい事は分からん。だが俺は10時10分の時計が1番綺麗だと思う。それだけだ」
店主の単純で直球な物言い。だがそれで良いのだ。難しい事は考えなくてもいい、理由なんて分からなくていい。そう考えると頭の中で渦巻いていた霧のようなモヤモヤが晴れていく。
「‥本当に良かったのか?」
「何がですか」
「‥手巻きの時計で」
「ああ、その事ですか」
啓太は手巻き式の腕時計は72時間以内に巻かないと動かなくなる。それが上級者向きの時計のようで不安にさせたり自分にはまだ早いのではと気後れさせられたが、啓太はそんな事はもう気にしていない。
「手巻きの方が愛着が湧きそうな気がして‥いや違いますね。何というか手巻きの方がカッコ良いし、自分も時計の一部になれた気がするんですよね」
上手く言葉にできない時計への気持ちを少しずつほぐしていく。カチッカチッと耳に同じリズムで鳴らす時計の音を聞いているうちに自分の知らない世界が見えてきて、それが色づいていくのが分かってきた。
「‥そうか、なら安心だ」
そう言って店主は微笑んだ。そして店主は高校生だからと値段も少し安くしてくれ、さらにケースもおまけで付けてくれた。
啓太は買った後、飛ぶように家に戻った。そして自分の部屋で我先にと腕時計を付ける。思っていたより軽く手首に馴染む腕時計。革のベルトはひんやりと冷たく、程よい力で締められており時計がズレる心配はない。
自分の腕時計を見ているだけで嬉しさが込み上げてくるが、それよりも先に決めなければならないことがある。それは1日に1回ゼンマイを巻くタイミングを決めることだ。手巻き式の時計が止まるのは72 時間後なのだが、腕時計の構造から1日ごとに巻く方が良いと店主が渡す際に教えてくれたのだ。
一般的には朝起きた時や家に帰って腕時計を外す時などにするらしい。だが啓太はすぐに決めた。いや、決めていた。
最も時計が美しい瞬間、10時10分にゼンマイを回す。それが啓太の腕時計の命が吹き込まれる瞬間となる。ゆっくりと少し硬い竜頭を引いてゼンマイを巻く準備をする。
キリキリッ。カチカチ、カチッカチッ‥
丁寧にゆっくりと回す。この時計がこの先もずっと、自分と共にこれからの思い出を刻み続けてくれるように。
10時10分 祭 @tanajun
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