9話
稟市さんが石瀬家を訪ねることになった。表向きは代理人についての話し合いのためだが、本当の目的はすみれだ。彼女にはいったい何が見えているのか。確認する必要があると稟市さんは言う。
「つきましては、ユキムラくんに同席してほしいんだけど……」
「ヒサシじゃ駄目なんですか?」
「駄目、というかいざとなった時のために近くには待機させとくつもりなんだけど」
「ミセス石瀬、俺のツラに興味津々なんだよね〜!!」
久しぶりに出勤した法律事務所で、いきなり面倒な話になった。個人的には石瀬邸には金輪際足を運びたくない。議事録を持ってこいという命令にも毎回バイク便で抵抗している。石瀬さん的には私は相当に可愛くない、イビりたくて仕方がない存在だろう。
「ツラ……?」
「人に好かれやすいツラしてるとこしか取り柄がないからな、こいつは」
「あー」
「あーなの!? 顔しか!?」
騒ぐヒサシは放っておくとして、私には少し気になることがある。
先日の話だ。無駄な会議のために呼び出された小学校で、同じくPTA役員を務めている女性に声をかけられた。
「突然ごめんなさい。あの……相澤さんは、会長の家、行った?」
「石瀬さん家ですか? 一回だけ。議事録持ってこいって言われて」
妹尾さんは2年連続でPTAの役員に選出されており、去年は私と同じ書記を務めていたのだという。今年は謝恩会の実行委員だ。
「2年連続って珍しいですね。去年もやってたんだし、免除とかされないんですか」
「私、その、専業だから……」
「専業主婦だって忙しいですよ」
くちびるを尖らせる私に妹尾さんはありがとうと眉を下げて笑う。人の善いひとだ。つまり、つけ込まれるタイプだ。
「議事録は毎週持ってこいって言われるけどバイク便で届けてます。石瀬さん、意地悪ですよね」
「相澤さん、強いね……私は自転車で通ってたの。去年だから、今年よりもっと会議は少なかったんだけど」
「月に一回ぐらいですか?」
「そう。もっと少ないこともあった。でもね」
個人的に家に招かれるようになって、と妹尾さんは続けた。去年。2020年。感染症が爆発して皆の危機感もマックスだった時期だ。そんな時に、個人的に人を誘うなんて。
誘われたら断れないタイプの妹尾さんは、指定された日に手土産を持って石瀬邸を訪ねたのだという。時期はたしか去年の今頃。雨が降っていたそうだ。
石瀬邸は見た目の通りの大きさで、なんというかゴージャスで、「お金持ちのおうちって感じがしたの」と妹尾さんは言った。でもね、と彼女は続ける。
「すごく暗かったの、家の中、特に廊下が……」
明るいベージュ色の壁には娘たちが描いたと思しき絵や、何かの表彰状のようなものがぽつりぽつりと飾られていた。石瀬さんの背に続いてリビングに案内される妹尾さんには、その廊下が異様に長く、また薄暗く感じられたのだという。
リビングに辿り着き、手土産の焼き菓子と石瀬さんが準備していたケーキと紅茶をいただきながら小一時間ほど雑談をした。PTAの話にはほとんどならず、おもに石瀬さんの話を妹尾さんが肯きながら聞くという構図だったという。
「それで」
妹尾さんの声が少し震えた。
「臭いがしたの」
「におい……?」
マスクをしていても分かる。妹尾さんの顔が青褪めている。これは、たぶん、あまり良くない兆候だ。私は妹尾さんを促して、小学校近くのコインパーキングに停めていたクルマに彼女を乗せた。クルマというのはいちばん手軽な個室である、良くも悪くも。PTA役員として小学校に出入りするようになって気付いたのだが、私と『学校』という場所はあまり相性が良くない。通ってなかったのに? という感じもするが、通ってなかったからこそ、という気もする。どちらともいえない。だから私は割と早めの段階で小学校を訪ねる際にはクルマを出すようにしていた。自分の具合が悪くなった時に、とにかく腰を下ろして頭を抱えられるように。
助手席に座った妹尾さんがごめんなさいね、と言う。いいえ、と応じた私はパーキングの敷地内にある自販機でオレンジジュースと緑茶を買ってくる。妹尾さんはオレンジジュースを選んだ。
「あの……あのね、信じてもらえないかもしれないんだけど……」
「はい。言ってください。判断はそれから」
「夏の日にね、クルマに轢かれた動物を見たことがあるの。ずっと前、子どもの頃。犬か猫か狸か……分からなかったんだけど、とにかくずっと、放置されてて」
「はい」
「それで、一緒に下校してた子がね、轢かれた動物を見に行こうって言って」
「はい」
「……その時の臭いが、したの」
「……」
20年近く前の不快な記憶が蘇ってくるほどの悪臭。そんなものを放つなにかが、あの家の中に?
「し、信じられないよね、ごめん。なんか、悪口言いたいだけみたいになっちゃった……」
「いえ。石瀬さんの悪口だけなら私からも山ほど出せます。それより気になりますね、その、何かが腐った臭い」
妹尾さんはその後何度も石瀬邸に招かれたのだという。その度に廊下の暗さと異様な腐臭を感じ、しかし石瀬さん本人に対して指摘や質問をすることなどできるはずもなく、何もかもなあなあにしたままで今日まで来てしまったというのだが。
「気になるね」
稟市さんが呟く。ヒサシも珍しく神妙な顔をしている。私は一瞬片手で口元を多い、あと、と我知らず声を顰めて続けた。
「もうひとつ」
「うん?」
「石瀬さん、PTA会長4度目って話なんですけど」
いちばん初めの会議での自己紹介の際、石瀬さん本人が申告した回数。だが、自宅までの道中、助手席の妹尾さんは俯いたままでこう言った。
「うちの学校ではたしか、2度目なの」
「え?」
「去年と今年の2回……」
「ん、つまり、盛ってるってこと、です、かね?」
「あ、うん、えっとそうじゃなくて」
妹尾さんは空になったオレンジジュースの缶を手の中で弄びながら、ちいさな声で続けた。
「石瀬さん、3人お嬢さんがいるのね。いちばん上のお嬢さんは別の小学校に通ってたの。たしかいま、中学生」
だからそこでの実績を足してるのかなって……と呟き、送ってくれてありがとう、ジュースもありがとう、と妹尾さんは微笑んでクルマを降りた。青褪めていた顔も元通りになっていたので、それではまた学校で、と告げて私は自宅に戻った。
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