11話
ヒサシの運転するクルマに乗って、稟市さんと私は石瀬邸を訪ねた。週の真ん中水曜日、時刻は15時を少し過ぎた頃、外ではしとしとと雨が降っている。石瀬さんは大仰に稟市さんを歓迎し、隣に立つ私のことを胡乱な目で一瞥した。何をしに来たと顔に書いてある。
「彼女の本業は私の事務所の秘書なんです。なので、同行してもらいました」
稟市さんがにっこりと笑って言う。『なので』の強引さを無言で噛み締め、私も微笑む。
「守秘義務はばっちりです。よろしくお願いします」
何を言っても上滑りしてしまうなぁと思いながら、妹尾さんの言っていた長い廊下に足を踏み出す。先頭は石瀬さん、次に稟市さん、いちばん後ろを歩くのが私だ。妹尾さんが言っていたほど薄暗くも長くも感じないし、今のところ変な臭いもしない。
リビングに通される。一家4人……5人ぐらいで囲めそうな大きなテーブルと5脚の椅子。そのうちのひとつには既に女の子が腰を下ろしている。
「次女のすみれです」
石瀬さんが紹介する。問題になっている3年生のお嬢さんだ。
「はじめまして、市岡です。今日は、少しだけお話を聞かせてくださいね」
腰を屈めた稟市さんがにこにこと笑みを浮かべてすみれさんに言う。癖のない真っ黒い髪を短めに整えたすみれさんは上目遣いに稟市さんを見て、
「はい」
と短く応じた。
なにかある、と思った。これは当事者の勘だ。
だから稟市さんは私を連れてきたのだ。
並んで椅子に座り、石瀬さんには見えないように稟市さんの脇腹を抓った。ジャケットを石瀬さんに預けた稟市さんは薄手のスタンドカラーシャツ姿で、僅かに顔を顰めて私の方を見た。バカ、とくちびるの形だけで伝える。ごめん、と同じやり方で返されたが、私たちはもう介入を始めてしまった。
名刺を渡したり改めて名前と所属を名乗ったりとテンプレそのもののやり取りを行った直後、すみれさんは、と稟市さんはいきなり本題に切り込んだ。
「死んだ人の魂が見えるんですよね?」
「やだー! 市岡さん!」
天井を突き抜けそうな大声で応じたのはすみれさんの隣に座る母親、石瀬さんだった。
「そんな話から始めるんですか? 嘘に決まってるのに!」
「……」
嘘、という響きにすみれさんが小さく肩を縮める。ああ、これは、覚えがある。おまえは嘘つきだ、おまえの言うことなんて誰も信じない、おまえはおまえを生んだアバズレ女にそっくりだよ……とうに忘れたつもりだった声が脳内に響き渡る。吐き気がする。
無言で稟市さんの脇腹を突く。稟市さんが頷く。
「まずはお嬢さんからお話を伺いたいんです」
「でも……」
「すみれさん。何が見えたのかな」
肩を縮めたままですみれさんが母親の顔をちらりと見る。石瀬さんは……知り合ってから今までのあいだに一度も見たことがないほどの無表情になっていた。
今日、いま、この日のうちにカタを付けないといけない。それは稟市さんにも分かっているだろう。
「石瀬さん」
意を決して私は口を開く。
「お嬢さんの言うことを嘘って決め付けるの、あんまり良くないと思いますよ」
「は?」
は? か。こういう声を聞くのも初めてだな。腹の下がずくずくと疼く。他人を怒らせるのは私の得意技だ。お陰でもうすぐ死ぬところまで追い込まれた10年以上前の私、今だ、咬み付け。
「私も父親に良く嘘つきだって言われてましたけど。ほんとのことしか言ってないのに」
「それは……大変だったわね」
「大変でしたよ。お陰で毎日殺される寸前まで殴られてました。だからですかね、似たようなご家庭を見かけるとすぐ気付いちゃうんですよ」
「……はあ?」
椅子を蹴倒して石瀬さんが立ち上がる。怒りが完全に私に向いている。いいぞ、今だ。今喋るんだ、すみれさん!
「ゆ、幽霊」
すみれさんが引き攣った声を上げた。今にも私の胸ぐらを掴みそうになっていた石瀬さんがヒュッと息を飲む。
「幽霊」
稟市さんが穏やかな声で繰り返す。
「知ってる人かな? それとも知らない人?」
「すみれ!」
「石瀬さん、私のこと殴っていいからちょっと黙っててくださいよ!」
言い終える前に頬を張られた。暴行罪。ま、殴っていいって言ったのは私なんだけど。
「お、お父さんとお姉ちゃん! お父さんとお姉ちゃんが、わたしを、見てる……!!」
すみれさんが叫ぶように言った。やめなさい、嘘つき、と石瀬さんが怒鳴る。張られた頬がじんじんと熱いが、私は視線で稟市さんに指示を請う。次は何を……。
「俺にも見えます、すみれさん、あなたは嘘つきじゃない」
石瀬さんの手がすみれさんの痩せた腕を掴む。ぎりぎりと捻り上げられてすみれさんがちいさく悲鳴を上げる。おいおいちょっと待てなんだこの修羅場は。それに。それに。
「何、この臭い……」
本当に唐突に、腐臭が漂ってくるのに気付いた。私は稟市さんと違って幽霊を見ることもできなければ祓うこともできない、どこにでもいるただの成人女性だ。だから、その私の鼻先に漂ってくるこの臭いは、この世のものということで。
「石瀬さん、手を離して」
「家族の問題よ! 放っておいて! 出てって!!」
「呼んだのはあなたです。そして、関わってしまった以上私は手を引けない」
『それで、一緒に下校してた子がね、轢かれた動物を見に行こうって言って』
妹尾さんの言葉が蘇る。
『……その時の臭いが、したの」
妹尾さんの証言は正しいし、間違っている。これは、壊れた家庭の匂いだ。
デニムの尻ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して、タップひとつで外にいるヒサシに繋ぐ。何も言わなくてもあいつはすぐ来る。稟市さんが隣にいるのにヒサシのスマホが震えるということは、つまりそういうことだからだ。
嘘じゃない、ほんとだもん、おじさん助けて、とすみれさんが泣き叫ぶ。稟市さんが立ち上がり、石瀬さんの手からすみれさんを助け出す。魔法みたいに、あっという間に。
「ちょっと……どういうつもり……」
「お伝えしていませんでしたが、私にも見えるんですよ、お嬢さんが見ているのと同じものが」
「何言ってるの? 気でも狂ってるの?」
怒りと憎しみを隠そうともしない石瀬さんは、玄関の鍵を閉め忘れていたのだろう。或いは施錠された扉さえ容易く開けてしまうヒサシの無駄で物騒な能力が発揮されたか。
とにかく玄関で音がしたので、私はリビングを飛び出して廊下を走る。長い。さっき通った時よりもずっと長くて暗い。妹尾さんが言ってたのはこれか。玄関はどこだ。ヒサシはどこにいる。
「ユキちゃん!」
「ヒサシ!」
お化け屋敷のような奇妙に人工的な闇の中から聴き慣れた声がする。目の前に、馬鹿でかいバックパックを背負った市岡ヒサシが立っていた。
「稟ちゃんは?」
「リビング、ていうか」
「分かってる。腐ってるよ、この家」
ヒサシの言っていることが一瞬理解できなくなる。腐ってる? たしかに腐臭はするけれど。
「あっちだ。ユキちゃんは見ない方がいいものがあるかもしれないけど、行く?」
廊下の奥を指差すヒサシは肘のあたりまですっぽりと覆うゴム手袋をしている。なんだその装備は。
「リビングも修羅場だから、あんたと行く」
「オーケイ」
ゴム手袋が私の手を握り、暗い廊下をぐいぐいと進んでいく。ヒサシが踏んだ場所から闇が霧散して明るさを取り戻してゆき、こいつはやっぱりどうかしてると改めて思う。
どれほど歩いただろう。私とヒサシはなんの変哲もない木の開き戸の前にいた。
「開ける」
ヒサシが低く宣言し、木の板を力任せに蹴り上げる。鍵は掛かっていなかった。ドアは大きく開き、凄まじい臭いが鼻を突く。
腐ってる。
バックパックを下ろしたヒサシが、中から懐中電灯を取り出す。が、
「電気点くんじゃ……」
「マジ?」
室内の壁を手で探る。スイッチらしきものがあったので押してみたら、すぐにLEDライトが部屋を照らした。
部屋の中には何もなかった。何もない部屋の中央に、布団が敷かれていた。
布団の上に、ふたつの死体があった。
あんたたち何勝手なことしてんの! と石瀬さんの叫び声がする。そう、私たちは勝手なことをしている。ヒサシは住居侵入罪に問われるかもしれない。あと本来は手前に引いて開くはずの扉を蹴って壊した。これも何らかの罪にカウントされると思う。
髪を振り乱して駆けてきた石瀬さんを、長身のヒサシが抱き止める。というかほとんど羽交い締めにする。
あとからゆっくりと歩いてきた稟市さんが、部屋を覗き込んで顔を歪める。そうして少し大きめの声で彼は言った。
「すみれさんが見ていたのは、このふたりなんじゃないですか」
「死んでから結構経ってるよ。もうミイラだ」
ヒサシの言葉に、石瀬さんが顔を覆って泣き出した。仕方なかった、仕方がなかったのよ、と繰り返す。
「お父さんと、お姉ちゃん」
稟市さんの背中に隠れて、すみれさんが言った。
「ずっとここにいたの」
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