タチキル
犀くんは俺の相方でラッパーだ。俺はDJである。日本語ラップブームに乗って中部地方の片隅でふたりで活動を開始し、犀くんは所謂MCバトルというやつにも頻繁に参加し、昨年末遂にかなり大きい大会での優勝を勝ち取り、時代の寵児のひとりとなった。日本語ラップ界に時代の寵児は多い。「俺なんかすぐ飽きられるよ」と犀くんは時折くちびるの端を歪めて笑う。それは自嘲とか自虐ではなく、たぶん彼の本心で、犀くんは猫も杓子も韻を踏む『日本語ラップブーム』がいずれ終わるということを理解している、のだと思う。
すべてが終わってしまった時に俺は犀くんに何をしてあげられるかな、なんてことを俺は犀くんの笑顔を見ながらいつも考えている。
さて置き。
犀くんの周りに生きている人間ではないなにかが纏わりついているということに気付いたのは、俺が初めてではないだろう。俺も別に「霊感あります!」と大声で言えるほどの才能を持っているわけではないが、あっ今すれ違った人死んでるな、とか、このクラブフロア一面に黒猫がいるけどどうなっとるんじゃ、とか思う程度のアレで、そういうものを察知できる人は世の中それなりに多いと思う。言わないだけで。頭がおかしいと思われるか、SNSで無闇矢鱈と話題にされてくたびれるかのどっちかだからね。俺も、実の姉以外の人間には俺に見えるものについては伝えていない。姉はとあるバンドのギタリストで基本的に日本国内にいなくて、今は例のウイルスの関係もあって余計に帰国が伸びているのでこの手の話をぶち撒けるには丁度いい相手なのだ。
『そのぉ、犀くんちゅう子は』
オンライン通話で姉が言う。27インチiMacのディスプレイにうつるのは金髪の坊主頭、うなじから背中、両腕に至るまででかでかと地獄太夫の刺青を入れた姉は身内の俺から見てもかなりの迫力がある。背もちっちゃくて痩せぎすなのに、とにかくなんかすごい。
『誰かに恨まれるよなことしとるんか』
「しちょらんよ。犀くんは俺が知っとる人間の中でいちばんええやつじゃ」
『ほいじゃあどうして……』
「うん」
いつだったかのクラブイベントの時だった。あー、肩凝る、とステージを終えるなり犀くんがボヤいたのだ。そんなに緊張したのかと機材を片付けていた俺は犀くんの方を振り返り、一瞬言葉を失った。犀くんの太い首から死んだカラスがぶら下がっていたのだ。ネックレスみたいに。ラッパーが良く言うブリンブリンのアレみたいに。慌てて、ほとんど反射的に彼の肩を強く叩いた。そうしたらカラスは黒い霧になって消えて、犀くんは「あれ、
そんなことが、不定期に繰り返されるようになった。死んだ生き物がネックレスになってることがいちばん多かったけど、ヘドロみたいな女が犀くんを背中から抱いていたこともあったし、クラブの床が割れてそこから無数の腕が伸びて彼の脚を掴んでいたこともあった。
「なんちゅうかこう……悪意とか敵意みたいのはなさそうな……」
『なんじゃそら』
「みんな犀くんのことが好きなんよ。たぶん。だから、連れて行こうとしとるちゅうか」
『一応訊くけど、
「……」
俺もそう思ってるから、と言おうとしてやめた。俺には犀くんしかおらんのよ。
そういうのに詳しいやつを紹介する、と姉が言ってその日の通話は終わった。で翌日、見知らぬ番号からiPhoneに着信があった。相手は男で、
たしかに今日は市内のクラブでデイイベントがある。12時開場13時開演、MC犀とDJナインフィンガーの出番は15時から30分。俺は今当該クラブの楽屋にいる。
迎えに行けませんけどと言ったら行ったことあるとこだから大丈夫ですよーゲストパスだけ用意しといてくださーいと返された。俺黒い服で赤いリュック背負って行くからすぐ会えると思いますよろしくお願いしまあす。了解ですと答えて通話を終えた。
「どした?」
喫煙所から戻ってきた犀くんが俺の顔を覗き込んでいる。いや、と首を横に振る。今はまだ犀くんの周りに変なものは見えない。というかもしかしたら今日は何も出ないかもしれない。いつもいるわけじゃないんだ。市岡……さんは、今日何の収穫もなかったらどうするつもりなんだろう。
壁の時計は午前11時半を少し過ぎたところだ。
正午過ぎ、12時半よりちょっとだけ早くその男は現れた。それなりに長身の部類に入る俺よりも更に上背があり(190センチ近いのでは?)、通話の際に言っていた通りダークグレーのオーバーサイズTシャツにブラックジーンズ、足元は裸足に赤いサンダルで、背中には中に何も入っていなさそうなリュックサックを背負っていた。マスクはなぜか不織布のグリーンだった。
「どうもどうも市岡です。えーと、DJ……」
「
「ほんとは兄が来る予定だったんですけど、すみません、裁判が入りまして」
「は?」
「弁護士なんですよね。で、代打俺。でも
マスクをしていても分かる、市岡さんはかなりの美男だ。微笑を浮かべた拍子に細められた切れ長の眼がいやに色っぽい。
「ナイくん? 誰?」
「あー」
「あ、MC犀さんですか? どうも、市岡と申しますはじめまして」
受付に顔を覗かせた白マスクにアロハシャツ、古着のデニムを履いた格好の犀くんに市岡さんがぺこりと頭を下げる。犀くんは、何の事情も聞かされていない犀くんは一瞬小首を傾げ、それから同じように頭を下げた。
「犀です。ナイくんの……?」
お友達? とでも尋ねようとしたのだろう。市岡さんはまたふにゃんと笑って、お姉さんのお友達です、ちょっと仕事で、うふふ、と笑った。
「あ、バンド関係の?」
「俺ベーシストなんです〜」
「花衛さんと同じじゃん、ナイ」
「ん、ほうじゃね」
俺は、犀くんに、犀くんの周りにおかしなものが見えるということを一度も伝えていない。俺が手で払ったり、フロアから伸びる手を踏ん付けたりするだけで対処できてきたからだ。わざわざそんな話をして……変なやつだと思われる必要なんかない。
「ライブ期待してますよ〜」
「いやいやそんな……恐縮です、はは」
市岡さんは俺や犀くんより5つほど年上だろう。見たところ本当に顔が綺麗な普通の人、いや、異常に顔が綺麗な人間にしか見えないのだが。姉はこの人をここに寄越してどうするつもりなのだろう。それ以前に先ほど「ほんとは兄が来る予定だった」とか言ってなかったか? こういう件の本命は市岡さんの兄なのか? 名前も知らないけど、その人の方がお祓いがうまいのではないのか?
13時、開演。犀くんは烏龍茶を片手にステージを眺めている。久しぶりのクラブイベントということもあり、チケットは完売。マスクを外したり声を出したりすることはできないが、お客さんも皆楽しそうだ。市岡さんはビールを飲んでいる。えっ飲酒。
14時半、俺と犀くんは一旦楽屋に引き上げる。ちらりと市岡さんの様子を窺ったら、バーカンでクラブの店長と楽しげに雑談中だった。大丈夫なんだろうか。
15時。俺と犀くんの時間。MC犀とDJナインフィンガー。俺は子どもの頃の事故で左手の指が一本ない。それで名乗っているのがこの名前。指が足りなくてもDJプレイはできる。昔はピアノを弾いていた。バイオリンも。俺ん家は地元でも有名な音楽一家だった。地元は今住んでるこの街ではないけれど。昨年のMCバトルを制覇した犀くんのステージというだけあって、お客さんも盛り上がっている。気持ちがいい。俺は犀くんのラップが好きだ。高校受験を機にこの街に引っ越してきた俺と、いちばん初めに仲良くなったのが犀くんだ。彼はその頃からラップをやっていたし、自分でビートを作ったりもしていた。此枝もやってみたら? と言われなかったら、今の俺はDJやってない。
30分後。俺たちはステージを降りる。楽屋を出てまっすぐにバーカンに向かう犀くんの首に、縄のようなものがかかっていると不意に気付く。背筋が冷える。慌てて辺りを見回すが誰も気付いていないようだ。犀くんが歩みを進めれば進めるほど縄の丸い部分が小さくなっていく。縄の端は……出どころは……
「天井」
市岡さんの声だった。どこから登場したのか、どこから取り出したのか分からない馬鹿でかい裁ち鋏みたいなやつで、市岡さんは犀くんと天井を繋いでいた縄を切断した。
ギャアア、という歪んだ声が聞こえたような気がした。縄はいつも通り黒い霧になって消えた。
たぶん一生続くと思います、と市岡さんは言った。俺と市岡さんはクラブから程近い駅にいた。時刻は18時。デイイベントだったから17時には全部終わった。犀くんには先に帰ってもらった。
「市岡さんは……もう帰るんですか」
「帰ります。明日は仕事なので」
「犀くんのアレはなんなんすか」
「わかりません。でもたぶん、一生続きます」
だからこれを、と市岡さんはぺしゃんこのリュックから茶封筒を取り出して俺に握らせた。重い。
「鋏です」
「は?」
「俺がさっき使った鋏の小さい版。ああいうのを切ったり追い払ったりできます。花見さんが持ってるのがいちばんいいでしょ」
「じゃけど、狙われとんのは犀くん……」
「犀さんには見えてないから、見えてる友達が持ってる方が安全です。あれがなんなのかはこう……分かる人には分かるんだろうけど、俺には分かんないし、それに花見さんは犀さんのことが好きなんでしょう?」
「……まあ」
「好きな人のことは自力で守ってください。花見さんにはどうやらちょっとだけ祓いの力もあるようだし。また何かあったら電話ください」
そう言い置いて、市岡さんは新幹線に乗って去って行った。
茶封筒の中にはたしかに小さな裁ち切り鋏が入っていた。
これで俺の喉を突いたら、と不意に思う。
犀くんはたぶん、ありとあらゆる怪異から解放されるんだろうな。なんとなく、漠然とではあるけどそんな気がする。いざとなったらそうしようと心に決めて、犀くんに「市岡さん帰ったから自宅打ち上げしよう」とLINEを送る。
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