くるい惑って
同じ学部の先輩が死んだ。餓死だったらしい。
令和の世の中に餓死って……と死因を聞いた時には少し笑ってしまった。カフェでその話を振ってきた同期の美樹も笑っていた。今思えばわたしも美樹も、怖かったのだと思う。
去年から始まった疫病は一年経っても一向に落ち着かず、わたしたちは大学に行ったり行かなかったり、バイトに行ったり行かなかったりを繰り返し、何をどうして良いのか分からない日常を過ごしていた。そんな中に唐突に振ってきた先輩の死。しかも例の疫病ではなく、餓死。情緒がおかしくなるには充分すぎる情報量だった。
わたしと美樹はマスクを付けたままでくすくすと笑い合い、それから葬式のスケジュールを確認した。そういえば美樹は先輩と同じサークルに所属しているので、学部……文化人類学部……の人たちよりも早く情報を手に入れているようだった。こんな時勢だけど一応お葬式はやるらしい。先輩は東京生まれ東京育ちの自称江戸っ子で、たしかに実家は東京の浅草だと聞いている。お葬式もそのあたりのお寺でやるのだろう。
「行く?」
美樹が尋ねた。
「ん。行く」
私は答えた。非日常中の非日常に合法的に乗れる。行かない理由がない。あとまあ、先輩にはそこそこお世話になってたし。
お葬式当日、参列者はそう多くはなかった。当たり前か。みんなマスクをつけて、ハンカチを握り締めて俯いている。
「あ。秋泉先輩」
傍らで美樹が囁いてくる。
「ね。あの人誰だろ」
「え?」
思い詰めたような秋泉先輩の顔をぼんやりと眺めていたら、美樹に喪服の袖をくいくいと引かれた。彼女の視線の先には、信じられないぐらいの美貌の男が立っていた。
八頭身? いや、十頭身はあるだろう。身長も190センチはある、絶対。整いすぎてちょっと怖いぐらい綺麗な顔を黒いマスクで覆い、先輩の両親や親族からもわたしたち大学生たちからも少し離れた場所に立っている。喪服が似合いすぎて恐ろしい。
「え……誰? 俳優?」
美樹に尋ねた。美樹と先輩は自主映画サークルに入っていた。基本的にはサークルメンバーで撮影も出演もすべて回すそうなのだが、ごくたまに外部から人を呼ぶと聞いたことがあった。
「あたしも知らない、あんな人初めて見た」
「やばくない? うわー、ちょっと興奮してきた。指輪してる? してない? 先輩とどういう関係なんだろ」
「奈帆、落ち着きなよ」
美樹が苦笑しながら肩を叩いてくる。とはいえ美樹だってあの謎の美形に釘付けだ。
先輩の関係者ということは女に興味がない可能性もなくはないけど……いやでも分からない。不謹慎だけど気になりすぎる。お坊さんの読経も全然頭に入らないまま、パイプ椅子に腰を下ろす美形の横顔をわたしはずっと見詰めていた。
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火葬場にはご両親と親族だけが同行するので、わたしたち僅かな参列者はこの場で散会することになった。美形は先輩の親族などではなかったらしく、会場の外にある喫煙所でマスクを下ろしていた。
やばい。すごい綺麗。
絶対お知り合いになりたい美しさだった。いや、わたしなんかじゃ釣り合いが取れないってことは分かってるけど、それでもあんな綺麗な男の人がこの世に存在しているなんて……。
「あんたが市岡か!? 遠藤のこと見捨てやがって!!」
会場の中から怒号が響いたのはその時だった。秋泉先輩の声だった。美形はハッとした様子で顔を上げ、火を点けたばかりの煙草を捨てて会場の中に走って行く。わたしも勿論、後を追う。
片付けが始まっている葬儀会場のど真ん中で、秋泉先輩が喪服姿の男の胸ぐらを掴んでいた。
「秋泉……さん。落ち着いてください。私は遠藤さんのことを見捨ててはいません」
美形ほどではないが長身の秋泉先輩にぎりぎりと喉元を締め付けられながら、喪服の男が言った。にいちゃん! と美形が叫んでふたりの間に割って入る。ふたりは兄弟なのか。
「遠藤があんたに相談してたって
「山上……? ちょっと存じ上げませんが……」
山上先輩は亡くなった遠藤先輩の友だちだ。でも、今日ここには来てない。
「あ、にいちゃん、山上は俺の知り合い。ていうかおめーにいちゃんから手ぇ離せ、こっちはこっちでやることきちんとやったんだよクソが!」
美形が秋泉先輩を威嚇する。そんな姿さえ絵になる。やばすぎる。
「秋泉さんが置いていった箱から出てきたんですよ、アレは」
乱暴に掴まれてくしゃくしゃになったネクタイを解いて丸めてポケットにしまいながら、市岡と呼ばれていた男が言った。秋泉先輩の顔がさっと青褪める。
「なに、修羅場? 何が起きてんの?」
「わかんない」
美樹が囁いてくるがそんなのわたしだって知りたい。箱から出てきた? いったいなにが? というか、悪いものが見えるって……?
「秋泉さんの地元では有名な化け物らしいですね」
「……」
「別れた恋人の家に置いていきますかアレを。すごい憎しみですね」
話が全然見えない。わたしたち以外の学生たちも呆気に取られて秋泉先輩と市岡のやり取りを見詰めている。なんなら会場を片す業者の手も止まってる。
「ちがっ……あれは、あいつが、浮気、」
秋泉先輩の声が弱々しく震えている。遠藤先輩浮気してたのか。知らなかった。サークルとか同ゼミの男食いまくってるって噂、ほんとだったんだな。
「過去には興味がありません。しかし我々も手を打ちました」
「手を打ったって……」
「お会いしてお話を聞きお守りを渡した程度ですが、でもまあこうなってしまったということは家まで持ち帰りはしなかったんでしょうねえ。私としても遠藤さんに強制できる立場ではありませんでしたし」
「あんなもん元カレん家に置いてったおめーのせいだろ! にいちゃんに文句言うとか筋違いもいいとこ!」
美形の援護射撃が効いたらしい。秋泉先輩はその場に膝を付くと、こんなことになると思わなかったんだ、とかなんとか呟いて涙を流し始めた。
話が全然見えない。
「遠藤先輩……なんかに呪われて死んだってこと?」
「ぽいね」
「そんなことって起きるの? 今令和だよ……?」
美樹の声にわたしも曖昧に首を傾げることしかできない。ていうか今わたしの頭の中には、あの美形の連絡先をどうやって聞き出すかということしかない。
「秋泉さん」
市岡が言った。
「呪いは戻ってきますからね。はい、これ気休めのお守りです」
ふところから茶封筒を取り出して秋泉先輩の手に握らせ、お騒がせしました、と市岡は会場中に響き渡る大声で言った。そうして踵を返して出口に向かうおそらく兄に、美形は呆れ返ったような顔でついて行く。
やばい、今しかない。
「あ、あの! 市岡さん!」
秋泉先輩にキレられていた男が兄の市岡なら、弟も市岡だろうと当たりを付けて名を呼んだ。兄弟揃ってこちらを振り返るが、わたしの目には弟しか見えていない。
「は、俳優さんですか? あの、わたし、遠藤先輩の後輩で小林……」
「そういうのまずいですよ」
わたしの言葉を遮る市岡……弟の声は、これ以上もないほど冷えていた。
追ってきた美樹が背後で硬直している気配がする。市岡兄の方は両方の眉を下げ、おまえでどうにかしろ、と弟に言って先に会場を出て行った。
「僕は俳優ではないです。兄と一緒に遠藤さんに会った、それだけの人間です。それから、あなたに連絡先を教えることはできません」
丁寧だが、厳しく、冷え切った声音だった。美しい顔の色素の薄い目が真っ直ぐにわたしを見ている。見詰める、というよりは、どこか値踏みするような厭な視線。
「どういう人間がどういう死に方をしたにせよ、死は死です、軽んじるべきではない」
「わ、わたしは……」
軽んじてなんかいない。そんな気持ちじゃない。だってこんな時勢なのにちゃんとお葬式に来て、先輩の冥福を祈って……。
「……生きてる人間の方が怖ええや。俺のことは今日限り忘れてくれよ」
値踏みの結果、わたしは、彼にとって価値のない人間と判断されたらしい。軽蔑を隠しもしない口調で吐き捨て、彼は兄を追って葬儀場を出て行った。
時間がようやく動き出し、業者の人たちが会場の後片付けを再開する。まだ号泣している秋泉先輩の腕を引いて立たせる別の先輩たちの姿が見える。
わたし、わたしは。
「奈帆? 大丈夫……?」
美樹がわたしの顔を覗き込む。わたしは、自分でも気付かないうちにその場に座り込んでいたらしい。
「ひ、ひどいよね。あんな言い方」
「うん、ひどい……」
本当はひどくない。彼の言い分が正しい。どういう人間がどういう死に方をしたにせよ、その葬式の席でこんなふうに自分の慾だけを最優先にするなんて。
ああでも。
「でも、あの人にまた会いたい……」
幾つの葬式を巡ればまた会えるだろう。あの喪服が似合う美しい男に。そのために人を殺したっていいかもしれない。秋泉先輩の地元に伝わるという呪いのことも詳しく知りたい。
あの男にもう一度会いたい。あの蔑んだ目でわたしのことを見下ろしてほしい。
もうそのこと以外は何も考えることができなかった。
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