間宮探偵事務所
カン、カン、と硬いもので硬いものを叩く音が聞こえる。私の傍らに立つ男が柄の長いハンマーで足元の石を叩いている。ただの石ではない。神社に奉納されている、由緒正しい大きな石だ。御神体のようなものなのかもしれない。巻かれていた
私は探偵である。名は
依頼主は女子高校生だった。お揃いの制服を着たふたりの少女が、日曜日の朝9時に私の事務所を訪ねてきた。雑居ビルの3階に事務所、4階に自宅がある身なので、アポ無し飛び込み案件はいつでも大歓迎だ。しかし朝9時は少しばかり早かった。軽くファンデを叩き眉毛を描き、浴室で乾かしてあったワイシャツにデニムを履いた姿で事務所に現れた私を見て、少女たちはひどく萎縮した様子で頭を下げた。おやすみ中にごめんなさい、と背の高い方が言い、いえいえ、と私は応じた。コーヒーと紅茶どっちがいいですかと尋ねたら、相談料は幾らになりますかと背の高い方に重ねて問われた。そうねえ。小首を傾げて見せた私はできるだけ愛想の良い笑みを浮かべ、お話聞くだけなら無料、と答えた。少女たちはようやく安堵の表情を浮かべ、紅茶が飲みたいですと声を揃えた。先日の出張時に手に入れた、真新しい紅茶缶を開ける。
来客用のソファに腰を下ろした少女たちは一瞬視線を交わし、
「
「
とそれぞれ名乗った。背の高い黒髪ロングが野々瀬、小柄なショートヘアが加治。名乗りを終えたふたりは私が何も言う前に鞄から生徒手帳を取り出してテーブルの上に広げた。この事務所から、電車で1時間もかかる場所にある女子高の生徒のようだ。
「遠くなかったですか?」
「……遠かったです、でも」
「女の探偵さん、近くで見つからなくて……」
加治、野々瀬の順で応じる。なるほど。案件は何だろう。あまり良い想像ではないが、大人の男に何か嫌がらせや暴力を振るわれてその証拠を探しているとか? だとしたらたしかに、男の同業者には言い難いだろう。それに、保護者抜きのふたりきりでこんなところに来ているというのも気になる。
「お話、伺えますか」
「あの……」
「大丈夫、自分で言う」
「でも野々瀬」
「探偵さん、私、ストーカーに遭ってるんです」
「……」
嫌な想像が当たってしまったなと思う。さらに、この先は、たぶん。
「念のため、ですが。保護者の方や、学校の方に相談などは?」
「したんですけど……」
野々瀬の端正な、最近テレビで良く見る若手の男性俳優にこういう子がいたな、と思い出すような顔立ちが歪む。
「先生、聞いてくれなくて」
「聞いてくれない」
「私が悪いんです。私が悪い生徒だから、嘘だって決め付けて」
「悪い生徒?」
野々瀬からは煙草の匂いはしない。制服も着崩していないし、黒髪ロングのすっぴん美形は所謂教育関係者のお気に入りになるようなビジュアルではなかろうか。邪推か。
「私……パパ活してて」
「ほう」
「学校にもバレて。停学になってて」
「ふむ」
「最近また学校行き始めて。でもストーカーの話しても、先生たちちゃんと聞いてくれなくて」
「うーん」
そのパパ活の相手がストーカーなのではないか? 安直か? ところで傍らで紅茶を飲み干している加治はこの話にどう関わってくるんだ?
「パパとはもう別れてるんです」
「間違いなく?」
「はい。ていうか、……塾の先生だったから」
おお。すごい。
「転勤になったから、ストーカーとか無理なんです、たぶん」
「なるほど」
話に親が出てこないな。別に構わないのだが。
「ストーカー行為が始まったのは、いつから?」
「……停学になってからです」
「具体的には」
「7月に入ったぐらいから」
「何をされたのか聞いてもいいですか?」
野々瀬が薄いくちびるを噛んで俯く。コンドーム、と加治が本題が始まってから初めて口を開いた。
「玄関に、ぶら下がってて。中に、血が、入ってて」
加治の声に後押しされるように野々瀬が言った。悪質。
「警察には?」
「通報しました」
「ご自身で? それとも」
「自分でです」
語尾が震えている。無理もない。そんな野々瀬を案ずるような表情で、加治が再び声を上げる。
「野々瀬から連絡来て、家行って、110番しよってすすめて」
「警察は来ました?」
「はい。でも」
「でも?」
「来たら、なくなってて……」
「え?」
「コンドーム。消えちゃったんです。悪戯しちゃ駄目って注意されました」
それが。
「もしかして複数回?」
「……です」
「それ以外には?」
野々瀬と加治がまた視線を交わす。
「なんか、見張られてる感じがずっとしてて……」
「野々瀬、ピンポンも」
「そうだ、チャイム。うちオートロックなんですけど、マンション、何回もピンポン来て、でも外見ると誰もいないんです」
この案件、果たして一介の探偵にできることがあるのだろうか、と私は少し悩む。彼女たちが私に何を求めているかにもよるが。
いや、しかし、こればかりはこちらから尋ねるしかないか。
「野々瀬さん、保護者の方は?」
「……」
血管が透けて見えそうな青白い目蓋を静かに伏せた野々瀬が、やがて意を決した様子で応じた。
「いないです。ていうか、いるけど外国……です」
「存在はしているけど、すぐには頼りにならない?」
「ていうか、たぶん、ママ、怒ってるから。パパ活したこと。いい学校入れたのになにやってるのってすごい怒られて、それから喋ってないです」
「なるほど」
事態はあまり良くない。私にできることは然程多くないが、探偵事務所などという得体の知れない場所に藁にも縋る気持ちでやって来た若者たちの気持ちを無碍にするような真似もできない。
「少し、調べてみましょうか」
言うと、野々瀬と加治は揃って目を輝かせた。
「いいんですか!?」
「ええ。とにかく、まずはその……血液の件ですね。本当に野々瀬さんの元パパが関わっていないのか、そこから調べようと思います」
お代は結果が出てからでいいですよと付け加えると、少女たちはようやく心からと思えるような笑みを浮かべた。さて、仕事だ。
勘弁してください、こっちは何もかも失うところだったんですよ、と
「野々瀬の件は、もう終わったことなのに……なんで探偵なんか……」
「勝手に終わらせないでくださいよ。こっちは依頼を受けてますんでね」
「誰が依頼なんか……まさか野々瀬の親ですか?」
「守秘義務がありますので」
「こっちが幾ら払ったと思ってるんですか? 嫁とも離婚寸前まで行ったし、もう勘弁してくださいよ」
中田は冴えない上に図々しい男であった。いちばん嫌いなタイプだ。私はできるだけ高らかに舌打ちをし、ふところから取り出した煙草に火を点けた。私のクルマの助手席に座った中田は、露骨に嫌な顔をした。
「離婚なさらなかったんですねえ。配偶者の方は、ずいぶんお優しいようで」
「煙草、消してください。においがつくとまた疑われる……」
「お断りします。幾ら払ったと思う、というのは、パパ活代のことですか? それとも慰謝料?」
パパ活、という響きに中田は明らかに顔色を変えた。おや?
「パパ活……なんかじゃないですよ。わたしと野々瀬は交際していたんです」
はあ〜〜〜〜〜?
駄目だなこいつ。この件が終わったら勤務先に匿名で通報してやろ。いい年こいた既婚男性が生徒の少女に金銭渡して関係持っておいて交際だと言い張るとか、害悪でしかない。
「それより、お尋ねしたいのはストーカーの件です」
「ストーカー……!? わたしがですか!?」
中田が声を荒らげ、マスク越しに唾が飛んでくるような気がしてひどく不快な気持ちになる。野々瀬は本当に、こんな男の何が良かったんだ? 凄まじい高額を提示されても同じ空間にいるのすら嫌なタイプだ。
「詳しくはお話できませんが……」
「血、血が入ったビニール袋じゃないですか」
「!?」
中田の目は据わっていた。だが声音は冷静だった。私は、本音を言えばかなり戸惑っていた。まだ血液のケの字も出していないのに。
「……なんですか、それ。血が入った袋?」
「転勤前にやられたんですよ。玄関のドアノブにぶら下がってて……嫁が見つけて大騒ぎになりました」
「意味不明ですね。そんなことをされる心当たりは?」
「の、野々瀬に決まってるでしょう!」
中田が声を張り上げる。うるさい。私は無言で運転席の窓を開ける。中田はハッとした様子で口を噤み、それから唸るような調子で続けた。
「少し前から別れ話をされてたんです、野々瀬から」
「はあ」
「でもわたしは断っていて……そうしたら、玄関に血がたっぷり入った袋です。悪質すぎる」
生徒相手にパパ活やってたやつに悪質とか言う権利があるのだろうかと思いつつ、警察には? と尋ねる。
「言えるはずないでしょう! 嫁がパニックになって、野々瀬とのことがバレて、それで職場に……」
「はあ。ちなみに、いつ頃の話です、それ?」
今年の6月、と中田は吐き捨てるように言った。6月?
「別れ話は、いつから」
「その前、5月の連休あたり」
おかしいな。何かが変だ。胸のあたりに得体の知れない違和感が生じている。煙草を灰皿に放り込み、マスクを口元に戻して私は尋ねた。
「5月に別れ話、あなたは拒み、6月に血液袋、この順番で間違いありませんね?」
「……ええ」
「ほかに何かおかしな出来事は? 仕事が終われば私があなたに関わることは金輪際ありませんので、覚えてること全部吐いてください。隠し事をすると100回でも呼び出しますよ」
口元に手を当てて俯いた中田は、チャイム、と小さく言った。
「俺は見てないけど、嫁が、何回もチャイム鳴らしてくるやつがいるって。変質者じゃないかって」
「……いつ頃です? 血液の前? あと?」
「前だったと思う」
敬語使えクソが、と思いつつ、
「チャイムを鳴らしていたのはどんな人物でしたか? 配偶者の方はご覧になってない?」
「女、って言ってました」
背が低くて髪の短い女、制服着てたって言ってた、と中田は言った。ひどく聞き取り難い声だったし、私は正直、聞かなきゃ良かったと思った。
この案件はおかしい。
『市岡お祓い事務所はただいま臨時休暇をいただいておりまーす! なぜなら
「ふざけてる場合じゃねえんだわヒサシ、なに、沖縄? 稟市先生沖縄にいるの?」
SAから事務所に戻るまで、我慢することができなかった。中田と別れ、帰路を走り出してすぐのSAでクルマを停め、こういった案件に強い弁護士に電話をかけた。だが、スマホのスピーカーから聞こえてきたのは期待していたのとは違う人間の声だった。
『間宮くんご無沙汰〜! 元気? どしたん?』
「ややこしい案件拾っちゃったんだよ! 稟市先生今いないの? なにしてんの?」
『沖縄にでかめの祓いをしに行ったよ〜。スマホはダルいからって置いてっちゃった』
SAのスタバで買ったコーヒーを飲み、煙草に火を点けて深々と溜息を吐く。なんてこと。市岡稟市弁護士は弁護士としても大変有能な人物だが、それ以上にこの世のものではない存在、特にこの世で生きる人間に良からぬことを行う存在を『祓う』能力があることで一部ではかなり高い評価を得ている存在だ。私のもとに転がり込んだ怪異案件を解決してもらったことも、一度や二度ではない。
だが、今電波の向こうに居るのは稟市先生ではない。その弟でフリーターでヒモでベーシストのヒサシだ。
『どしたん? 間宮くんが焦ってんの珍し〜』
「……ちょっと、結構ヤバ案件。マジで稟市先生帰ってこないの? 困ってるんだけど」
『えー、たぶん来週まで帰ってこないよ……ていうか』
たぶん、その瞬間、私とヒサシは、
同じものを見た。
『髪の短い女の子……制服着てる……?』
「ヒサシ!!」
『間宮くんまっすぐ家帰って。俺今から間宮くんの事務所行く。事務所で会おう』
ここは私の事務所から遠く離れた他県のSAなのに。私がここにいるということを、つい先刻まで話をしていた中田周史さえ知らないはずなのに。
どうしてスタバの前にあの日の女学生、加治が立っているんだ。私に手を振っているんだ。
事務所に戻ると夜だった。玄関の前にヒサシがあぐらをかいて待っていた。空になったコーヒーのペットボトルが3本転がっていた。
ご無事で何より、とヒサシは言った。顔は笑っていたが声は笑っていなかった。
彼を事務所に迎え入れ、玄関の鍵をかける。念のためチェーンも。
と、ドアホンの通知ランプがちかちかと光っているのに気付く。ヒサシ以外に来客があったのか。
「見てみ」
ヒサシが言い、私は黙って確認ボタンを押す。
不在通知は7件。そのすべてに、加治が映っていた。
「どういう……」
「ちなみに俺はこの時間からドアの前にいた」
と、ヒサシが1時間前の通知を示して言う。
「誰も来なかった」
「マジでどういうこと……」
「依頼人が来た日の映像も見てみなよ」
言われるがままに来客記録を遡る。容量がパンパンになるまで映像を残しておくタイプのずぼら人間で良かった。日曜日。チャイムを鳴らしているのは、制服姿の黒髪ロングの女学生ーーひとりだけ。
「人間じゃないんだよ。それだけ」
僅かに笑いを含んだ声で呟いたヒサシは来客用ソファに体を投げ出し、
「詳しく聞かせてよ、間宮くん」
と言った。
5月に別れ話、6月にパパ活相手に血液が入ったビニール袋、その後間もなく不道徳な関係が周囲に知られるところとなり野々瀬とパパ活相手は正式に別れ、7月に野々瀬の家に血液が入ったコンドームが届けられ、以降何者かに見張られている気配がある。チャイムも鳴る。ざっくり纏めるとそんな感じだ。私の説明を珍しく黙って聞いたヒサシは、
「間宮くん、その、野々瀬って子に電話とかできる?」
「……できるけど?」
「したらさあ、いっこ訊いてほしいことがあるんだけど」
「なに」
そうして話は初めに戻る。私とヒサシは野々瀬の自宅近くにある神社にいた。普段は宮司のひとりもいない無人の神社なのだが、この地域の人々にはある特色を持つ場所として有名なのだという。
「縁切り神社、ね」
ヒサシに指示されるままに野々瀬に電話をかけ、ひとつだけ質問をした。5月に持ちかけた別れ話を拒まれたあと、神頼みのようなことをしたかどうか。答えはイエス。今まで一度も足を運んだことのない神社に行き、パパ活で得た金を賽銭箱に入れて手を合わせたのだという。
「神様も、親切なんだか意地悪なんだか……」
ゴルフバッグを片手に神社の敷地内を歩き回るヒサシのあとを、私は無言でついて行く。ヒサシがなにを探しているのかは分からない。だが、私にできることはもう何もないのだ。
「あ、これだ」
「え?」
そう広くない敷地の中で、ヒサシはすぐに目当てのものを発見した。それが紙垂の巻かれた石だった。そう大きくはないが、小さいかといえばそれも違う。私とヒサシが力を合わせてようやく持ち上げられる程度のサイズだ。
「はーまったく、神様ってややこしいよねえ」
「は?」
「久しぶりに手を合わされて嬉しかったのかなぁ。でも自分で怪異起こして自分を頼らせるっていうのは、ちょっと駄目だよ、」
ねっ、と言いながらヒサシはゴルフバッグから取り出したハンマーを一瞬の躊躇もなく石の上に振り下ろした。一発では壊れない。制止する暇すらなかった。石の上に片足を乗せ、ヒサシは何度も何度もハンマーを叩き付ける。
どの程度の時間が経ったのかは分からない。気がついたら石は粉々になっていた。ヒサシが手にしたハンマーも、長い柄は折れ、金属製の頭部はひしゃげていた。
「はい、おしまい」
「おしまいって」
「もう何も起きないよ。たぶんね。そうでしょ」
と、ヒサシが目を向けた先には加治が立っている。おそらく。情けない話だが、私には彼女を見ることができなかった。加治が、加治と名乗って野々瀬とともに私の事務所を訪れた神のようなものが、どれほどの怒りに満ちているのかを正面から見るのが恐ろしかったのだ。
数日が経った。市岡ヒサシによるあまりに暴力的な事態収拾ののち、私はすぐに野々瀬に連絡を入れることができなかった。詳しくは言えませんがたぶんもうチャイムは鳴らないし血の入ったコンドームが現れることもないと思います、というのは探偵としてあまりにもあんまりな報告だ。どうするべきかと頭を抱えていた平日の夕刻、その、野々瀬が事務所に現れた。
お久しぶり、ちょうど連絡をしようと思っていたところなんです、と言おうとする私の胸に飛び込んできた野々瀬は泣いていた。私よりだいぶ長身の彼女は呆気に取られる私の腕の中でしばらく涙を流し、そして言った。
「加治がいなくなっちゃったんです。探偵さん、探してもらえませんか?」
そんな話があるか。
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