市岡奇譚

ヴェンステルのこと

 毎日仕事をして、家に帰って飯を食って風呂に入って寝る。就寝の直前に家全体がぎしぎしと軋むということに気付いたのは、ごく最近だ。初めはちいさな地震でも起きているのかと思い貴重品を枕元に置いて布団に入っていたのだが、スマートフォンには私が住んでいる地域で地震が発生しているという情報は流れてこないし、SNSなどを覗いても誰も地震の話などしていない。気のせいだろうか。だが軋む。毎日のように軋む。正直鬱陶しいのでその筋のあれこれに詳しい友人に連絡をしてみた。すぐに「家鳴りやなりだね」という返信が来た。家鳴り?

『西洋で言うところのみたいなもんよ』

「何も飛んだりしてないぞ」

『みたいなもんつってんじゃん。事故物件に住んでるの、おまえ?』

「いや」

 違うと思う、たぶん。良く分からない。だがそれなりに長くは住んでいて、長く住めば持ち物も増えて、その整理も兼ねて引っ越しをしようかと考えていたところではある。

『引っ越し。いいね。原因が家なのかおまえなのかシロクロ付けやすい』

「嫌な言い方をするな。心当たりがない」

『なくても来るのが怪異だぜ。気をつけて』

 家鳴り。ポルターガイスト。事故物件。どれもそれほど怖くはないが面倒臭い。翌日の仕事帰りに不動産屋に足を運び、今住んでいる場所からそれほど離れていない築浅のマンションを幾つか紹介してもらった。候補を絞ったところで交渉と内見。まあまあ悪くない条件で新居はすぐに決まった。


 ペット可の物件だった。


宍戸ししどくん、猫飼わない?』

「あ?」

 家鳴りについての説明をしてくれた友人の弟から連絡が入った。何事かと思ったが、大して驚かない。私が引っ越しをしたことも、新居がペット可物件であることもまだ誰にも伝えていないが、言われなくても勝手に知って話をしてくるやつがいる。そういう特殊能力を持った連中だ。大学の同輩である市岡稟市いちおかりんいちとその弟のヒサシはに該当する。

「猫?」

『ペット飼えるとこに越したんでしょ。おすすめのかわいこちゃんがいるんだけどなー』

「……」

 猫。興味がないわけではない。仕事柄家にいたりいなかったり、いる時はずっといたり、いない時は丸一日以上帰ってこなかったりする、私はそういうタイプの人間だ。犬を飼うのには向いてないと思う。でも猫の中にはそういう人間の生活リズムに慣れてくれる個体もいる、と聞いたことがある。


 ヒサシの言うところの「かわいこちゃん」と面会すべく日程を擦り合わせる。新居までクルマで迎えに来たヒサシに連れられて来たのは、埼玉県内の小さな保護猫カフェだった。

「こんちは〜」

「あ、市岡くん、こんにちは。そちらが……?」

「言ってた人です。宍戸くん」

 事前にどう説明されていたのかは分からないが、取り敢えず名刺を差し出して自己紹介をする。

「演劇のお仕事を……なるほど」

 猫カフェのオーナーだという女性、由良ゆらさんはそう呟いて薄いくちびるを指先で撫でた。由良さん、かわいこちゃん元気? 俺も早く会いたい! とヒサシが弾んだ声を上げる。私やヒサシよりだいぶ小柄で明るい茶髪をお団子にした由良さんは、そうですね、どうぞ、と私たちを店の奥に案内した。

 カフェスペースの奥の部屋にはまだカフェに出られない猫たち、保護されたばかりで人馴れしていないとか、伝染する病気を持っているために隔離されているとか、そういう個体がケージの中で各々好きなように過ごしていた。猫。かわいいな。どの猫がヒサシおすすめのかわいこちゃんなのかは分からないが、私の目にはどの猫も愛らしく映った。

「じゃじゃん! この子たち! どう?」

 由良さんではなくヒサシが明るく言い、ひとつのケージを示す。仔猫がいた。茶色、白、黒、あとなんだかいろんな色が混ざったような毛並みの仔猫……全部で4匹。皆興味津々でこちらを見上げている。

「こねこ……」

「そう。先週保護されたばっか、だよね由良さん?」

「うん。あの、先週大雨でちょっと大変だったじゃないですか。その時にこの子たちに餌をあげてた商店街の方たちから要請があって保護したんですけど……」

 その大雨の時期私はひとり黙々と引っ越し作業を行なっていた。単身者の割に荷物が多くて、詰めるのも解くのも大変だったのだ。

「こねこか……」

「仔猫はやだ?」

 ヒサシが顔を覗き込んでくる。背ばかりやたらと高い彼にはパーソナルスペースという概念がないので、平気でこんなふうに近付いてくる。

「嫌ではない。が、来週から新しい現場の打ち合わせがある」

「つまり、仔猫ちゃんのお世話をずっとはできない、と」

「ああ」

「そうですか……」

 残念そうに肩を落とす由良さんはヒサシに私のことをどんな風に紹介されたのだろう。こんなにがっかりするということは、相当信頼に足る人間としてプレゼンされてしまったのか。罪悪感が胸に渦巻く。

「そっちは?」

「え?」

「隣のケージ……」

 不意に気になった。仔猫たちのすぐ隣に置かれたケージ、その中の白い塊。

「あ、その子はパパちゃんですね」

「パパ?」

 由良さんの言葉に首を傾げると、この仔猫たちのお父さんなんです、と彼女は笑顔で続けた。パパちゃん、と呼ばれた白い猫がのったりとこちらを向く。左目がなかった。右目は青い。

「穏やかでいい子なんですけど……野良時代は結構喧嘩とかしてたみたいで」

「目」

「も、その、喧嘩で……」

 眼球そのものを損傷して、摘出したということだろうか。仔猫たちを保護した時に両親に当たる成猫も捕まえ、現在里親を探している最中なのだという。

「こねこは」

 少し考えて、私は言った。

「母猫と一緒に引き取れる人の元へ行くべきでしょう」

「んー……ま、そうだね。難しいんだけどね、それが」

 ヒサシが応じる。仔猫だけ飼いたいという人間が多いということか。

「その白い猫は、幾つですか」

「え、パパちゃんですか? 年齢?」

 由良さんの問いに私は首を縦に振る。

「たぶん……3つか4つです。ずっと野良だったから正確なところは分からないんですけど」

「彼は、書籍を齧ったりしますか」

「しょせ、え、えっと、しないと……思います。おもちゃが好きです」

「なるほど。私の家には紙の本が多いんです。それを齧らないでくれるなら、何の問題もないですね」

「えっ宍戸さん、えっ、えっ、市岡くん!?」

 ヒサシは黙ってにやにやしている。仔猫をダシにして本当はこの白猫に会わせたかったのだろう。それぐらいは私にも分かる。

「あの、でも、宍戸さん」

「はい」

「パパちゃん、ちょっと難しい子で……」

「性格が? それとも、目の治療費?」

「というか……うーん……」

 言葉を濁す由良さんからは誠実の匂いがした。『パパちゃん』と呼ばれている白猫には、なにかがあるのだろう。


 まあ、べつに、構わない。


 ヒサシを保証人にして、その場で譲渡契約を交わした。『パパちゃん』は翌週の日曜日、ヒサシの運転するクルマで由良さんとともに我が家にやって来た。由良さんの指示で準備した二階建てのケージ、トイレがふたつ、二種類の餌、Amazonで人気上位に入っていた猫のおもちゃなどでリビングは大変賑やかになった。パパちゃんはこれから1週間のトライアル期間を経て、何も問題がなければ今後一生私と暮らすことになる。

 パパちゃんはすぐに新居に馴染んだ。リビングで仕事をする私の膝に飛び乗っては何やら大声で話を始めたり、おもちゃを追いかけてどこまでも走って行ったり、網戸を擦り抜けて入ってきた虫を捕まえて見せてくれたりした。かわいい猫だ。失われた左目については特にこれといった処置をする必要はないらしい。ほとんど完治している。ただ、眼球がない。それだけだ。


 トライアルを終え、私はパパちゃんを『ヴェン』と名付けた。スウェーデン語では『左』を『ヴェンステル』と発する。


 ヴェンと暮らすようになってひとつきが過ぎた頃、家鳴りが再発するようになった。以前住んでいた家の問題ではなく、私に原因があったということか。築浅の家の壁や床がぎしぎしきいきいと鳴るのは有り体に言って不愉快である。ヴェンも嫌な思いをしていると思っていたのだ、が、

「ヴェン?」

 夜。ほとんど真夜中と称しても良い時間帯。暗い廊下に座るヴェンの左目が、眼球があったはずの場所が発光している。

「どうした、ヴェン」

 にゃあ、とヴェンが大きく口を開く。動物病院の医者にも褒められた綺麗な口の中。白い牙。ピンク色の舌。その舌がぬるりと伸びて、暗闇の中で何かを捕まえた。

 

 ヴェンは満足げな顔でしばらく咀嚼をしていたが、やがて何かをごくんと飲み込んで私の足元に近付いて来た。左目はもう光らない。

 そんなことが、二、三夜続いた。

『由良さんが言ってた難しいっていうのはそれ〜』

 流石に意味が分からなくなってヒサシに連絡をした。起きたことをありのままに話す私に、彼はあっけらかんとした調子で応じた。

『パパちゃん……今はヴェンちゃんか。とにかく彼はさ、食べちゃうんだよね』

「なにを」

『なんか分からんものを。家鳴りなくなったんでしょ?』

「……ああ」

 三夜をかけてヴェンはあの鬱陶しい家鳴りをすべて飲み込んでしまったらしい。そんなことがあっていいのか。

「ヴェンの体に影響はないのか」

『たぶん。野良の頃から地縛霊が出る事故現場とか、自殺者が出たビルの周りとかを飛び回ってたらしいから、好きなんじゃない? 食べるの』

 なるほど。なるほどのひとことで纏めて良い話ではないが、由良さんが譲渡を渋った理由もなんとなくだが分かった。幽霊や怪異を食べるのが趣味の猫だなんて、たしかになかなか貰い手は付かないだろう。

「だが、家鳴りはもうないぞ。ヴェンが食べたいものはもうこの家には」

『あ、それもねー……まあ宍戸くんは別に怖くない人だからいっか。言っちゃうと、ヴェンちゃんは

 それは、なんとなく、そんな気がしていた。最近リビングの窓の外に逆さまに立つ女の影がぼんやりと浮かんでいるのだ。気のせいだと思ってやり過ごしているのだが。それから昨日の朝からマンションのエントランスにマネキンの首のようなものが幾つも並べられているのだが、私以外の誰も気にしている気配がない。

『大丈夫! ある程度美味しく育ったらヴェンちゃんが食べちゃうから!』

「……分かった」

 通話を終えてソファに腰を下ろす私の膝の上にヴェンが嬉しそうに飛び乗ってくる。左目が薄い緑色に発光していて、つまり今日はその日なのだと知る。

「ヴェン、俺は寝てていいか?」

 ふなぁん、とヴェンは応じる。是、という意味だと判断し、スマートフォンを片手に寝室に入る。

 途端、鍵を閉めてあるはずの窓から、ギシギシ、カタ、と音がした。

 怖くはない、怖くはないのだが………


「ヴェーーーン!!」


 窓をこじ開けて入ってくるマネキンの腕をそのまま放置して就寝などできるはずがない。私の声を聞き付けて寝室に飛び込んできたヴェンが、嬉しそうに口を開く。すべてが終わるまでには少し時間がかかるだろう。私はベッドの端に腰を下ろし、いざとなった時用のお清めの塩を右の手元に置いてヴェンの戦いを応援する。察するに、彼は強い。路上で鍛えられた筋肉質の体が躍動し、つやつやと奇妙に白く輝くマネキンの腕を破壊していく。ヴェン、終わったら教えてくれ。もうそろそろ眠たくなってきた。

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