映画館の話
あそこの映画館出るらしいよという噂をいちばん初めに広げたのは誰なのだろう。見つけ出して引っ叩いてやりたい。
埼玉県と東京都の境目の埼玉県側で、私の祖父は映画館を営んでいる。営んでいる、とはいえ客はほとんど近所に住んでいる祖父と同世代の人類たちと、近場の大学に通う学生だけで、何やら権利(と資金)の問題で最新作をかける機会はほとんどない。大抵は昭和の時代に撮られた邦画と、公開して何年、或いは何十年も経つ洋画やアジア映画を毎週水、金、土日に慎ましく上映している。入場料として入ってくるお金は毎月綺麗に家賃として飛んでいき、祖父が淹れるコーヒーと近所のパン屋さん(この人は祖父の同級生だ)が作って持ってくる惣菜パンの売り上げだけが純粋な収入として残る。
そんな小さな映画館の客足が唐突に伸びたのは、昨年の秋のことだ。例の感染症のせいで自粛を余儀なくされていた上映をこっそり、細々と再開し、一週間も経った頃だろうか。これまで一度も見たことのないような派手な身なりの、なんというか都会的な、東京側に住んでいると思しき若者が集団でやって来るようになったのだ。
彼、彼女らは一応は入場チケットを買う。だが、映画そのものよりは映画館に興味がある様子で、こちらの許可も取らずに館内のありとあらゆるところを覗き、写真を撮りまくる。はじめは予想外の客の増加に喜んでいたのだが、次第に戸惑い始めた祖父がなんだか哀れで、私は孫というかいちスタッフとして客の若者たちに直接注意をするようになった。館内にも『無許可での撮影禁止』『関係者以外立ち入り禁止』の貼り紙をたくさん貼った。そしてついでにSNSで我が映画館の名前を検索して、見つけてしまったのだ。
「⚪︎⚪︎市のミニシアター、出るらしいよ」
という無神経極まりない書き込みを。
私は途方に暮れ、とりあえず書き込みの内容を祖父に報告した。祖父は私以上に茫然としていた。出る? そんなの今に始まったことじゃない。シアターが入っている三階建ての小さなビル、ここにはたしかに「出る」のだ。
「なにもいなかった」
「映画が始まったら寒気がした」
「視線を感じた」
「スタッフの女厳しすぎじゃね? 感じ悪」
「パンうまい」
数多の書き込みを確認しては、私はため息を吐いた。この映画館を開業したのは今からたしか20年ほど前。私が生まれたばかりのころだ。祖父はとっくのとうに離婚しており(というか母の母に当たる女性に結婚の意思がなかったらしい)私には生まれたときから祖母がいない。なんなら父親もいない。私の家族は祖父と母と私と猫が3匹と犬が2匹。それだけ。所謂トラック野郎だった祖父は私が生まれてしばらく経って早期退職し、退職金でこの映画館を始めた。母は手に職があるタイプの人間だったので何の相談もせずに急に新しい仕事を始めた祖父、母にとっての父親に呆れてはいたが、別に止めはしなかった。
SNSの書き込み発でやってくる観客たちの中で、リピーターになる者はごく僅かだった。当たり前だ。彼らが見たいのは映画ではなく、そこに「出る」何かなのだから。
「Qさんの追悼上映をしようかなぁ」
ある時不意に、祖父が言った。母は出張に出ていて留守だったので、私と祖父と猫と犬で囲む静かな夕食の席でのことだった。
Qさんというのはその年の初めに亡くなった俳優さんだ。祖父が若い頃には二枚目悪役としてとても人気があった人らしい。
「いいんじゃない?」
祖父お手製の焼きそばを食べながら私は応えた。フィルムをどこかから貸してもらえるという話になったのだろう、たぶん。上映する作品選びやそれに纏わる作業はすべて祖父が勝手にやっている。私は一応デザイン系の専門学校に通っているので、ポスターとかチラシ的なものを作って大型の映画館に置いてもらったり、ネット上で宣伝をしたりしている。
「また、出るって話になるかなぁ」
「なるだろうけど、どうせ見えないんだからいいじゃん」
「……んだな」
祖父はこっくりと肯き、見えねえもんなぁ、と私の言葉を繰り返した。
トラック野郎だった頃の祖父は、仕事で本当に日本中を飛び回っていたのだという。母親がいない私の母の面倒を見たのは、近所のパン屋さんの奥さんだ。私にとっても彼女は実の祖母のような存在だし、パン屋の孫とは交際している。
「あれもやりてえなぁ、作家のさぁ……」
「そっちは権利的に駄目なんじゃないの。うちみたいな映画館じゃ」
「だよな」
昭和の時代に市ヶ谷で割腹自殺した作家に関する映画。没後何十年だかで新しい映像作品が上映されてるのは知ってるし、本もいっぱい出てた。祖父はその作家が死んだ時代に、大学生だった歳だ。
「ま、いっか」
「そうだよ。……別に好きじゃないでしょ?」
「嫌いって言ってたな」
「そうじゃん。思想的に合ってないじゃん」
「でも、懐かしいかと思ってな」
その夜のうちに私はQさんの追悼上映を宣伝するポスターをデザインし、祖父に確認してもらい、SNSに載せた。あの映画館は出る、と騒いでいたアカウントたちがざわめき情報を共有していたが、無視だ無視。映画館には映画を見に来いっつーの。
二週間後、上映会が始まった。祖父の体力の関係もあるからいつも通りに水、金、土日、一日に二回上映をするだけのささやかで穏やかな上映会。
怖いもの見たさのうるさい奴らはもう来ない。だって見えないんだもんね。毎回初回の上映にはパン屋のおじいが納品ついでに最前列に座って行く。二回目の上映には近所の人たちと学生たちがパラパラ。
土曜日。その日二回目の上映にはじめての客が来た。見た感じ30代半ばと思しきスーツ姿の男の人。濃紺のジャケットの下には目を疑うような派手な柄シャツを着込んでいる。正直目立つ。
「一般一枚」
「はい……清掃終わったら中どうぞ。自由席です」
「どうも」
土曜日なのでパン屋の孫が手伝いに来てくれていた。全部で20席もない椅子を全部拭いて消毒する。私ひとりでも全然できるけど、ふたりがかりだとすごく楽だ。
「怖いもの見たさ組かな?」
「どうだろ」
スーツの男が場内に入ると同時にこちらは受付で噂話だ。リピーターになってくれる系だといいんだけどなぁ。
祖父が映写室に入って行く。うちの映画館では新作の予告編は流れない。パン屋とか、それ以外の祖父の友達がやってる飲み屋とかあとこのビルの二階と三階に入ってるバーとキャバクラの宣伝がちょろっと入るだけだ。
90分後。スーツの男がふらりと出てくる。ありあとございましたー足元お気をつけてーと私とパン屋の孫は声を揃える。楽しかったです、とスーツの男がこちらを見てにこりと笑った。チケットを買うときは真顔だったから分かんなかったけど、カッコいいな、なんかちょっと役者さんみたいな顔してる。場内が暑かったのかジャケットを脱いで、柄シャツの腕を捲っている。手の甲から上にかけて、ゴリゴリの和彫の刺青が入っているのが見えた。
男が去り、祖父が映写室から出てくる。うーんと大きく伸びをした祖父が、私たちを見てにやっと笑った。
「見えてる客だったなぁ」
「え?」
私とパン屋の孫の声が重なる。
「今のにいちゃん」
「えっ、ほんとに?」
「全然フツーにしてたね」
「中で挨拶してたよ、はは」
「あらー」
SNSに変なこと書く人じゃないといいな……と思ってその晩めちゃくちゃ検索をかけまくったけど、柄シャツ刺青スーツ男らしきアカウントは見つからなかったし、それっぽい書き込みもひとつもなかった。良かった。
この映画館に出るのは祖父の彼氏だ。学生運動の時代に死んだ人。映画と討論が大好きで、その時代にはヘルメットかぶって火炎瓶投げまくってた男の人。私と同じ歳で死んだ人。
トラック野郎になった祖父は彼氏が「いつか映画館とか作りてえな」と言っていたのが忘れられず、仕事がてら物件を探し回ったのだという。それで始めたこの映画館に、まんまと彼氏は現れるようになった。パン屋のおじいとも面識がある。もちろん母も知ってる。私もパン屋の孫も見たことがある。それこそ昭和の映画スタアみたいな顔した男の人。
夜の清掃のために館内に入ると、いちばん前の列の真ん中の席に映画スタア顔の男が座っている。何度禁煙だって言っても煙草を吸う。昔の映画館なら良かったのかもしれないけど、今は駄目だっつってんのに。
「
狛井というのはパン屋のおじいの名前だ。そう、おじいは納品の度にパンと一緒に映画スタア顔が好きだったという青いハイライトを置いて行く。
「今日のお客さんと喋ったらしいじゃん」
祖父の彼氏だかなんだか知らんが見た目は同い年なので私は敬語を使わない。映画スタア顔は横目で私を見て、いい映画館ですねーつってたよ、と笑う。
「それよりほら、もう出てけよ。おめえのじさまと話があんだからよ」
「はいはい。ていうか私だってこのあとデートだし。密になんないよう気をつけてよ」
「おれおばけだから関係ねえわ」
館内を出る私と入れ違うように、両手に最近出た映画関係の雑誌や書籍を抱えた祖父が入って来る。祖父にも映画スタア顔にも常識はあるので、ふたりがこんなふうに仲睦まじく過ごすのは週に一度、土曜の夜だけだ。
ビルの外には軽自動車が停まっており、運転席でパン屋の孫がソシャゲをやってる。
「お待ち」
「待った! どこ行く?」
「どこでもいーよ、あ、でもなんか新しい映画見たいな」
「あーでも時間がアレだな……うち帰ってなんか配信のやつでも見る?」
「おっけーおっけー」
まあうちの映画館にはたしかに出るんだけど、それ目当ての方はお帰りくださいって感じ。でも、古くて素敵な映画を見たいという方は大歓迎。祖父の編成は最高だからね。
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