後始末・1
すみれさんが塾で起こした暴行事件については、稟市さんが代理人となって話し合いをすることになった。石瀬さんは殺人と死体遺棄の罪で逮捕され、そちらについては稟市さん、鳴海さん両人と交流がある弁護士を紹介することで話が付いた。
PTAは大騒ぎになった。当たり前だ。生徒の保護者が殺人を犯していたというだけでも大問題なのに、その主人公が校内を我が物顔で跋扈していたPTA会長の
しおりさん、すみれさん姉妹は学校を離れた。今どこで誰とともにどのような生活をしているのか、鳴海さんに尋ねれば分かるだろう。訊いたりはしないけど。
「再犯率の高い犯罪、だそうです」
6月もまもなく終わる。梅雨もぼちぼち明けるだろう。そんな中途半端な晴れ間が覗いたある日、私は
助手席に座った妹尾さんの横顔がぴくりと引き攣る。なんの話ですか、と小さな声で問われた。あなたのお嬢さんの話です、と答えた。妹尾さんのお子さんはうちの美晴と同じ5年生。男の子だ。
「うちには、娘は……」
「石瀬さんの元夫の犯罪が公になって、裁判を受けて、執行猶予付きの判決が下って、それから石瀬さんの長女と再会するまでのあいだに、一年ほどの空白があるんですよ」
「……」
「一年の空白のあいだに、彼は罪を重ねましたね。それを、周りの人々がお金で握り潰したんですよね」
再犯率の高い犯罪だ。また、被害者の意思を無視して踏み躙られることの多い犯罪だ。加害者側の人間は必ずこう言う。「裁判なんて大袈裟なことをしたらお子さんも傷付くことになりますよ」って。そうして子どもの気持ちは無視されて、大人たちのあいだで話は進み、すべてはなかったことになる。
「……良く知らないんだけど、元官僚? とかって聞いたわ」
妹尾さんが呻くように言った。
「石瀬さんの元夫ですか」
「ほかに誰がいるっていうの」
淡い橙の襟付きシャツにデニムパンツ姿の妹尾さんは、両手を膝の上で固く握り締めている。車内の温度が少し上がったような気がして、左手で冷房の風力を強くする。
「執行猶予中、彼が何をしていたか知ってる?」
「……公営プールの監視員」
「どうして誰もおかしいと思わなかったの。どうして誰も止めなかったの」
「……」
どうして。理由は簡単、世の中には序列があるからだ。石瀬さんの元夫は上から数えた方が早い立場の人間で、私や妹尾さん、妹尾さんの娘さんは下から数えた方がすぐに見つかる位置にいる。それだけの話。
「娘が亡くなってから、日記を読んですべてを知ったの。でも」
「証拠として採用されることはなかった……」
「弁護士にも言われたわ、これだけじゃ無理だって。ねえ、世の中って本当に平等じゃないのね」
「……それで、引っ越しを?」
「私、ひとりで娘を産んだの。息子の父親も違う人。だからもう、逃げるしかなかった」
そこに現れたのが石瀬母娘だった。これは完全に最悪な偶然だろう。石瀬さんと元夫は既に他人だし、石瀬さんとその子どもも被害者だ。それでも。
「なにか証拠を掴めないかと思って」
「押しかけたんですね。招かれたんじゃなくて」
「察しがいいね。相澤さん、旦那さんは弁護士であなたは探偵なの?」
「いえ、」
私は当事者です、と言おうとしてやめた。妹尾さんは泣いていた。泣きながら笑っていた。
「私が殺してやりたかった」
「……はい」
「娘が受けた分の苦しみを、全部与えてやりたかった。でもできなかった。だから石瀬に気に入られてるあなたを頼ったの。利用したの。ひどいやつだと思うでしょ? 許せないでしょ?」
私は黙ってダッシュボードに手を伸ばし、ヒサシが置いていった煙草を咥えて火を点ける。
「妹尾さん、煙草吸ったことありますか」
「え、……ない」
「では、一服。一緒に悪いことをしましょう」
妹尾さんは黙って紙巻きを咥え、震える手で何度もライターを鳴らす。カチ、カチ、カチ、カチ。私はシャツの胸ポケットに入っていた【喫茶ルビー】と書かれたマッチ箱を取り出し、火を点けて差し出す。妹尾さんは胸いっぱいに煙を吸い、すぐに大きく咳き込んだ。すぐに捨てたくなるかと思い手元に灰皿を用意したのだが、妹尾さんは咳き込み涙を流しながらも煙草を手放さなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます