予告

 夢を見る。

 紫色の髪の女がこちらを向いて立っている。女はひどく激昂している様子で、わたしの目を真っ直ぐに睨み付けて何かを叫んでいるのだけど、女の言葉はなぜかわたしには届かない。すぐ目の前にいるのに。やがて女は埒が明かないとでもいった様子で手を伸ばし、わたしの頭を鷲掴みにする。そうして耳元で何かを絶叫しながら--意味が分からないけれど叫んでいることだけは分かる--わたしの顔をごつごつした岩のような壁に押し付けて、ものすごい力で左右に擦る。わたしの目や鼻が壁に削られて足元に落ちるのを見て、女はようやく満足げに笑う。


 もう一週間、紫色の髪の女に酷い目に遭わされている。


「だんだん言ってることが分かるようになってきたとか、そういう症状は?」

 目の前に座る男性がまるでお医者さんのような口調で訊く。彼はお医者さんではなく弁護士だ。そしてこういった、幽霊とか、怪異とか、そういうものをどうにかする才能を持っている、らしい。

 毎晩あんな夢を見ていれば寝付きも悪くなるし、朝だって無駄に早く目が覚めてしまって二度寝もできない。毎日ふらふらになりながら出勤していたら、週末金曜日、同僚の中でも比較的年が近い久下さんに声をかけられたのだ。どうしたの、何かあったの、悩み事? 久下くげさんはわたしより四年先に職場に入社した先輩で、古き良き……と言えば聞こえは良いが要するに管理職である上司たちの意識がまるでアップデートされていない、セクハラパワハラ当たり前の印刷会社で、既に古株とかお局様とか言われている女性だ(この呼称もセクハラだ)。弊社に、女性社員はわたしと久下さんのふたりしかいない。ほかは皆入社しても一年足らずでやめてしまう。正社員でも契約社員でも派遣でもバイトでもそう。

 それでわたしは、久下さんに夢の件を話した。なんでか分からないけど毎日変な夢を見てて困ってるんですよね、みたいな笑い話感覚で。

 でも久下さんはそれを笑い話にはしなかった。SNSでちょっと話題になっている霊感弁護士に相談してみたら?と言ってアカウントを見せてくれた。それは霊感弁護士本人のアカウントではなくて、彼のことを話題にしているそういう噂話が好きな人たちの集会所みたいなものだったけど、なんとなく興味は沸いた。

 それで、ネットで弁護士事務所の電話番号を検索して連絡を入れてみた。電話に出たのは恐らく女性で、人からで聞いたんですが……というわたしのなんともはっきりしない物言いを淡々と聞いてくれて、直接お話を伺いたいので日にちを調整しましょうとまで言ってくれた。わたしは迷わず有給を使って、週の真ん中水曜日に面会の約束を取り付けた。アットホームを売りにしている(らしい)弊社では有給休暇の申請は直接社長にするのだが、その社長には急に休まれるなんて困る、水曜日には水曜日の業務があるんだからこの申請は受理できない、などと言われたが、久下さんがこっそり処理をしてくれるので社長のお小言には愛想笑いで対応した。水曜日の業務。別にわたしがしなくても良い仕事。トイレ掃除と、男性社員しか使わない喫煙スペースの清掃、それに会社の玄関に盛り塩を置く。これが営業事務として雇われたわたしの、水曜日の、仕事……。

「そんなにはっきりは分からないんですけど」

 弁護士、市岡稟市いちおかりんいちさんはわたしの曖昧な言葉にも真剣な眼差しを向けてくる。本当に会ってくれるのかな、弁護の話とかじゃないから立ち話とかで済まされちゃうかも、と思いながら電車に乗って埼玉県にある事務所に赴いたのだが、事務所には既に市岡さんと秘書と思しき女性(電話で対応してくれたのは彼女だと思う)が待機していて、流れるように応接室に通された。パーテーションで区切られただけの会話丸聞こえの空間を応接室と呼んでいる弊社とは全然違う、壁も扉もしっかりある応接室。

 そこでふかふかのソファに腰を下ろし、だいたいの事情を説明した。秘書の方が持ってきてくれた緑茶は甘くて美味しく、添えられていた最中もすぐに食べてしまった。ここは、なんだかほっこりとする。落ち着く場所だ。

「失礼ですが呉葉くれはさんは、おひとり暮らしですか?」

「あ、はい。そうです」

「ご実家は……?」

 関東圏ではない。西の方も県名を伝えると、はあ、なるほど、と市岡さんは長い指先で自らの顎をすいと擦った。

「お父さんしかいないんです」

 訊かれる前に言った。市岡さんはなるほど、と繰り返して、手元のメモにわたしの名前を書き、その下に『お父さん』と書き足す。

「呉葉さん」

「は、はい」

「私には死んだ人間が見えるんです。という事情は、私のことを紹介してくださった誰かからもうお聞きになってますかね?」

 久下さんからは霊感弁護士としか聞いていない。SNSの集会所でもリアル寺生まれのTさんみたいな扱いで書かれていたから、詳しいことは何も知らない。

「その女性が何を言っているのかもしはっきり分かるとしたら、あんまり良くないとは思うんですね。呉葉さん個人をターゲットにしている可能性が高くなってしまうので」

「……あんまり分からない場合は?」

 叫んでる、笑ってる、それぐらいしか分からない。あとはわたしの目と鼻が地面に落ちるということしか。

「勤務先、こちらでしたよね」

 市岡さんが手元のタブレットをこちらに差し出す。笑顔でVサインをする社長とその他管理職たちの写真がデカデカと載ったセンスの悪いホームページ。

「二年前、事故を起こしてますね」

「え?」

「こちらの会社。印刷機に人が挟まれて。女性の方」

「えっえっ」

 知らない。聞いてない。

「ご連絡をいただいてから私も少し調べてみたんですが。外国籍の方だったようですね。それで……言い方は良くないですが、事故に遭われた方が日本のそういった……システムに明るくないのを良いことに、すべて彼女のせいにして会社を追い出した」

 もちろん労災もおりてませんし、印刷機が壊れたと逆に訴訟を起こしていますね。と市岡さんは静かな口調で続けた。二年前。私が入社した年だ。

「事故に遭った人、どうなっちゃったんですか。今は……」

「裁判に負け、賠償金を支払うことができずに姿を消してしまったそうです」

 それで。まだ続きがあるはずだ。

「事故のせいで視力が極端に低下し、鼻は……潰れてしまい」

「……」

「先月の初めに遺体で発見されたそうです。新聞にも少しだけ記事が載っていましたね」

 市岡さんが手渡してくれたのは年明けすぐの新聞だ。某県某所にて外国人女性の遺体発見、餓死か--

「いま、呉葉さんのすぐ側に、彼女がいます」

 市岡さんの言葉に、わたしはもう驚かなかった。

「わたしのことも事故らせたいということでしょうか……」

 あんな会社でのうのうと、のほほんと、へらへら笑って働いているわたしの姿は彼女にはさぞ不愉快に映るだろう。わたしはもっと怒るべきだったのかもしれない。

「恐らく逆ですね。警告というか、あなたに気付かれるのをずっと待っていたというか」

「え」

「あなたと、あなたをここに寄越した方は、早めに逃げた方がいいと思います。たぶん」

 恐らく、と呟く市岡さんの目はどこか焦点が合っていない。何を見ているんだろう。


 夢を見た。紫色の髪の女--目と鼻が欠けた女性がじっとこちらを見ていた。彼女が何を言っているのか理解できない理由がやっと分かった。言葉も分からないのに、つらかったですよね。しんどい目に遭いましたよね。わたしも本当はあんな会社、大嫌いです。


 次の出勤日に退職届を持って出勤した。社長は大騒ぎをしていたけど、無視した。久下さんにはこれまでのお礼を言いがてら経過を報告しようとしたら、

「知ってた。ごめんね、言えなくて」

 と言われた。そうか、そうだよな。二年前から久下さんはこの会社にいたんだもんな。


 それから一週間ぐらい経った頃、久下さんから電話が来た。

「会社燃えちゃった」

「マジすか」

「まあ、あたしが火ぃつけたんだけど」

「マジすか!?」

 これから自首してくるわ、社長は全身火傷だけど生きてる、死ねば良かったのにね、それじゃあ呉葉ちゃんは元気でね。これが久下さんとの最後の会話になった。紫色の髪の女は、もう夢には出てこない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る