ばけもの

 曽祖母が亡くなった時、俺は小学生だった。曽祖母には祖母しか娘がおらず、その子どもは俺の父親ただひとり、しかし孫の子どもは上から順に男、女、男と生まれ、跡取りの不安がやっとなくなったと曽祖母は俺たちに対していつもとても良くしてくれた。


 しかし俺が4歳の頃、3つ年上の姉が謎の高熱に苦しんだ末唐突に亡くなる。市岡家の跡取りは女と決められているので(女にしかが受け継がれないからだ)姉の死によって俺か兄が嫁を取るということが自動的に決定する。父も母も祖母ももちろん嘆き悲しんだが、中でもやはり曽祖母の慟哭がいちばん大きかった。ようやく生まれた、待ちに待った女の子ども。それが呆気なく命を落とす。その現実が曽祖母には受け入れ難かったのだろう。優しかった「大ばばちゃ」はどんどん気難しくなり、俺や兄を見ると忌々しげに顔を顰めるようにすらなった。既に小学生だった兄はいちいち傷付いていたようなのだが、人生が始まって4、5年の俺はけろりとしていた。


 俺が7歳の頃、8つ年上の兄が県外の高校への進学を決める。身の回りで何やら色々なことがあったらしく、兄は、「俺は市岡を継がない」と両親に宣言していた。食卓で交わされるそれらの会話を、隣の和室に置かれた炬燵に足を突っ込んで俺と祖母は聞くともなしに聞いていた。「しゅうきょうじゃ人はすくえない」と兄は言っていて、祖母が「稟ちゃんの言う通りかもしれんね」と小さく、悲しげに呟いて、兄が何かひどいことを言ったのだろうか、ばばちゃが悲しんでいるから謝らせないと、などと人生7年目の俺は考えていたのだが、その年の4月に兄は単身東京の親戚の元に引っ越してしまったので謝罪をさせることはできなかった。


 翌年。俺は8歳。前年から具合を悪くしていた曽祖母が死ぬ。歳の頃は80後半から90そこそこだったと記憶しているので、まあ大往生といえばその通りなのだろう。県内の比較的大きな病院の個室で訳の分からない沢山の管に繋がれた曽祖母を俺は毎日見舞った。というか母親が見舞いに行くので(祖母はその頃腰を悪くしていてあまり出歩くことができなくなっていた)、小学校の帰りに病院で待ち合わせをして曽祖母の顔を見てクルマで自宅(俺の実家は神社で、山の上にある)に帰る、というのが日々のルーティンになっただけの話なのだが。

 曽祖母の病室にはいつも大勢の見舞客が訪れていた。何せ『お山の市岡さん』の大刀自なのだ。彼女の能力で救われた者たちが、県外県内問わず各地からやって来て、別れを惜しんだ。

「ヒサシくん? 大きくなったね、覚えとる?」

 ベンチに座ってガムを噛んでいた俺に話しかけて来た男がいた。覚えている。たしか父の友人で西の方に住んでいる出版社の社長だ。会社を立ち上げる時になんだか色々あって、最終的にまだ元気だった曽祖母が父の運転するクルマで西に向かって祓いを行ったとかどうとかこうとか……。

「おひさしぶりです」

「おばあちゃん、心配やね」

「……はい」

 でも、大ばばちゃは俺のこときらいだからな、と頭の隅で俺は思う。女じゃないから跡継ぎになれないし、祓いの能力も俺にはない。兄には何かこう化け物みたいのを見たり、ちいさいやつならやっつけることもできるらしい、けど、兄は将来神社の跡継ぎになりたくないから東京に行ってしまった。

 その節は市来いちこさんには本当に助けていただいてどうとかこうとかとベラベラ喋るその男は、たぶんうるさいせいで病室から追い出されたのだろう。最近の大ばばちゃは、俺が廊下を歩くだけでも「うるさい!」と怒鳴り散らして大変な感じだったからな。俺は別にふつうに歩いてるだけなのにさ。

「あれ?」

「ん? どないしたん?」

 喋る男の肩口に、何か黒いものが見えた気がした。いや俺にはそういう能力はないはずなんだけど、あれ?

「おじさん」

「ん?」

「ちょっと、……それ」

 手を伸ばす。隣に座る男が身を屈めて俺に体を近付ける。ダークグレーのジャケットの右肩の上に黒いものがある。黒い虫みたいな。なんだこれ。

 指先で払った。デコピンするみたいに。そうしたら、その黒い虫みたいなのは弾かれた勢いで病院の灰色の天井にぶつかって、一瞬大きな光を放って砕けて消えた。

「え!? なんや、今の!?」

「わ、わかんない……」

「お、おじさんの肩のとこにいたん? あれが?」

「うん……」

 自分でも良く分からない。だって8歳だし。それに男は俺を詰問したりはしなかった。だって大人だからね。その代わり、あれっ、と呟いて黒い虫が乗っていた右肩を回し、痛くない……、と呟いた。

「痛かったの?」

「せやねん。なんや先月ぐらいからずーっと肩が重い感じがしてなぁ」

「……」

「ヒサシくんにもおばあちゃんみたいな才能があるんかな。ありがとうなぁ」

 そのまま男は西の方へと帰って行った。ちなみにその出版社は2021年の今現在もきちんと存在している。と兄が言っていた。詳しいことは俺は知らない。


 翌日以降、母が見舞客の相手をしているあいだ、病院の中を歩き回って黒い虫を探すのが俺の日課となった。目を凝らしてみると、黒い虫はそこかしこにいた。人間の肩口、腰、膝の上、自分よりずっと背の高い男性の頭の上に鎮座しているのを追い払うのには骨が折れた。そこに虫がいますよ、なんて言っても誰も信じないから。

 やがて曽祖母の寿命が尽きる日が来る。その日の病室には俺と母と父と祖母がいた。最早意識さえはっきりしない曽祖母の痩せこけた木の枝のような手を取り、おかあさん、大丈夫ですよ、と祖母が呼びかける。あとのことは任せてくださいねえ、と。俺は父に手を取られたまま、ベッドから少し離れた場所に棒立ちでいる。俺はこの場に相応しくない。

「…………」

 曽祖母が何かを言った。え、と祖母と母が彼女の口元に耳を近付ける。管に繋がれた曽祖母の手がゆっくりと上がる。妙に艶めいた人差し指の爪の先が俺を、この俺を指し示す。

「誰」

 曽祖母が言った。

 地を這うような低い声だった。

「ヒサシだよ、おばあちゃん!」

 父が声を張り上げる。

「おばあちゃんの曾孫の、ヒサシ……」

 父が震えていることに気付く。何かがおかしい。人生8年目の俺にも分かった。

 祖母と母が目線だけで何かを言い合っている。ふたりには市岡の能力があるから、曽祖母の様子がおかしいことも分かっているのだろう。だが、何が原因なのかが分からない。祓いは必要なのか。

 曽祖母には俺が何に見えているのか。

「ヒサシ、一旦出よう」

 父が言う。手を強く引かれる俺を血走った曽祖母の目が睨み付けている。

「ヒサシ」

「おまえは」

 誰、と吐き出す曽祖母の口の中、


 父の手を振り解く。駆け出す。ベッドの脇に置いてある丸椅子に飛び乗る。人工呼吸器に手を伸ばすが俺の力では外せない。だから手のひらを、いっぱいに広げた手のひらだけを向ける。

 黒い虫を掴む。力任せに引き出す。母も祖母も父も呆気に取られている。

『いいのか?』

 俺に掴まれた黒い虫が尋ねる。白目と黒目がはっきりと別れた、人間の目をしている。

『俺はお前の大事なばあさんの生命でもあるんだぞ』

 こいつ虫じゃないな、なんだろう。蛇かな。龍かな。。俺には分からない。黒いものが俺の小さな手の中でびちびちとのたうつ。不愉快だ。

「いいよ」

 俺は短く答えて、そいつを手の中で握り潰した。初めての時と同じように黒いそいつは一瞬眩い光を放ち、砕け散っていなくなった。


 曽祖母の呼吸も、同時に止まった。


 俺が何を見たのか、何をしたのか、祖母だけに話した。祖母がいちばんこの手の事象に詳しいからだ。俺の訥々とした語りを祖母が更に噛み砕いた内容が後日両親に伝わったのだろう。あんたまで、と母は悔しげにくちびるを噛んだ。父はつらかったろうと頭を撫でた。

 母が何を悔しがっているのか、父が何を憐れんでいるのか、俺には良く理解できなかった。ただ、残念ながら俺も市岡の人間で、女性にしか伝わらないはずの能力がこの身に宿っている、それだけは分かった。


 俺はいったい誰なんだろう。あれから20年以上の月日が経ち、年々強まっていく『能力』で他者の人生に介入しながら時折考えることがある。曽祖母のあの目。あの声。曽祖母こそ俺の知ってる曽祖母からはかけ離れた生き物になってしまっていたけれど、彼女から見たら俺こそがそうだったのかも知れない。俺は何者? そうだなー、俺は思うね。市岡氷差いちおかひさしはばけもの。たぶんね。

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