死神 - 2

「週末、ちょっと面倒な顧客に会いに行くんだ。付き合ってくれないか」

 兄がこんなことを言い出すなんて、明日朝目が覚めたら日本は真夏になっているんじゃないだろうか。そんなふうに思いながら「うん、いいよ」と笑って頷いた。兄、市岡稟市弁護士先生は、どこか安堵した様子で口元をゆるめた。


 週末、土曜日。兄の運転するクルマで都内に向かった。場所はX区。所謂下町と称されてきた地域だ。もっとも今は再開発も進み、都心部ともそう変わりない賑わいを見せているが。ららぽーともあるし。

「帰りららぽ寄っていーい? 服買いたい」

「いいが……そんな余裕があるかね」

「稟ちゃんの顧客でしょ。俺は余裕よ」

「だったら帰りは運転もしてくれ」

「アイサー」

 コインパーキングにクルマを停め、顧客との待ち合わせ場所には徒歩で向かった。チェーンの喫茶店だった。有料のミーティングルームがあるタイプの喫茶店だ。煙草吸えるかな。レジで店員の人に名前を名乗る兄の背中を見ながらそんなことを考える。

「行くぞ」

「あいあい」

 店員の人に先導されて向かったミーティングルームには、人間がふたりいた。ぱっと見50代ぐらいの男性と、20代前後ぐらいの女性と。お待たせしまして、と兄が言う。

「弁護士の市岡です。こちらは秘書です」

「市岡ヒサシです! よろしくお願いします!」

「弟さんですか?」

 男性の方が尋ね、兄が僅かに顔を歪める。あ、言わない方がよかったのかな? だって本物の秘書は俺じゃなくてユキムラちゃんだからなー。嘘は好きじゃないんだよなー。

「ええ、まあ、不祥の弟です」

「ご謙遜を。秘書をされているということは相当優秀なのでしょう?」

 男性がにこりと微笑み、右手をすっと動かす。座ってくださいのジェスチャーだ。俺は兄の背中を叩き、さっさと手近の椅子に腰を下ろす。丸いテーブルの周りには赤いベロアの椅子が6つあり、俺たちが座ったことで空席は2つになった。あとから誰か来るのかな。ていうかなんの案件なんだろ、これ?

蘇芳すおうと申します」

 男性が席を立ち、俺たちに一枚ずつ名刺をくれる。蘇芳軋味すおう・きしみ。なんとかかんとか工業の専務って書いてある。偉い人じゃん。俺は所謂会社勤めをしたことがないから肩書きには詳しくないけど。

「こちらは姉の喜世花きよかです」

「はじめまして」


 


 


 ちょっと良く分かんない。名刺をくれたおじさんはどう見ても50代で、姉って紹介されたお嬢さんは20代……すごく若く見えるタイプの人だったとしても、軋味さんより年上には見えない。俺には見えない。

 兄にはどう見えているのだろうと横目で様子を伺うと、「お姉さまですか、なるほど」といつも通りの口調で言っていた。が、それが今この空間に必要のない台詞であるということは俺には良く分かる。そんなこと口に出してわざわざ確認する必要ないだろ、先方が『姉』だっつってんだから。

 どうやらたしかに、面倒な顧客に遭遇してしまったようだ。

「事情は、事前にお送りした書面の通りです」

 おじさんが言う。俺はその書面読んでないから最初から説明してくれねえかなと思ったけどそううまくはいかないみたいだ。まあいいんだけど。

「死神ですか」

 兄が応える。死神? なんじゃそりゃ。新年早々縁起の悪い響きだなぁ。

「煙草吸っていいですか?」

「どうぞどうぞ。では、私も」

 テーブルの上にあったガラスの灰皿をおじさんに手渡し、立ち上がったついでにミーティングルームの入り口側にあるサイドテーブルの上から自分の灰皿を確保する。サイドテーブルの上には灰皿以外にもお洒落なデザインの水入れとか、店員の人を呼ぶためのボタンとかが設置されている。

 と、ドアが目の前で開いて店員の人が入ってきた。丸テーブルの上にコーヒーを3つと紅茶を1つ置き、一礼をして去っていく。流れるような動きとはこのことを言うのだろうなと思いながら俺は自分の席に戻り、煙草に火を点けた。

「40年前に誘拐された死神を連れ戻したい……というお話でしたね」

「その通りです」

「誘拐?」

「おや、弟さんはご存知ない?」

「いや、こいつは……」

 お守りだから知る必要はない、と兄は言いたかったのだろう。だが人間を指して『お守り』とは何事だと返されても面倒だから口を閉じてしまう。俺は肩を竦め、

「今日は運転手で来たんです。良ければ俺にも、何が起きているのか教えてもらえませんか?」

 嘘を吐くことに躊躇いなんかない。誰も傷付けない嘘なら尚更だ。兄はちょっと真面目すぎると思う。弁護士なんて職に就いている所為かな。

 おじさんは大きく頷き、お話ししますね、と言った。少し長い話になりますが、と。


「蘇芳さんのおうちでは死神が守り神だったんですかあ。すごいな。あんまり聞かない話ですね」

「驚かれないんですね?」

「まあ……この人がお兄ちゃんですし」

 この人、とはもちろん稟市のことだ。兄はおじさんが喋っている間中黙りこくり、彼を顎で示した俺のことを咎めもしなかった。おやまあ。いったいいまの彼には何が見えているのやら。

「同級生の……笹目ささめさんという男性が、蘇芳さんのおうちから死神を連れ去ったと」

「端的に言うと、そういう話になります」

「死神は、具体的にどんなふうに蘇芳さんのおうちを守ってくれていたんですか? ……あーつまり、いなくなっちゃって困ることってあったんですか? なんか、死神って物騒くないです?」

「弟さんは好奇心旺盛でいらっしゃる、なるほど、市岡先生があなたを連れてきた理由が分かってきましたよ」

 おじさんはくすぐったそうに笑い、その笑い方が50代のちょっと太り肉のどこにでもいるふつうのおじさんのそれとは少し離れた艶を含んだものであることに気付き、首の後ろがぞわりとした。ふうん。なるほど。

「死神は、その名の通り死を管理する神です。先ほどもお話ししましたが、火事で焼けてしまった我が家には人間の寿命を管理するための隠し部屋が存在していました」

「残り寿命が分かる蝋燭ーーってやつですよね。落語みたい」

「まさに。落語の通りなんですよ。寿命が尽きる人間の蝋燭の火を消す、また亡くなる予定ではない人間の火を守る、それが死神の勤めでした」

「そんな神様が家にいても、蘇芳さん家には特に何の得もないのでは?」

「わたし」

 と、唐突に口を開いたのはお姉さんだと紹介された女性だった。喜世花さんだっけ。

「幾つに見えますか」

「え……」

 デリカシーを母親の腹の中に置いてきたことで名高い俺にも言えることと言えないことがある。思わず口を噤んだ俺の目を、喜世花さんの茶褐色の瞳がじっと見詰める。ガラス玉のように澄んだ瞳だった。まるで、生きていない、人形の、ような。

「軋味より年上なんですよ。そう……今年で60歳、ぐらいでしょうか」

「……」

 返す言葉を見失う俺の腕を、兄が強く掴んで引いた。俺を睨み上げる彼の目は「だから面倒だと言ったろう」と唸っている。だったらなんで連れてきたのよ、兄ちゃん。

「笹目くんが神様を連れ去ってしまい、私たちの両親は命を失いました。神様をお守りすることができなかったのですから当然の措置ですね。彼らの子どもである私たちもそうなる予定だったのですが……神様が、少しだけ猶予を与えてくださったんです」

 神様、というのは死神のことか。おじさんの話によれば誘拐犯の笹目という人は、死神の隠し部屋に勝手に出入りし、次に死ぬ人間の名前を確認して楽しんでいたのだという。その行為が死神に知られ、笹目はそんなにすぐ死ぬ予定ではなかったけど巻きで火を消されることになった。が、笹目は死神と蘇芳家が思っていたよりも悪知恵がはたらき、他人の蝋燭の火を奪うという手段で生き延び続けた。それで最終的に、蘇芳家全員(父、母、喜世花さん、軋味さん)の蝋燭の火を奪い、それと同時に死神の所有権も笹目に移ったーー

「猶予っていうのは?」

「ご覧いただけば分かると思いますが、軋味はこの通り年齢と外見が釣り合っています。しかしわたしは20代……いえ、笹目くんが我が家を焼いた18の年のまま」

「つまり?」

「お分かりになりません? 神様を取り戻すまで、わたしは生き続けなくてはならないのです。これは罰であり、猶予なのです」

 喜世花さんの目が義眼であるということに、唐突に気付いた。この人はたしかに生きている。若い肉体のままで。だが、部分的には老いて、壊れつつあるのではないのだろうか。死神。俺が知る死神というのは単に他者の命を狩るだけの存在で、神様と呼ばれて崇め奉られるようなものではない。落語でもそうだったろう。だが、蘇芳家では死神が守り神だったのだという。

 おかしい。歪んでる。

「父も、母も、200年生きたそうです」

 おじさんが唐突に言った。もう驚かない。黙って煙を吐く俺に、おじさんがまた婀娜っぽく微笑んだ。

「このままでは私たちの生は100年と持たずに尽きてしまう。お願いします市岡先生、弟さん。神様を取り戻していただけませんか」

「……あのさ」

 答えはなんとなく予想できていたけれど、それでも尋ねないわけにはいかなかった。兄はたぶんそのために俺を連れてきたのだろうから。

「なんでそんなに死神を連れ戻したいんですか。死神が家にいると長生きできるってのはなんとなく分かりました。肉体が年を取る速度が落ちるってのも。でもそれ、そんなにいいことですか?」


 ららぽーとには寄らずに帰路に着いた。あーあ、初売りセールで服買いたかったのに。でも帰りの運転は約束通り俺がした。兄は助手席でくたばっていた。

「ヒサシ」

「ん」

「俺、昨年末に笹目さんらしき人に会ってる」

「あー。見た目15歳から年取ってない自称50代の」

「たぶん自称じゃねえな」

「ん」

「それでおまえは、どう思う」

「んー」

 どう、ねえ。

 その決断を俺にさせたいのか。兄ちゃんも性格悪いね。俺は右手でハンドルを握り、左手で煙草を抜き出しながら、

「死神見つけて殺そ」

 と答えた。兄は力無く笑った。

「おまえならそう言うと思ってた」

「だって蘇芳さん気色悪いもん」

 死神を奉ると長生きができる。他人の人生の長さも見ることができる。それが愉しい、とおじさんは言ったのだ。ガラス玉の目の喜世花さんも微笑んで頷いていた。もうなにも見えないくせに。自分たちは長く生きて、朽ちる他者の生命を眺めるのが死神を守ってきた蘇芳家の権利なのだという。そういうの俺は、ほんとに気色悪いと思う。

「稟ちゃんには何が見えてたの」

「あ?」

「ずっと黙ってたじゃん。何か見えてたんでしょ」

「ああ」

 助手席で半分溶けた氷みたいになっている兄はそれでもどうにか自分の煙草をくわえて火を点け、

「死人がね……」

「蘇芳家の人って人殺しもしてんの?」

「自分たちの手は汚してない。でも死神の判断で本来なら断たれるはずではない寿命が断ち切られる様を、娯楽として楽しんでいた。それが彼らだ。蘇芳さんたちの周りにはたくさんの恨みが……魂が、揺れてたよ」

「ふーん」

 俺にはそっちは見えないから、そう答えるしかなかった。でも兄がここまで具合を悪くしてるってことは、それはきっとかなり嫌な景色だったんだろう。

「笹目さんはどこに住んでんの? 見た目15歳なんだよね?」

「東京からちょっと離れた山の中で新興宗教の教祖みたいになってるね。去年からYouTube始めてちょっと話題になって、蘇芳さんにもそれで存在がバレたんじゃないかな」

「そのチャンネルあとで教えて。明日クルマ借りていい?」

「もう行くのか?」

「行くよ暇だし。稟ちゃんは来なくていいよ」

 明日、ドライブがてら見た目15歳の教祖様を訪ねて、そのまま死神を殺す。死神を殺すことで笹目、蘇芳両者にどのような影響が出るのかを俺は知らない。また、俺自身が死神を殺しきれずに次の宿主になってしまう可能性も、まあなくはない。

「なにかやべーことになったら、稟ちゃんあとは頼むね」

「わかった。……悪いな」

「いーよ。神様殺せるのが俺の取り柄だしね」

 死神がこの世にその一体だけだとも思えないし、ひとりぐらい殺しても大勢に影響はないだろう。ていうこの考え方も蘇芳家と同じっぽくてちょっと嫌だなぁ。今夜が最後の晩餐になるかもしれないから鍋が食べたいなと思った。

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