鏡
鏡に映してみたらひとり多い、という話は義務教育期間の怪談としてはメジャーなのだろうか。わたしの通っていた小学校では反対だった。相澤くんで始まり輪山さんで終わる、ひと学年ひとクラスの小さな学校。わたしのクラスは男子16人、女子14人の計30人。そこに転入生の女の子がひとり加わって15人、計31人になった年があった。両親が離婚して母親の田舎であるわたしたちの村にやって来たというその子の名前はなんだったか、記憶がぼんやりしているのだけど、抜けるように白い肌と青みがかった黒髪が印象的な綺麗な子だったということだけは覚えている。誰もが東京からやってきた転入生に興味を持ち、校内で彼女が孤立することはなかった。山と川と田んぼしかないど田舎での話である。しかも私が小学生の頃というと、もう20年以上も前だ。今以上に何の娯楽もない。で、転入生は孤立しはしなかったのだけど、彼女がクラスに加わってから半年ほど経った頃、妙な噂が流れるようになった。曰く、東京からやってきたあの子は鏡に映らない。
言い出したのは誰よりも彼女に纏わりついていた、東京に憧れを持ちすぎている女子数名だ。4、5人ほどのグループでいつも行動しており、勿論トイレにも一緒にいって見様見真似でお化粧ごっこなんかをしていた。そのグループに転入生を誘い込んだ、リーダー格の
所詮は子どもの戯言である。信じるものなんてひとりもいなかったと思う。たった31人しかいない教室のクラスメイトを、そんなしょうもない戯言を間に受けて除け者にする愚か者がいるだろうか。
いたのだ。というかわたしもその『愚か者』のうちのひとりだ。東京からやってきたあの子は鏡に映らない。噂は各学年ひとつずつしかクラスがない学校中にあっという間に蔓延し、人気者だった彼女の周りからは引き潮のように人が去った。当時のわたしは海を見たことがなかったのだけど、たぶん、引き潮ってこういう感じなんだろうな、とぼんやりと思っていた。
転入生は10ヶ月ほどで学校を去った。噂が理由ではなく、というか噂がだけが理由というわけではなく、お母さんの新しい仕事が決まったことでまた東京に戻ったのだとわたしの両親が話をしていたのを盗み聞きして知った。小学校には平穏が戻った。相澤くんから始まって輪山さんで終わる、計30人のクラスは静けさを取り戻した。
小中高と地元で過ごしたわたしは大学で初めて村を出、大阪での一人暮らしを経てそのまま就職し、昨年転勤という形で東京にやって来た。とある新聞社の出版部門で働いている。東京の出版部門は、大阪よりもずっと女性社員が多かった。一緒にお弁当を食べる人がたくさんいるのも嬉しかったし、個人的に遊びに行ったりする、友だちと呼べる関係の同僚もできて毎日が充実していた。
「ね、
わたしより3年ほど先に契約社員として入社したという
「ないです」
「じゃあ知らないか、本館のトイレの噂」
「トイレ?」
反射的にトイレの花子さんを連想した。でもそんな噂を流したり信じたりするのは小学校、せいぜい中学校までの話だろう。
新聞社のメイン部門である新聞部は、私たち出版部が仕事をしている別館とは渡り廊下で繋がった本館の方にある。外線も内線もまったく別の番号を使っており、食堂や休憩室もそれぞれの建物に完備されているので、本館と別館の人間が交流することはほとんどなかった。
「本館3階の芸能部の女子トイレには、ひとりしか入っちゃ駄目なんだって」
「え、なんでですか」
わたしの疑問は少しも的外れではない。自分が1日を過ごしている別館準拠の想像だが、この建物にはワンフロアに男女二箇所のお手洗いがあり、女子トイレの中には個室が3つと洗面台が4つある。それなのに、ひとりしか入っちゃ駄目?
「もともとは芸能部のお局がひとりでゆっくり化粧直ししたいからって敷かれた命令なんでしょ?」
三浦とは同期で、正社員の
「そうそう」
「今も続いてるってことですか? お局さん、まだ芸能部に……?」
「いや、お局はもうとっくに退職してる。だから今はトイレにひとりしか入っちゃいけないことなんてないはずなんだけど」
と、そこで三浦は急に声を潜めた。自然、一緒に食事をしていたわたしと西巻、それに
「今芸能部にいる記者の子がね、」
鏡に映らないんだって。
三浦は、低く小さく言って橙色のリップが塗られたくちびるの端を引き上げて笑った。
わたしは笑えなかった。小学校の頃のことを思い出していた。たった10ヶ月間だけの同級生。それが、今新聞部にいる映らない記者だとしたら?
「
完全に血迷ったわたしはその日の終業後渡り廊下を走って本館3階の芸能部に向かい、問題の女子トイレを覗いた。残業している人間たちに声をかけられることもなく足を踏み入れたトイレの中はわたしたちがふだん使っている別館のものと何ら変わりなく、なんだ、あんな噂のただの学校の怪談レベルじゃん、と思って手を洗って口紅を塗り直して廊下に出た。廊下には芸能部の社員と思しき女性が立っており、出てきたわたしにちいさく会釈をしてトイレの中に入って行った。
わたが出てくるのを待っていたのだ。気付いた瞬間鳥肌が立ち、そのあとどうやって帰宅したのかの記憶がない。
更に血迷ったわたしはSNS経由でそういった怪奇現象や怖い話を集めている人間を何人か見繕い、中でもフォロワー数が多い数名にこのエピソードを伝えた。ほとんどの人間は「よくある話ですね」程度の返信しかくれなかったが、唯一ひとりだけ、
そうして今、日曜日の午後、わたしは初対面の熊切さんとともに四谷駅近くのカフェで私立探偵と相対していた。熊切さんも私立探偵も女性だった。歳の頃もわたしと同じぐらい。何も知らない人には感染症が収まってもいないのに女子会をしている集団とでも思われているだろう。
「四宮桃……そうです、たしかにそういう名前でした」
「高畑さんのご出身県を去ったあと、お母さまとおふたりでこんな風に移動してたみたいっす」
と、私立探偵が赤ペンで番号と矢印が書き込まれた日本地図をテーブルの上に広げる。47都道府県をくまなく回っている。わたしの出身県にも、わたしの住んでいた村ではない場所に再訪を繰り返している。
「なんで……」
「で、んー、これはまあ自分の調べの範囲内なんですが」
手にしたボールペンで地図の上、東京の真上をこつこつと叩きながら私立探偵が言った。
「たしかに映りませんね、彼女」
「!!」
思わず隣に座る熊切さんに視線を向けたが、金髪ショートカットに黒縁眼鏡の熊切さんは顔の筋肉をぴくりとも動かさなかった。趣味が趣味なだけに、こんな事象には慣れっこなのかもしれない。
「映り……ませんか」
「こちらもまあ仕事なんで彼女の行動範囲を把握して、追跡して、手鏡で何度か試しましたが映りません。人混みの中にいる場合には彼女の分だけ空白が残ります。ひとりでカフェやなんかにいる時には、テーブルの上のコーヒーが映るだけ」
でもね、と探偵が次に取り出したのは業務用の茶封筒だった。
「写真には写るんですねー、これが。いや不思議。鏡が駄目でカメラがOKな理由とは、これいかに?」
ばさばさと投げ出される隠し撮り写真の中央には、たしかに四宮桃がいた。抜けるように白い肌と青みがかった黒髪はわたしが知るあの頃のままだ。まわりに写り込む人間たちより頭ひとつ分背が高い。切長の眼、射抜くような眼差し。鏡に映らない、女。
「鏡に映らん。となると魔女か吸血鬼がメジャーですが、おそらく彼女は完全に前者です」
私立探偵ーー
「ま、魔女?」
「魔女というのはまあ……西洋、キリスト教発の概念なので、厳密には違うんですけどね。彼女は、」
と間宮が並べた写真を火のついた煙草で示して市岡は続ける。
「何某かの力を持つ代わりに鏡に映らない。それだけですよ」
「何某かの力ってなんですか? ていうかあなたもなんなんですか?」
わたしの疑問はすべて熊切さんが口にしてくれた。応接室でテーブルを挟んで正面に座る熊切さんとわたしを、市岡は困ったように眉を下げて見詰めた。
「私は弁護士ですよ。ここ法律事務所ですし、名刺もお渡ししたでしょう」
「でも間宮さんがあなたを引っ張り出してきたということは」
「間宮くん、俺こういう人たちの話のネタにされるの嫌って言ったよね。ほんとに出禁にするよ」
そう言われた間宮は立ったままで窓辺に体を預け、四宮桃の写真を矯めつ眇めつしながら真っ赤なくちびるの端をいやらしく歪めて見せた。そうして毛先だけ緑色に染めた黒髪をぱさりと払うと、
「先生の得意分野だと思ったから」
「ああ?」
「この20年の四宮母娘の動きは、こう」
写真の上に無造作に放り投げられた日本地図に、市岡は文字通り瞠目した。そこへすかさず熊切さんがぐいっと身を乗り出す。
「何か分かるんですか!?」
「……いや……」
半分も吸っていない煙草を灰皿に押し込み、市岡は本当に困り果てた様子で息を吐いた。
「嫌だなぁ」
「なにが、なにがです?」
熊切さんは一歩も引かない。強い。でもわたしも知りたい。四宮桃はいったい何者なんだ。
「みこ」
やがて、ぽつりと市岡が言った。ちいさなちいさな声だった。
「魔女じゃなくて、みこ?」
確認するように尋ねるのは間宮だ。市岡は眉根をきつく寄せ、長身の間宮を睨み上げた。
「神の子と書いて
爪の潰れた左手の人差し指が間宮の地図を叩く。東京のかなりど真ん中が、四宮桃とその母親の旅路の始まりの地、赤ペンで【①】と大きく書かれている。
「おふたりと間宮は知らないかもしれませんが、ここには昔神社がありました。再開発のどさくさで今は失われてビル街の一角になっています。しかし、その失われた神社に今も仕える一族がいる」
「それが四宮家?」
「おそらく。しかし帰る場所とも言える神社を失った一族は、そのまま流浪の身となった。各地を回って奇跡を起こしたのか……或いは怪異を斃したのか……どちらかは知りませんし、どちらでもないかも知れませんが、ただの人間にはできないことを行って糊口を凌いでいたのでしょう」
四宮さんのお母さんのことを思い出す。もう20年以上も前の記憶だからかなり曖昧だが、四宮さんに良く似た細身の美形だったと思う。わたしの住む村の男たちはみんな四宮母娘のことをいやらしい目で見ていて……それで……。
「高畑さん?」
熊切さんがわたしの腕を掴む。いかん、相当ぼんやりしていたらしい。
「なにか心当たりがありそうですね」
市岡が唸るように言う。心当たり。心当たりってなんだ。わたしは何も知らない。四宮桃という名前だってつい最近まで忘れていたのだから。
「鏡に映らないぐらいなんだっていうんですか? それで四宮さんがあなたたちに何か加害したわけでもないんでしょう? 四宮さんには不思議な力があり、代償として鏡に映らない。この結論を以ってこの件はもう終わりにすべきです」
市岡はそう言い切って、以降熊切さんや間宮が何を言っても石のように押し黙ったままだった。法律事務所を後にするわたしたちを、彼は見送りもしなかった。
「地図の意味だけ教えますね」
帰りのクルマの中で間宮が言った。
「番号が振ってあるのは全部、子どもを虐待してた親が変死、もしくは失踪した土地。どの土地で起きた事件も当時はそれなりに騒ぎになったと聞きます」
「は」
後部座席の熊切さんが大きく目を見開く。
「全部?」
「全部」
「多くね?」
「2021年現在日本全国で起きてる虐待事件の件数を思えば、まあそんなに多くはないっすね」
あの弁護士センセーはですね、と間宮は続ける。
「見える人。であると同時に、そういう子ども関係の案件をメインで扱う正真正銘の弁護士」
ああ、思い出した。思い出してしまった。あの10ヶ月。四宮母娘が村にいる10ヶ月のあいだに、3人の男が失踪し、2人の男が死んだ。失踪した3人が生きているのか死んでいるのかは今も分からない。分かっているのは、彼らは皆、わたしの同級生の親兄弟でもある彼らは、自分の子どもを、そして四宮母娘のことを。
間宮が運転するクルマの助手席で、わたしは両の拳をぎゅっと握る。
翌週の昼休み、わたしは意を決してグループランチを抜け、本館の芸能部へと向かった。四宮さんはいますかと電話番のアルバイトの子に尋ねたところ、彼はフロアをぐるりと見回し、デスクにいないからトイレじゃないすか、と彼女の席を指差しながら言った。
女子トイレの前で順番待ちをしている者はいなかった。わたしは迷わず、ドアを押し開けた。
大きな鏡の前に、四宮桃が立っていた。
「四宮……桃さん」
「……はい?」
小首を傾げるその姿ははっきりと鏡に映っている。背が高く、抜けるような白い肌、青みがかった黒い髪、そして間宮の撮ってきた写真に写っていた通りの、射抜くような眼差し。
擬似餌、という言葉が脳裏に浮かぶ。彼女は、嘗て、母親とともに流浪の旅をしていた彼女は。
「いえ……その……なんでもありません」
「別館の方ですか? このフロア、個室3つもあるのに同じタイミングでトイレに入っていいのひとりだけなんですよね。変なルールだと思うけど、私今から顔直すんで、もしお急ぎだったら上か下に行った方がいいかも」
低くて耳障りの良い声で言った四宮桃が、ふんわりと微笑む。わたしはこくこくと頷き、ぼそぼそと無礼を謝罪してトイレを出た。
その半年後に芸能部の部長が新婚の妻へのDVと生まれたばかりの娘への暴力行為で逮捕されたのと、四宮桃が辞表一枚残して社を去ったのとは、たぶん何の関係もないと思う。わたしと熊切さんは今でもたまにお茶をする仲になった。間宮にはあれ以降会っていない。市岡弁護士のことは何も知らない。
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