死神 - 1
神を信じますか?
ああいや、そういう神じゃなくてですね。言葉足らずで申し訳ありません。僕が言ってるのは『死神』のことです。死神、信じますか? 存在すると思いますか?
僕は信じてます。というか見たことがあるんです。ああ、どうしようもないオカルト与太話だと思ったでしょう? 違うんですよ。まあ、最後まで話を聞いてください。
小学生の頃でした。僕は東京のX区というところで生まれて育ちました。家は、まあ、一般家庭だったと思います。会社員の父と、専業主婦の母、それに長男の僕と、長女の妹、次男の弟。玄関には水槽が置いてあって、祭りの金魚掬いで取ってきた金魚がいやに大きく育っていたのを覚えています。
当時の僕の同級生に、Sくんというやつがいました。Sくんはなんというかまあ、典型的な小学生男子で、好きな女の子に意地悪をして泣かせたり、転校生をいじりすぎてそれがいじめだと言われて親を学校に呼び出されたりとか、……典型的というか問題児ですね、これ。僕もSくんのことは面倒なやつだと思ってました。特に仲が良かったわけじゃないです。でも僕の通っていた学校は男子よりも女子の人数が多かったので、休み時間や放課後に一緒に遊べるやつを選り好みできなかったんです。それで、放課後は大抵Sくんに誘われて校庭でサッカーしたり、公園をうろうろしたり、Sくんの家でテレビゲームをしたりなんかしました。Sくんのご家庭は、今思えば結構裕福だったんだと思います。家そのものもでかかったし、庭も広くて、大型犬を放し飼いにしてて。テレビゲームも僕の家にはないようなものをたくさん持ってました。それ目当てでSくんの家に行くやつも多かったです。僕もまあ、そのひとりなんですけど。
夏休みが終わって少し経った頃のことでした。僕は5年生で、その年は寒くなるのがいつもより早かったような記憶があります。僕は、僕以外の何人かの同級生と一緒にSくんの家でゲームをして遊んでました。国内のゲームではなかった気がします。戦場を駆け巡る兵士になってロケットランチャーをぶっ放す、そんなゲームでした。物珍しさもあって僕もほかの同級生もSくんに誘われるがままに毎日のように彼の家に通っていました。
通っていたから、Sくんの家のトイレの場所も台所の場所も自分の家みたいに把握していました。Sくんの家はさっきも言った通り裕福で、トイレは一階にひとつ、二階にふたつあって、僕たちはおもにSくんの自室がある二階のトイレを借りることが多かったです。あと二階には小さなキッチンと冷蔵庫があって、そこに入っている飲み物や食べ物を好きに取り出して良いのも魅力的でした。僕たちを家に呼ぶ時、Sくんはいつもこう言いました。
「二階にあるものは好きに使っていいよ。でも一階には降りないでね」
どうして? と尋ねた同級生にSくんは肩口まで伸びた黒髪をふわっと揺らして顔を傾けました。
「神様がいるから、触るとママが怒るから」
一階はSくんのご両親のテリトリーなのだろうということで僕たちは納得していました。
でも。その日。二階のトイレが壊れていたんです。それもふたつとも。そんなことあるでしょうか。でもSくんの部屋からほど近い方の扉には『修理待ち』というメモが貼られており(おそらくSくんのご両親のどちらかの筆跡だったのでしょう。見たことのない文字でした)、仕方ないのでキッチンを通り過ぎてSくんのお姉さんの部屋の近くにあるトイレを使おうとしたのですが、そちらは扉が開きもしないのです。
尿意を我慢しきれなかった僕は、Sくんの部屋に戻って許可を取る時間さえ惜しくて一階に通じる階段を駆け降りました。遊びに来る時には一階など見もせず真っ直ぐSくんの部屋に向かってしまうので間取りはまったく分かりませんでしたが、まあ、二階のトイレと同じような場所に一階のトイレもあるだろうと踏んだのです。
結果から言えば、僕は粗相をせずに済みました。しかし洗った手をズボンのポケットに突っ込んであったハンカチで拭きながら個室を出た僕は、その場で立ち尽くしてしまいました。ここがどこなのか分からなくなってしまったのです。おかしいでしょう? ついさっき二階から階段を使って一階に降りてきて、一階のトイレに飛び込んできたというのに。来た通りに戻ればいいだけなのです。それなのに、この家の廊下はこんなに暗かったでしょうか。壁はこれほどまでに陰気な灰色だったでしょうか。なにも分かりません。どこまでも続く灰色の壁には木の棚が取り付けてあり、その上には蝋燭が……火のついた蝋燭が無数に置かれているのです。僕が個室に入る前は、こんなものなかったのに。
いや、トイレに行きたすぎて見落としていただけなのかもしれない。というかそうでなくては困る。僕は気合を入れて、廊下の右側に向かって歩き始めました。たしか階段はそちらがわにあったはずだからです。もしも、万が一、なかったとしても、右側に向かえば玄関があるはずなのです。僕の頭の中にあるSくんの家の間取りはそんなふうになっていました。玄関まで戻ってしまえば、そこからSくんの部屋に行くのは簡単です。それなのに、灰色の廊下は一向に終わりません。どこまでもどこまでも続くのです。さすがに泣きそうになりました。蝋燭の火も怖いし、いったいこの家はどうなっているのでしょう……。
その時でした。僕が死神を見たのは。進行方向に人影のようなものが揺れたのです。Sくんか、もしくはSくんのお母さんかとにかくこの家の関係者だと思って大声で自分の所在を示そうとした僕は、両手で口を押さえました。その人影には足がなかったのです。
目の錯覚であればどれほど良かったでしょう。黒いローブのようなものを被ったその人影はゆらゆらと揺れながら壁際の蝋燭を白い人差し指で指し示し、何やらぶつぶつと独り言を言っているようでした。口を押さえて息を止めた僕はそのままその場にしゃがみ込み、その人影が僕に気付かず立ち去ることをひたすらに祈りました。
人影の指先が、蝋燭の火を摘んで消すヂヂ、という音が奇妙に大きく響きました。
人影がいなくなったのを確認した僕は、その指先がいったいどの蝋燭の火を消したのかを知りたくて仕方なくなっていました。足を忍ばせて人影がいた方向に進み、壁際の蝋燭を覗き込みます。白い蝋燭は半分ほど溶けてしまっていて、火はもうどこにもありませんでした。蝋燭の足元には白いシールが貼られていて、そこには名前が書かれていました。
クラスメイトのMちゃんのおばあちゃんの名前でした。
翌日、Mちゃんのおばあちゃんが入院先の病院で亡くなったという話を担任から聞きました。Mちゃんはもちろん学校を休んでいました。おばあちゃんは庭仕事をしている最中に転んで脚の骨を折り、そのまま入院していたという話でした。死因までは教えてもらえませんでしたが……僕が昨日の人影を思い出したのは言うまでもありません。
あのあと、灰色の廊下をまっすぐ歩き続けたらSくんの家の玄関に辿り着けたのです。それから僕は二階のSくんの部屋に戻り、お腹が痛いからもう帰ると告げました。長時間トイレに篭っていた(とSくんたちは思っている)こともあり、気をつけて帰りなねと言われただけでした。
その後の僕ですが、Sくんとの交流は変わりませんでした。変わったのは、毎回必ず一階のトイレを使うようになったということです。灰色の壁に辿り着くこともあれば、いつも通りのSくんの家の壁を見ることもありました。灰色の壁に辿り着いた時には、必ず死神の姿を見ました。黒いローブを着たその人影は、僕の目の前で最低ひとつ、そうでない時には数えきれないほどの蝋燭の火を摘んで消しました。僕は毎回消された蝋燭の名前を見て、翌日以降の新聞を舐めるように確認しました。事故、自殺、殺人、様々な手段で人が死んでいました。消された蝋燭の持ち主と同じ名前の人間が、死んでいました。
年末、いや違うな、クリスマス。いつも通り訪ねたSくんの家で、同級生たちとケーキなどを食べながらゲームをし(そういえばあのケーキはいったい誰が準備したものだったのでしょう? 分かりません)、それから僕はいつも通りに一階のトイレを使いました。扉を開くと、そこには灰色の壁がありました。
息を殺して待つ僕の目の前に、黒いローブの人影が揺れました。死神です。いつもは長々と独り言を言う(僕には一度も聞き取れませんでしたが、たしかに何かを言っていました)人影が、その日は迷わずひとつの蝋燭の火を消して去りました。僕は立ち上がり、蝋燭の足元の名前を確認しました。
僕の名前でした。
心臓が止まるかと思いました。なぜ、僕の名前が? 訳が分かりません。僕の蝋燭はまだ真新しくて綺麗で、火を消される理由なんて全然ないように思えました。正直かなり混乱していましたが、僕の右手は勝手に自分の蝋燭を掴んでいました。左手でシールを剥がし、灰色の廊下を見回します。できるだけ短い蝋燭を探しました。もうまもなく燃え尽きそうな蝋燭を。
ようやく見つけた短い蝋燭の足元にはまったく知らない女性の名前が書かれていましたが、僕は迷いませんでした。火がついたままの蝋燭を持ち上げ、溶けた蝋を使って僕の蝋燭に繋げます。それから女性のシールを剥がし、代わりに僕のシールを貼ります。女性のシールはもともと僕の蝋燭があった場所に移動させました。
翌日、僕は死にませんでした。でも、新聞を確認する勇気はありませんでした。僕の代わりに誰かが死んだかもしれない。死ななかったかもしれない。分かりません。分からないけれど、僕は生き延びたのです。
その後、中学を卒業するまで、Sくんとの関係は続きました。僕の蝋燭は何度も火を消されましたが、その度に同じ手を使って火を再生させました。中学を卒業するまで、と言ったのは、高校で進路が別れたからではありません。このいたちごっこにうんざりした僕が、僕の蝋燭をSくんとSくん一家の蝋燭全部と繋げたからです。
Sくんの高校進学を待たずにS家は謎の火事で全焼し、家族4人は焼け死にました。
ねえ弁護士さん、死神を信じますか? この話を聞いてもまだ信じられませんか? 僕、いま幾つに見えますか? 20歳? 30歳? 正直に言ってもらって構わないんですよ。15歳に見えるでしょう。そうなんです、あの火事を境に僕の時間は止まってしまった。死神はもう僕の火を消せない。けれど、ねえ、見えませんか? やつは今も僕の周りをうろついているんです。どうにかして僕の魂を狩ってやろうって。でも僕には、S家全員から奪った寿命がありますからね。15歳の姿のままでいったいいつまで生きていればいいのか……死神がうまくやって僕を殺してくれればいいんですけど、まったく……。
ああ、僕、今年で55歳になります。
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