百鬼夜行
当時俺は京都の大学に通っていた。二回生の夏休みが終わってしばらく経った秋のある日、東京の大学に通う友人から「ちょっと京都行きたいんだけど泊めてもらえる?」という連絡があった。俺は母親の幼馴染である女性の家に下宿をしていたので、彼女に問い合わせたところ快諾を得ることができたので、友人には宿泊を了承する旨返答をした。一泊だけで構わないので、午後五時以降に街をブラつきたいという。友人が指定した日にちは週のど真ん中だったので、俺はバイト先のライブハウスに当日と、念のため翌日も休ませてほしいと頼み、こちらもまた簡単に了承を得た。
友人は飛行機と電車を乗り継いで俺の住む街にやって来た。市岡という名の彼とは同じ県の同じ村の出身である。生まれ年も同じなので、保育園から小中学校までの年月をぴったりくっついて過ごした仲だ。市岡は高校受験を機に村を出て行き、俺はそれに少し遅れて大学進学を機に実家を離れた。以降、盆と正月に顔を合わす程度の距離感で過ごす関係だったので、こんな風にイレギュラーな予定が入るのは少し嬉しい。
小さなリュックサックを背負って改札前に立つ市岡は、最後に会った時とあまり変わりがないように見えた。最後はたしかお盆だ。市岡の実家は県内外問わずそれなりに名の知れた神社である。長男の彼はそこの跡取り息子のはずなのだが……まあ、それはいい。
駅の時計は午後二時半を示していた。
「久しぶり」
「元気そうやん」
「元気よ。おまえの下宿ってこっから近い?」
「すぐやで。行こか」
バスに揺られること15分、そこから徒歩10分、俺の下宿は
「市岡と申します。お世話になります」
「じぶん家やと思ってゆっくりしてってねえ」
安英さんは俺の母親の幼稚園時代からの友だちだ。距離感としては俺と市岡のそれに良く似通っているのだろう。市岡が持ってきた手土産(予約しないと買えない最中だ。秒で賞味期限が切れるやつ)をウキウキと開ける安英さんは、本当に市岡を歓迎してくれているようで嬉しかった。
最中を食べながらのお茶会を終え、俺と市岡は街中に繰り出した。彼が何をしたいのかは良く分からなかった。黒いジャケットを羽織って家を出ようとする俺に一万円札を握らせた安英さんが「ふたりでなんか食べ。うちには帰りにお寿司買ってきて」と言った。
「大学見てみる?」
「お、噂の有名大学」
「おまえかてええとこ通っとるやん」
「ていうか
「……変?」
「べつに」
今はN県で暮らしている俺の母親はもともと兵庫県の出身だ。今でもふとした瞬間には土地のアクセントで喋る。俺にもそれが染み付いているのだろう。
俺より少し背の低い市岡は、紺色のパーカーの下に目を疑うようなサイケデリックな柄のボタンシャツを着ており、足元は履き潰したコンバースだった。こいつ服の趣味こんなだったっけ。良く覚えてない。何せ毎日顔を合わせる生活が終わったのは中学の時だもんな。そりゃ多少は変わるよな。
土地勘がないはずの市岡は、それでもなぜか俺の先を歩いた。俺は市岡のパーカーの背中を黙って追った。気付いたら通ってる大学の前に来ていたけれど、彼は横目で正門を一瞥したきりでそれ以上の興味を示す様子はなかった。
「市岡、法学部なんやろ」
「おまえもでしょ」
「何になるん、将来」
「弁護士」
「あ、即答なんや」
神社はどないするん、と訊こうとしてやめた。こいつはもうそれを決めているんだよな。
俺たちの出身県は本当に閉鎖的な土地柄で、リンゴ農家の子はリンゴ農家を、飲料工場勤務者の息子は飲料工場に就職するのが慣例みたいな面があった。女は高校を卒業したら見合いして結婚、大学に行く子もいるけど大抵は県内の短大をさくっと卒業して県内の企業に就職して職場内恋愛からの結婚。それが普通ってみんなが思ってる。それが俺たちの生まれ育った場所だ。
俺の母親みたいに県外から嫁いでくる人間もいないことはないけど、大抵が土地の持つ負のオーラに負けて出て行く。俺の母親……
「安英さんからお小遣いもろたよ。なんか食う?」
「いや」
市岡は先ほどから人間には通れないめちゃくちゃ狭い路地とか、いったい何時代に建てられたのか分からない木造住宅の屋根の上なんかを見ては「ウワー」とか「マジかよ」とかぶつぶつ言ってる。俺には何も見えない。野良猫が何匹か走り去っていくのを視認した程度だ。
「
呼ぶ。
市岡が立ち止まり、体ごとこちらを振り返る。唐突に足を止めたものだから側を歩いていた俺たちと同世代の男にぶつかられそうになって、舌打ちをされた。
「なんや、こら」
「いや、今のは俺が悪い。それより鳴海」
市岡が左手を差し出す。小指には真鍮のリング。
「え、何」
「握ってみ、俺の手」
「え、なんで、やだ」
「いいから」
いいからほら、と言って市岡は笑った。月も星もない真っ暗な夜空を横に引き裂いたような笑み。市岡は、子どもの頃から、時々こういう顔で笑う。
右手で、市岡稟市の左手を握った。
世界が反転した。
という表現はあまり正しくないだろう。正確には世界はそのままだった。だが、俺の目に、見えないはずのものが見えるようになった。
火の玉が飛んでいた。街中に。燻んだ橙色の光が見慣れた街をふわふわと照らしていた。街灯には何の意味もなかった。
狐がいた。狐の頭に人間の体、色とりどりの浴衣を着た一団が踊るように歩いていた。狸もいた。熊も。鹿も。動物だけじゃない。髑髏がいた。浮世絵で見るようなやつ。でっかい髑髏が俺たちを見下ろしていた。人間はいなかった。人間は俺たちだけだった。
市岡が覗いていた路地裏から、屋根の上から、そういった者たちが飛び出して、飛び降りて、楽しげに駆け抜けていく。俺は市岡に手を引かれるようにして彼らのあいだを歩いて行く。
やあ、人間だ、と誰かが言った。脳味噌に直接響いてくる不思議な声だった。
「どうも、お邪魔してます」
市岡が堂々と応える。その誰かはフフッと笑ってすぐに俺の脳味噌の中から消えた。俺たちは歩いた。黙って歩き続けた。
小一時間も歩き続けて、気付いたら鴨川に到着していた。川辺も火の玉でいっぱいだった。昼間みたいに明るい。等間隔に座る人間の姿はない。あやかしたちは別に等間隔に座らず、それぞれ立ち話をしたり、座り込んで楽器を演奏したりしてる。なんだこれ。フェスみたい。
「フェスみたいだけどフェスじゃないから、物食っちゃ駄目だよ」
「ん?」
「よもつへぐいって分かる?」
「よも……」
聞いたことがある。食ったら現世に戻れないってアレだ。
「ギリシア神話でペルセポネがざくろを……」
「それ。ああ、でも来れて良かったな。今日だって聞いて慌てて飛んできちゃったよ」
俺の手を離さないままで市岡が川辺に腰を下ろす。引っ張られるように俺も座る。通り過ぎるあやかしたちが物珍しげにこちらを覗き込んで行く。
市岡稟市には、この世のものではないものを見る力がある。いつから備わった能力なのかを俺は知らない。物心ついた時には彼は「そう」なっていた。子どもの頃から、幽霊とか妖怪とか、人間に悪いことをする悪霊とか怨霊とか、そういうものが市岡には見えていた。それは「市岡」という家に代々伝わるものなのだと、俺は俺の父親に聞いた。だからこの村の人間は市岡さんに逆らわない。何か問題や事件が事故が起きたら市岡さんにお話しして解決してもらう。今それを担っているのは稟市の母親と祖母だ。稟市もいずれその係になると誰もが思っていたのだが……。
「俺もう山には戻らん」
「……そ」
だろうなと思っていた。彼が県外の高校に行きたいと言い出した時は村中が蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。稟市の人生なのに。それに、市岡家の人間は、誰も何も言いやしなかったのに。
「そんで、これは何? フェス?」
「百鬼夜行とでもいえばいいのかなぁ……俺も母親から急に連絡貰ってさ。こんな風に色んなひとが街中うろうろすること滅多にない機会だから、良かったら見ておいでって」
「ふうん」
まあ、フェスなんだろうな。お盆でもないのにあっち側とこっち側が繋がってる。変な日だけど、偶然日程がちょうど良くて、会場としてこの街が相応しかった、それだけの話なんだろう。
市岡の左手は汗ばみもせずさらさらとしている。骨張った長い指が俺のそこそこ太い指に絡み付いている。市岡稟市は綺麗な男だ。一重瞼の切れ長の眼、通った鼻筋、笑うと牙が見える口元、短く刈られた髪は黒すぎてもはや青い。この世のものではない、かもしれない。もしかしたらこの男も。
安英さんに頼まれた寿司を買って帰宅した。翌日、昼飯を食い終えた市岡は電車に乗って空港に向かい、飛行機に乗って東京に帰って行った。飛行機が好きなのだと言っていた。俺は苦手。
以降彼が京都に来ることはなかったし、俺がひとりで百鬼夜行フェスを見ることもなかった。もしかしたら会場を別の場所に移して、市岡はそれを見に行ってるのかもしれないけど、詳しいことは分からない。
数年後、俺と市岡は同じタイミングで大学を卒業し、なんやかんや試験を受けて望んだ通りに弁護士になり、それぞれ別の職場で修行を積み、その後東京で合流して一緒に事務所を開いた。俺は母親を東京に呼び、俺の配偶者と三人で暮らしている。市岡が俺の手を取ることはもうない。
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