さいわいの娘

1話

 PTAの役員になってしまった。


 と伝えると、鳴海なるみさんは一瞬ぽかんと口を開いて沈黙し、

「マジでか……」

 と呟いた。役員に選出された時の私と同じ意見だった。

「ユキさんは……構わなかったの? いや、構わないことはないか。経緯を聞いてもいい?」

「くじ引き」

「マジでか」

 二度目。私もそう思った。

「保護者会でのくじ引きで美晴みはるのクラスでは私ともうひとりが選ばれて、役職決めのくじ引きで……」

「くじ引きで……?」

「書記」

「そ、そうか……」

相澤あいざわさんは慣れてるからいいわね、って言われた」

「ユキさんが俺の事務所で庶務やってること知ってる人の言い草だな、それは! なんだよも〜」

 頭を抱える鳴海さんは当の私より困っているように見えた。上着を脱ぎ、鞄を置き、カレー鍋をかき混ぜる鳴海さんの横にぴったりとくっついて立つ。私の方が少し背が高いので、彼の肩越しに鍋の中身が見える。今日はトマトチキンカレー。

「迷惑?」

「ん?」

「私がPTAやると、迷惑?」

「ううん、迷惑とかではないよ。ただ、ユキさんあんまり人が多いところとか苦手でしょ。だからできれば6年間逃げ切りたかった」

「ふふふ」

 逃げ切りたかった、なんて。鳴海さんの言い方は面白い。

「美晴には言った?」

「一緒に帰って来ようと思ったんだけど、友だちと遊んでたから、校庭で。だからまだ言ってない」

「そっか。まあでも……うんまあ書記なら……今の時勢で会議をめちゃくちゃやるってこともないだろうし……」

「事務所の仕事、どうしよ」

「ユキさんが来れない日はヒサシを呼ぶよ。バイト代出して」

「ヒサシって今何の仕事してるの?」

「さあ……なんだろ。ヒモかな」

「感染症で世の中めちゃくちゃなのにヒモで生きてくの、勇気あるね」

「アホなんだよ」

 とりあえず、第一回目の会議は来週の水曜日の放課後、ということになっている。と伝えたところで玄関から「ただいま!」と大きな声が聞こえてきた。美晴だ。

「ユキちゃんなんで先に帰っちゃったの!? 俺、待ってたのに!」

「遊んでたから」

「遊びながら待ってたんだよ〜!!」

 手洗いうがい消毒を洗面所で行いながら美晴が大声で文句を言っている。炊飯器がピーッと大きな音で鳴り、おっいいタイミング、と鳴海さんが笑う。

「ま、詳しい話は飯食ってからにしよっか」

「うん」

「あー! 鳴海さんのカレーだ! やったー!!」

 ここ相澤家には、私と、鳴海と、美晴の3人が住んでいて、本当にとても平和だ。


 会議はとても平坦だった。決めるべきことはそんなにない。思ったより少ない。たぶん感染症のせい。本当だったら体育祭とか、文化祭とか、合唱コンクールとか、そういったものに向けてのPTAとしての立ち回りとかを話し合ったりするんだろうけど、それぞれ名前を名乗って登下校の見守り活動の順番を決めたら話が終わってしまった。これだったら、鳴海さんの法律事務所で電話番をしている方がよっぽど忙しい。

 それぞれの個性が出ているマスクで口元を隠した女性たち(3人だけ男性もいた)が、会議も終わったしそれじゃあ……と席を立つ。私も手元のメモを鞄に入れ、「失礼します」と言って会議室を出た。手首の時計は17時ちょうどを示していて、帰って夕ご飯を作るには良い頃合いだ。議事録も、この程度の内容なら夜寝る前に軽くいじればすぐ終わる。私のiPadどこにやったかな。たしか美晴がなにかのゲームをやりたいって言って持ってっちゃった記憶があるけど。

「相澤さん!」

 小学校の廊下を歩くのなんて何年ぶりだろう。分からない。私は小学校に通っていなかった側の人間だ。正確には通わせてもらえなかった。嫌な記憶だ。この記憶が私の中から消え去ることはないだろう。とはいえ、鳴海さんと美晴のお陰で今の私の人生はとても美しい。忘れられなくても、心の中の箱にしまって硬く封をして蹴飛ばすことはできる。

 そんなことを考えていたら、相澤さーん! と二度名前を呼ばれた。二度目でやっと気が付いた。

 振り返る。会長の石瀬いしせさんが立っていた。この学校にふたり娘がいるという石瀬さん。会長は4度目だという石瀬さん。私より20は年上の石瀬さん。

「はい」

「ごめんなさいねえ呼び止めて。議事録なんだけど、提出期限を伝えてなかったなって」

「はい?」

 次の会議じゃ駄目なのか。たしか来月。

「今日初めて会った人もいたでしょ? 顔と名前を早く覚えてほしいから、できれば急ぎで提出してほしいんだけど」

「……夜PDF送ります。メアドください」

「ううん、そうじゃなくて紙でほしいの! 相澤さんは若いから分からないかもしれないけど……」

 あっ、これ、意地悪されてる。秒で気付いた。

 鳴海さんに出会う前の私は無と怒りの二択しか感情を持たない人間だったが、今は違う。愛想笑いだってできる。だからできるだけ反抗的に見えないように微笑んで、

「明日、学校にお持ちすればいいですか?」

「明日なんてそんな無理しなくっていいのよー! うーん、そうね、明後日ウチに持って来てくれる?」

 明日と明後日にどの程度の差異があるのだ。というかウチってどこだ。

「会長のご自宅に?」

「会長だなんて! 石瀬でいいわよう、これから一年一緒に仕事するんだから! 住所、あとでLINEするわね! 早めにね、期待してるから!」

 メアドはくれないのにLINEで送ってくるのか……さっきの会議で今年のグループを作ったからそこから送ってくるのかな。というかそんなことしたら私以外の全員にも石瀬さんの住所が伝わっちゃうけどいいのかな。いやもしかしたら私以外の全員はもう既に互いの住所も電話番号も知ってるのかもしれないけど。

 分かりました、と言って長い廊下をまた歩き始めた。小学校って広いな、なんて思いながら。


「というわけで美晴、iPad返して」

「モンスト……」

「議事録作ったらまた使っていいから」

「うー。分かった。ていうかさ、ユキちゃん早速意地悪されてんじゃん。ムカつく」

「意地悪されちゃうタイプなの、私は」

「可愛いから?」

「そう」

 帰宅して肉じゃがと味噌汁を作り、スーパーで買ってきたサラダをプラスチック容器のまんまで食卓の真ん中に置き、定時で上がれないから先に食べててという鳴海さんのメッセージを確認してから美晴とふたりで夕飯を食べた。

「石瀬さんって知ってる?」

「石瀬〜? 6年の女だっけ? 姫」

「姫」

 謎情報が増えてしまった。ちなみに美晴は5年生だ。

「クラスで知ってそうなやつに聞いてみよっか?」

「え、なにそれ、探偵みたい。やめときな」

「でもユキちゃんに意地悪するようなやつ俺的には見逃せない」

 正義の味方か。いいけど。

「鳴海さんだって怒ると思うよ」

「あーね……」

 正直『息子』の美晴より『夫』の鳴海さんの方が怒らせると後々面倒臭い。今回の件は伏せておこう、と思い、美晴にも内緒ねと言い含めた。分かった、と言ってたけど私がいない時に鳴海さんにチクる顔をしていた。子どもの頃の私が持つことを許されなかった無邪気な正義感。美晴のことをこういう時、本当に可愛いと思う。

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