三猿

 三猿って分かります?

 そうです、見ざる、言わざる、聞かざる。有名ですよね。三猿って言葉を知らなくても見ざる〜って言えばたいていの人は「あー」ってなりますし。

 わたしの地元にも三猿がいるんです。あ、日光じゃないですよ。あんな有名なとこじゃなくて、もっと僻地の……片田舎の小さな村、最近イオンができたから町ぐらいにはなれたのかな、そんな場所です。

 三猿の像があるのは、神社じゃないんです。日光東照宮は神社ですよね、たしか? ササミヤさんていうおうち……町の、なんていうんですかね、顔役? みたいなお宅の玄関に三猿の像が飾られているんです。土地がまだ村、いえ、それより前、人間がひとりもいない荒野みたいな感じだった頃に住み着いて開拓して外からの移住者を招き入れたのがササミヤさんのご先祖さまらしいです。地元の教科書にも名前が載ってるんですよ。荒地を開墾し、氾濫しがちだった川の周りに堤を築いて村を作り上げた人って。

 ところで……その三猿についてなんですけど。わたしの地元にはササミヤさんのご先祖さまのお話と同時に、もうひとつ伝わっているもの……伝承というか、があるんです。それについて、聞いてほしいんですが。

 見ざる、言わざる、聞かざる。その三つのうち、ものは仕方がないので許す。、というものなんですが。

 思い返すと、保育園の頃にはもう言い聞かされていたような気がします。絵本の読み聞かせが終わって、お昼寝の時間の前に先生が、

「見ても大丈夫、聞いても大丈夫、でも?」

 って訊くと、

「言っちゃダメー!」

 って子どもたちが返事する変なコールアンドレスポンス。わたしも小さかったので違和感なくお返事していたんですけど、いま考えるとなんか変じゃない? って。

 小学校を終えて中学に上がる頃にはクラスメイト全員が信者みたいになってました。もちろん私も……ですけど。ササミヤさんは教科書にも載ってる有名人。三猿はササミヤさん家の玄関にいる。通学路の途中にお屋敷が建っていたから、三猿の像は毎日目にしていました。でもふつうのお猿さんなんです。あ、写真もありますよ。今日この話をするのに必要だと思って妹に撮って送ってもらったんです……ほら、ふつうの木彫りのお猿さんでしょう?

 何が見えるんでしょう。何が聞こえるんでしょう。何を言ってはいけないんでしょう。何も分からないままわたしは高校を卒業して地元を出ました。今、大学生です。


「その話を俺に聞いてほしくなった切っ掛けがあるんですよね? そこも教えてもらっていいですか?」

 他に客がいない古びた喫茶店のカウンター席で、隣に座る江碕英恵えざきはなえに市岡ヒサシは尋ねた。彼女と知り合ったのは昨晩のことだ。小遣い稼ぎのためにバイトをしているホストクラブに、常連客の女性(サークルのOBらしい)に連れられてやってきた年若い娘。いつも通り「俺のおにいちゃんはおばけが見える弁護士、俺はなんにも見えないけど」の話で笑いを取っていたところ、江碕が真剣な顔で「お酒を頼めばわたしの話を聞いてもらえますか?」と言ってきたのだ。その場で連絡先を交換し、翌日会うことになった。

「……友だちが、見たらしいんです」

「見た」

 この喫茶店は喫煙可能だが傍らの娘は恐らく非喫煙者なので、ヒサシは煙草を取り出さない。レモンの匂いがする水を口に含み、ちいさく首を傾げる。

「見て、聞くまではセーフなんですよね」

「と、言われて育ちました」

「で、お友だちは、見た」

「はい」

「見たことを……あなたに言った」

「そうなんです」

 すっかり冷めてしまったミルクティーの表面をじっと睨みながら、江碕は頷いた。

「『何を見たか』を言わなきゃオッケー、てんじゃないんですかね?」

「そこの線引きは教わってないんです」

「ふむぅ。お友だちはちなみに、あなたにどう伝えてきたんです? 会ったんですか? それとも電話かメール?」

「メールでした。うちは農業やってるんですけど、友だちの家も同じで、親同士も仲良くて、でもわたしがこっちに来てからはあんまり連絡取ってなくて……誕生日とかしか……」

「はあ。ちなみに江崎さんお幾つです?」

「え、19です」

「ぼく22です。ぼくも大学生です。ホストはバイトなんですけどそろそろ辞めようと思ってて……しかしなんというか、難しいな」

「難しいですか」

「お友だち、『見た』以外には何も言ってきてないんですか? あんまり突っ込まない方がいい気がするけど、そのー、何を見たかとか」

 スマートフォンの液晶画面を迷うように撫でていた江碕が、

「……いえ」

「ヒントなしかぁ」

「……」

「んー、もういっぱいなんか飲みます? マスター! 俺コーヒーください本日のコーヒー!!」

「あ、あの」

「紅茶でいい?」

「あ、それは、はい」

「こちらにはロイヤルミルクティーを!」

 店の奥から出てきた70代のマスターが「そんなでかい声出さなくても聞こえるよ」とボヤきながら棚から二人分のカップを取り出している。その見事な銀髪を眺めながら、ヒサシは「ふむぅ」と再度唸った。

「お店ではネタっぽく言ったんですけど、ぼくのおにいちゃんマジで見える人なんですよね」

「は、はい」

「なので、そのお写真、ちょっとぼくにも送ってもらえますか?」

「あ、お猿さんの写真ですか?」

「そうです。ぼくと江碕さんには見えなくても、おにいちゃんなら何か分かるかも」

 江碕は一瞬逡巡した様子だったが、やがて意を決した顔で首を縦に振った。

「お送りします。お願いします」

「おにいちゃん弁護士なので、話が他所に漏れることはないです。もちろんぼくも、絶対に言いません。それはご安心ください」

 なんの話してんだよヒサシほどほどにしろよ、と言いながらマスターがおかわりのコーヒーとロイヤルミルクティーをカウンターに乗せる。それから市岡ヒサシと江碕英恵は、取り留めのない雑談をして解散した。


 7年前の話か、と市岡稟市りんいちが煙草に火を点ける。

「あの店もう完全禁煙なんだよね〜。都内でカフェやんのマジ厳し」

「マスター元気?」

逢坂おうさかさん? 元気元気。もう80手前なのに毎日お店開けてるみたいよ」

「おまえまだ通ってんの?」

「いや、孫と知り合いで様子聞いてるだけ。都内住んでた時お世話になってたからあんま他人と思えなくて、心配じゃんウイルスとか」

「まあ元気ならいいけど……ってそうじゃないだろ。今日は」

「そう! ごめん脱線しちゃって。三猿の話ね」

 兄弟が兄の職場である法律事務所の応接室で向き合う機会はかなり稀である。ふだんは来客を座らせているソファに長い脚を組んで腰を下ろし、ヒサシも紙巻に火を点けた。

「写真覚えてる?」

「ただの猿だった」

「でしょ。だから俺も江碕さんにはそう伝えたのね。それで江碕さんも、ですよね、って言ってそれきりで」

「ですよね、か。つまり先方も『ですよね』で済むレベルの疑問しか抱いてなかったってことかね」

「俺もそう思ったの。で、昨日」

 応接室のテーブルの上にスマホを滑らせ、ヒサシは眉根をきつく寄せた。



「なんじゃこりゃ」

「江碕さんから7年ぶりのメッセ。なんだと思う?」

「知るか」

 紫煙を吐き出しながら吐き捨てる兄の顔を甘えるように見詰め、

「稟ちゃんの専門じゃな〜い。一緒に考えてよ」

「本当に解決したいなら7年前に俺のとこに連れてくれば良かっただろ」

「あの頃は俺も若かったからぁ……自力でどうにかなるかもっていう驕りがですね……」

「返事はしたのか?」

「ん」


『お久しぶりです

 何が聞こえたんですか?』


「この後電話もしたけど全然繋がんなくて、これはヤバいかなって」

「7年前の時点でもうヤバかったんだろ」

「む?」

「写真の猿はただの木彫りの猿だった。三猿という言葉は、便利だから使われていただけ」

「うん?」

 スマートフォンに紫煙を吹き付ける稟市は、三白眼の目尻をきりきりと吊り上げ弟を睨んだ。

「猿は問題じゃない」

「と、言いますと」

「見ても許す、聞いても許す、このふたつに関しては自力では回避できない。常に目を閉じて耳を塞いで生活するなんて不可能だからな。でも、見て聞いたものを自分の中に仕舞い込むことはできる。その意思があれば」

「えー、つまり」

「……俺は安楽椅子探偵じゃない、弁護士だ」

「いやそんなこと知ってるよ」

「おまえから得た情報から推察できるのは精々ここまで。あとは知らん」

「ちょおっと稟ちゃん! それはあんまり丸投げじゃないかなー!?」

「知りたきゃ行ってこい。江碕さんは大学を卒業して実家に戻ったんじゃないのか? そこでんだろう?」

 いつになく意地の悪い兄の物言いに、ヒサシは大きく頬を膨らませた。

「一緒に来てよ」

「明日から裁判。無理」

「おにいちゃあん」

「ひとりで行け。……被害者を増やすな」

 スマホをデニムのポケットに押し込み、吸っていた煙草をへし折るようにして灰皿に放り込んだヒサシは、クルマ借りまっせ、と言って立ち上がった。


 江碕英恵の出身地はGoogleで検索すると簡単に判明した。ササミヤさんという人物の先祖が開拓した辺境の村。いまはイオンがあるので町。ヒサシの住居からは高速道路に乗って二時間ほど。クルマを走らせながら三猿、三猿、とヒサシは口の中で繰り返す。

 目についたPAとSAすべてで休憩をしていたら、町に着く頃にはすっかり夜だった。江碕英恵の無事を確認したらすぐに帰るつもりだったので、自分の適当さを少しばかり恨んだ。

 江碕英恵という人間が町にいるかどうかの聞き込みから始めようと思っていたのだが、その必要はなかった。


****** 18


 町中まちじゅうに矢印付きの看板が立てられていた。


 コインパーキングにクルマを停めて駆け足で葬儀場に向かった。道を歩いている人間はほとんどいない。俺の住んでた村とたいして変わらないなとヒサシは思う。感染症がなくても日が落ちれば外を出歩く人間なんてまるでいなくなる。

 葬儀場も静かなものだった。もう江碕英恵は荼毘に付されてしまったのだろうか。履き潰したジーンズと花柄のシャツの上に革ジャンを引っ掛けた格好でヒサシは会場に足を踏み入れる。受付を覗きはしたが、誰もいなかったのだ。

 花の匂いがする。百合だ。

 仏教でも神道でもキリスト教でもない祭壇が、目の前にあった。薄らと明るく広い会場のど真ん中に黒い棺が置かれており、恐らく中には江碕英恵がいるのだろう。その棺を中心に半円を描くようにして生きている人間たちが床に座り、祝詞のようなものを唱えている。誰も喪服を着ていない。会場は、白かった。結婚式の会場のようだった。

 誰もヒサシが入ってきたことに気付かない。

 違う。

 無視されている。

「江碕さん」

 ちいさく呟いた。棺を囲む人間のうちのひとりがこちらを振り返った。江崎英恵に良く似た顔立ちの、50代半ばと思しき女性だった。母親だろうか。

 立ち上がって近付いてきた女性は、頭の天辺から爪先までじっくりとヒサシを見詰めた。そうして言った。

「黙って、座っててください」

「……は」

 女性の頬を濡らす涙に、ヒサシは言葉を呑み込んで首を縦に振った。会場の隅に正座をするヒサシを確認し、女性は再び輪に加わった。

 彼らは祝詞を唱えている。いったい何を祈っているのか、ヒサシには分からない。何かを招いているようにも聞こえる。死者を送り出すわけではなく? そういえばあの看板には『』と書かれていなかったか。ではなく?

 祝詞が盛り上がる。盛り上がるという表現は正しくないだろうが、とにかくめちゃくちゃに盛り上がっている。座ったままで上半身を仰け反らせる者もいる。涙を流している者も少なくない。


 祭り。


 祭りか。


 思った途端、何かに強かに背を打たれた。思わず声を上げそうになったがどうにか堪える。正座の膝の先に片手を付き、振り向く。誰もいない。いや、いる、

 人間ではない。水の匂いがした。ありがちな腐った水ではない、清冽な、実に美しい川の匂いだ。


 人間ではない。


 ササミヤさんは何をしたと言っていた? 7年前の会話を思い出す。荒地を開墾し、氾濫しがちだった川の周りに堤を築いた。

 水に棲むものだ。鈍いヒサシにもようやく合点がいった。井戸を埋める時にも酒と塩と儀式を必要とするのに、手付かずの川を弄るとなれば、何が必要になる?

 ササミヤさんは恐らく交渉したのだろう。それだけの能力があったからこの土地を繁栄に導くことができた。あなたを見て聞いた者、それを言葉にすることで認めた者をあなたに差し出す、それがササミヤさんが交わした約束だ。三猿は移住者を怯えさせないためのフェイク。メジャーな言葉であればあるほど浸透は早い。……すべては想像の域を出ないが。

 祝詞が終わる。真っ白い着物に身を包んだ高齢の男性が立ち上がり、棺の蓋を開けた。そこから引きずり出された肉体から、ヒサシは黙って目を逸らした。


「そうですか、娘が」

 ヒサシを座らせた女性はやはり江碕英恵の母親だった。

「……間に合いませんで」

 ご愁傷様ですとかご冥福をお祈りしますとか言うのも違う気がして、ヒサシは小さくそんな風に呟いた。江碕英恵の母親は薄く笑って、

「煙草はありますか?」

「は?」

「あるなら一本いただきたいのですが」

「どうぞ」

 差し出したハイライトを一本抜き取り、江碕英恵の母親はどこから出したのかマッチで火を点ける。

「火を焚くと、あの方はお帰りになります」

「会場内は明るく見えましたが」

「LEDライトというのは便利ですね」

「実は、お嬢さんから相談を受けていたのですが……」

「仰らないでください。誰も。それに、

 ヒサシは黙って煙草をくわえ、火を点け、紫煙を雲ひとつない夜空に向かって吐き出した。

「失礼ですが、悲しくは、」

「仕方がないことですから」

 乾いた頬の江碕英恵の母親は今まででいちばん強い口調で言った。


 帰り道はPAにもSAにも寄らず、めちゃくちゃに煙草を吸いながらクルマを走らせた。翌日兄の事務所に顔を出したが、仕事で外していると電話番のユキムラに言われた。

「クルマ返しにきた。駐車場に入れといたから、鍵渡しといてくれる?」

「分かった。……あのね、ヒサシ。稟市さんから伝言」

「ん?」

って」

「……はい」

 ユキムラから顧客からの貰い物だというバウムクーヘンを山ほど受け取り事務所を出た。敗北感と喪失感と情けなさで泣きそうな気持ちをどうにか飲み込み、帰って寝るために駅に向かって歩き始めた。

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