棄教

 棄教ききょうします、と言い残して村を出た人間がいる。10年ほど前の話でその頃俺は既に村にいなかったので、弟から聞いた話だ。名をMさんといい、三代前(もっと前かも)から村に住んでいた一族の次男で、県外の女性と結婚し家庭を持ち近くに住む両親祖父母とともにブドウ農家をして暮らしていたそうなのだが、ある日不意に山の上にある俺の実家、神社を訪ねてきて、「棄教します」と言い置いて村を去ったのだという。

 俺の実家はたしかに神社で県内の一部の地域からは熱狂的と称しても良いほどの支持を集めているが、かといってこの辺りの住民皆が我が家を崇め奉らねばならないというわけではないし、車で30分圏内にはお寺さんもキリスト教の教会もある。あと海外から移住してきた人が始めたイスラム教徒が集まるサロンのようなものが大変賑わっていて楽しそう、と最近母から聞いた。


 棄教、とはずいぶん強い言葉だと思った。10年前、まだ10代だった弟もそう感じたらしく、神社の代表者である祖母とその補佐である母に丁寧に挨拶するMさんの姿を柱の影から父とふたりで見守りながら、大きな話になっているなぁ、とぼんやりと思ったらしい。また、後日Mさんの配偶者である女性が個人的に母と祖母を訪ねてきて、「私は市岡さんが好きなので……引っ越してからもお世話になりたいと思っています」と言うので母はその場で連絡先を交換し、実際Mさん一家が村を去ったのちも配偶者の女性からは個人的にメールや電話が来たり、季節の挨拶なんかもふつうに送られてくるのだという。


 なぜ急にこんな話をしているのかというと、ごく最近、Mさんの配偶者の女性と再会したからなのだ。法学部を卒業してすぐに師事した弁護士の梅宮賀洛うめみやがらく先生という方がいるのだが、女性や子どもの人権を特に重視する活動をしている彼には弟子のような存在が何人もいて(俺もその中のひとりだ)、Mさんの配偶者は平たく言うと同業者だった。弁護士である。名は風花かざはなユスルという。Mという苗字ではなかったが、実家に戻った時に母から見せられた写真(海外旅行先から送られてきたもので、こんな風に色々連絡してくれるなんて嬉しいわと母は笑っていた)と同じ顔の人間がいたので、すぐに気が付いた。その頃梅宮先生は大きめの訴訟を抱えており、チームで戦うべく協力してくれそうな弁護士を見繕って声をかけている最中だった。弟子の中でピックアップされたのは風花ユスルとあともうふたり。俺にお声が掛からなかったのは、俺は俺で別の案件を抱えていたからだ。

「市岡、おまえまだ幽霊と戦ってるのか。体は大丈夫なのか」

 お声が掛からなかった俺だが、梅宮先生主催の決起集会にはなぜか呼ばれた。感染症の件もありあまり大勢が集まるとどこで何を言われるかが分からないから、梅宮先生とその弟子3人、そこに俺というごく少人数で、真っ昼間に1時間だけという約束で新橋の飲み屋に集まった。全員がノンアルコール飲料を飲むという妙な集会だった。

「はあまあ。なんとかぼちぼちですね」

「幽霊には法律は効かんだろう。そこそこにしておけよ」

 梅宮先生は、俺が『見える』『祓える』という事実を否定しない数少ない先達だった。馬鹿にしたり笑ったりもしない。ただ心配してくれる。それだけでも、俺はこの人のことを尊敬している。

 小一時間で解散し、さて事務所に戻って書類でも確認するかと駅に向かおうとする俺の腕を掴んだのが風花ユスルだった。

「市岡さんって……あの市岡さん?」

「……おそらく」

 駅から少し離れた喫茶店に入り、名刺を交換した。風花は俺よりひと回りほど年上だろうか。背の高い、溌剌とした雰囲気の女性だった。

 母や祖母は元気か、村はその後どうか、弟は元気にしているか、という風花の問いに、答えられる範囲で返答した。母も祖母もついでに父も健在。村は相変わらず。弟は今関東にいる。風花はうんうんと頷きながら俺の応えを聞き、お母様に会いに行きたいんだけどちょっと今はね、と呟くように言う。

「失礼ですが」

「はい?」

「風花さんは……俺が知るあなたは違う苗字だったと思うんですけど」

「あ、離婚したんで」

 ほんとに不躾で別に訊かなくてもいいことを訊いてしまったなと思った。そういえば母も彼女のことを『Mさんの奥さん』ではなく『ユスルさん』と名前で呼んでいたし。

「棄教、されたとか」

「前の夫がですよ。私には関係ないです」

「風花さんは何か宗教を?」

「ずばずば来ますね。ないです。強いて言うなら市岡さんのお母さんが好き、ぐらいかな」

 母はやたらと他人に慕われるタイプの人類である。神社の息子である父が進学先の大学(県外である)で一目惚れして口説きまくって村に来てもらったのだと何遍か聞いたことがあるが、それなりに閉鎖的な田舎である村の中で母は『市岡の嫁』としての地位をかなり早くに確立したのだという。これもひとつの才能だろう。

「Mさん、村には戻られてないそうですね」

「あーですね。まあでも棄教するまで言い切ったら戻れなくないですか?」

 風花はさばさばしている。棄教。アイスコーヒーのストローを噛みながら考える。

「なんでですかね」

「はい?」

「なんか、うちに不満とかあったっすかね」

「……あー」

 口からこぼれた疑問に、風花は鼻の上に皺を寄せて見せる。心当たりがありそうな顔だ。

「別に市岡さんが悪いんじゃないと思いますよ」

「ですかね。まあMさんの……ほかのMさんとは普通に仲良くしてるみたいだしなぁお袋もばばちゃも」

「そうなんですよ。あいつだけ。あのMだけ妙に拘ってたんです、

「……」

 べったり。たしかに。うちを含むあの地域は医者よりも警察よりも『お山の市岡さん』を信じる少しばかり奇妙な地域だ。古臭いというか。いやうちの田舎以外にもそういう土地柄の場所はあるのかもしれないけど。

「ね、M、どうなったか知りたいです?」

「……んー」

 肩口に触れるか触れないかの黒髪を耳の上にかき上げながら、黒いマスクの風花が訊く。正直あんまり知りたくない。グラスのアイスコーヒーを空にして、偶然同じ色だった黒マスクを着けながら曖昧に首を傾げて見せる。

「なんか今、●●っていうあんま良くない新興宗教に首まで浸かってるらしいですよ。らしいっていうか、その所為で別れたんだけど」

「はぁ……」

 ●●、名前だけは知っている。本物の神様を祀っているものなのかどうかは知らない。新しい宗教を頭ごなしに否定はしない主義だ。

「あんま良くないですか」

「めちゃくちゃお金かかるんですよ。壺とか買うし」

「うわ」

「古臭い手口でしょう? 悪い言い方だけど宗教に抵抗あって実家出たのに、また宗教にすっ転んでるの……」

 棄教します、とMさんは言ったのだ。棄教。強い言葉だ。彼はいったい何を棄てたのだろう。そうして土地を飛び出して、新しく見つけた居場所もまた宗教。これは俺の推察に過ぎないが、彼はのではないか?

「チーム戦、頑張ってください」

「市岡さんもお祓い頑張って。お母様によろしく」

「はい、では」

 別れ際にふわふわと手を振る風花ユスルの背後には、前夫の生き霊やそれに類するものは見えなかった。何かあれば何かができるが、何もない以上俺にはできることとかないし。棄教、と口の中で繰り返して飲み込んだ。言霊言霊。言わない方がいいこともある。

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