けもの

 手首の傷が喋るようになった。


 リストカットをしたわけではない。わたしにはそういう趣味はない。虫刺されのような赤い腫れを見つけて、なんとなく痒いような気がして掻いていたら傷になって、そこに口ができて、喋るようになったのだ。

 疲れているのだと思った。提出しなければいけない課題は山積みだし、調べ物をしようにも最寄りの図書館は未だに短縮営業中、実家に帰ることもできないし、都内に住んでいる彼氏にも会えない。ノイローゼが嵩んで、こういうものが見えるようになったのだと思った。

 傷は別に、有害なことは口にしなかった。おはよう、今日も暑いね、洗濯をしたら課題に取り掛かろうね、今夜もバイトに行かなきゃね、帰ってきたら早く寝ようね、みたいな感じ。一緒に住んでる家族がいたらまあそれぐらい言うかなという、我ながらノイローゼっぽい症状だなぁと思っていた。

 八月も終わりに近づいた頃、傷がいつも通り口を開いた。

「飯島薫くん、女の子を妊娠させたらしいね」

 は? と思った。いやいや何言ってんだ。飯島薫というのは、都内で映像関係の会社に勤めている彼氏の名前である。傷のお喋りがわたしのノイローゼなのだから、彼氏の噂話をしても何もおかしくはない。けど。

「意味分かんないんだけど」

 わたしはその日初めて傷に返事をした。というか端折ってしまっていたんだけど、皮膚科にも心療内科にも症状が出始めてすぐに足を運んでいた。皮膚科では塗り薬、心療内科では睡眠導入剤を処方された。お大事に。もちろん診察室での傷はただの傷のふりをしていた。

「もうだいぶ会ってないでしょ? LINEしてみたら?」

「は……?」

 こんな、架空の存在の妄言を真に受けるなんて馬鹿すぎるだろう。底を尽きかけてる塗り薬を傷に塗り込めながら、わたしは下唇を噛む。たしかに薫くんにはしばらく会えていない。自粛生活が始まった最初の頃は週末ともなればリモート飲み会をしていたけれど、梅雨が空けてからはさっぱりだ。わたしは埼玉県、薫くんは都内の世田谷区に住んでいる。だから直接会いに行くのもなんとなく憚られた。LINEを送っても3日に1回返信があれば良い方。仕事が忙しいのだと言っていた。例の感染症の特番を作っているのだと……。

「妊娠3ヶ月」

 絆創膏の下、傷がくぐもった声で言って、黙った。

 そういえばこの傷は3ヶ月前からずっとある。


 翌日、日曜日、わたしはマスクに伊達眼鏡、キャップをかぶって家を出た。電車とバスを乗り継いで下北沢。薫くんの家まで徒歩15分。

 休業中のライブハウスの看板の前で、わたしは彼にばったり会った。飯島薫くんは、文字通り呆気に取られた様子でわたしを見詰めた。直接顔を合わせるのは3ヶ月ぶり、リモート飲み会をしなくなって約1ヶ月、LINEの既読無視からは一週間、薫くんは肥った。色白で細面、尖った顎に無精髭を生やしているのがセクシーだったのに、首の周りには肉、肌は褐色に焼け、見たこともない黒縁の眼鏡をかけていて……

「薫、誰? 会社のひと?」

 わたしの知らないむっちりとした二の腕にしがみついた、わたしの知らない長身の女が飯島薫くんに尋ねた。頭がくらくらする。息が止まりそうになる。

『……妊娠、3ヶ月!』

 その時、絆創膏の下で傷が叫んだ。悲鳴を上げているような酷い声だった。わたしは手にしていたスポーツドリンクのペットボトルで、飯島薫くんを殴った。


--


 手首見せてもらってもいいですかぁ、とその男は言った。市岡ナントカ。今わたしとゼミの知り合いの鮫川の前にはふたりの男がいて、彼らは兄弟なのでどっちも市岡だ。はるちゃん、見せた方がいいよ、と鮫川に肩を小突かれ、わたしは渋々左手をテーブルの上に乗せる。

 あのあと、思い出したくもないけどあの下北沢での昼下がり、飯島薫は迷わず警察を呼んだ。彼の腕に絡まってた女の方が寧ろ戸惑っていて、ちゃんと話をしなよとかなんとか言っていたような記憶がある。わたしが振り回したペットボトルは背の高い彼の体には数回しか当たらず、そもそも人を殴ったことなどないわたしの力では何のダメージも与えられなかっただろうが、わたしは警察に連れて行かれた。その後傷が喋るとかそういうことは伏せて事情を聞かれ、夜がだいぶ更けてから解放されたわたしのスマホには「弁護士を立てます」というメッセージが届いていた。誰から? もちろん飯島薫から。

 数日後、とある法律事務所の弁護士を名乗る人間から電話がかかってきた。少しお話をしたいのでどこかでお会いできませんかと言うので、埼玉県内なら行きますと答えた。和光市駅前のファミレスで顔を合わせることになった。傷は何も言わなかった。悲しくなって泣いていたら、鞄の中からポン!という電子音が聞こえた。スマホを見る。ゼミのグループではなくわたし個人宛に、鮫川から提出物の進捗を尋ねるメッセージが届いていた。わたしは泣きながら鮫川に電話をかけた。鮫川とは大して仲が良いわけではなかったが、彼女はわたしが知る限りもっとも人懐っこい同期だった。そうでもなければこんな夏の終わりに挨拶ぐらいしかしたことのないわたしに進捗どう? なんて送ってこないだろう。それで、心が弱っていたわたしは鮫川に全部話してしまった。傷のことも、飯島薫のことも、弁護士に会わなきゃいけないことも。

 鮫川は、

「一緒に行くよ」

 と言ってくれた。神奈川住みなのに。


 手首の絆創膏を剥がした市岡(若い方、わたしたちと同い年ぐらい)は、

「あー」

 と言って隣に座るもうひとりを見た。年上の方は小さく顔を傾けると、吸っていた煙草を灰皿に押し込み「悪いものじゃあないんだけどなぁ」と呟いた。

 そもそも弁護士らしい見た目をしていない男だった。派手な柄のアロハシャツを着て、両腕にはびっしりと刺青、刺青があっても弁護士になれるの? 意味不明だ。

 傷は、ぎょろりと目を見開いて、弁護士を見ている。昨日まで目なんてなかったのに。

「飯島さんとは職場の飲み会……みたいので顔を合わせた程度で」

 弁護士が口を開く。傷ではなくわたしを見ている。白目が青くひかるほどに白い、不思議な目をしている。

「別に友達とかじゃないです。なんなら知り合いでもねえな。あとこれ正式な依頼でもないので」

「え?」

 鮫川と顔を見合わせる。金が発生してないので、と弁護士は続ける。

「仕事じゃないので……ただ先方があなたに会いたくないとわがままを言ってうちの事務所が逆らえないタイプの人間に泣いて連絡入れてきたので、俺にお鉢が回ってきたというか」

 傷はまだ市岡を見ている。睨んでいるのかなと思ったけど違う。どこか縋るような眼差し。

 お店に入る前、駅で待ち合わせをした時に鮫川にも傷を見てもらいはしたのだけど、彼女には傷はただの傷としか認識できないようだった。傷の方もひとことも発さなかったし。でも今は。

「コーヒー持ってこよ。稟ちゃんも要る?」

 市岡の若い方が明るく言い放ち、席を立ってドリンクバーに向かった。うちもコーラ持ってくる……と鮫川も立ち上がる。わたしは弁護士とふたりきりになった。

「手首のそれ、犬か猫か狐か狸か……まあなんかその手のアレですよ」

 皮膚科とも心療内科とも違うことを弁護士は言った。わたしは大きく瞬きをし、傷に視線を落とす。目が合った。傷は、申し訳なさそうな顔をしていた。

「心当たりがあるかないかはともかくとして、もうすぐ死ぬその手の生き物に優しくしたんでしょう、3ヶ月前に」

 心当たりは全然ない。マジでない。そもそも動物との関わりが極端に少ない人生を送っている。実家にも犬とか猫とかいないし……田舎だから野生のそういう生き物を見かけたことがないわけではないけど……。

「こんなご時世で、みんななんとなく心細い。そいつもそうです。おいこっち見ろ。解説してやってんだぞ」

 弁護士は煙草を吸わずに眉を寄せて傷を威嚇している。やめてください、と思わず言う。やめてください、かわいそう。

「そうそれ、かわいそう。そう言ってやったんじゃないですか、覚えてないだけでね。それでこいつはあなたなら許してくれるんじゃないかと思ってそこに来た」

「じゃあ、その……」

 言葉を選ぶ。迷う。つまりそれは。

「恩返しで教えてくれたってことですか? ……浮気を」

「そんな良いものではないと思いますけどね。そこにいるやつと生きている人間の感覚とは全然違いますから」

 だと思った。恥ずかしい。死んだ何某かの生き物がわたしに恩義を感じて何かをしてくれるとか都合の良い話だ。でもノイローゼで見えてる幻覚じゃなくて良かった。それだけは良かった。

 弁護士の弟と鮫川が両手に飲み物を持って戻ってくる。コーヒーと紅茶、コーラとオレンジジュース。

「引き受けましょうか」

 弁護士が言った。

「それ」

 傷のことだ。また目が合う。聞きたいことがひとつだけある。

「彼、ほんとに浮気してるんですか?」

「5ヶ月。ろくなもんじゃないですねアレは」

 3ヶ月じゃないのかよ。


 結局傷は傷のままで残しておくことにして散会した。弁護士は名刺をくれた。市岡稟市りんいちというらしい。

「もともと神社の人なんだって」

 市岡たちと別れたあと、鮫川と一緒に帰宅した。これから神奈川まで帰るのは大変だから家に泊まらないかと誘ったのだ。今日は色々お世話になってしまったし。

 弁護士ではない方とドリンクバーで立ち話をしたのだと鮫川は言った。

「そうなんだ」

「弁護士さんはお祓いができて、弟さんは……なんか、お守り? みたいな」

「お守り?」

 あんまり聞かない響きだなと思う。人間で、お守り。

「ほんとに悪いものだと弟さんに会った瞬間逃げちゃうんだって。でもはるちゃんのは違ったでしょ?」

 傷は寝たふりをしている。わたしは黙って、いつの間にか腫れの引いた手首を撫でる。犬か猫か狐か狸。

「でもまあ」

 わたしたちはベッドに腰を下ろして喋っている。テレビでは日付が変わる前最後のニュースが流れている。

「浮気男に騙され続けなくて良かったし、たしかに悪いものじゃないと思う、この子」

 つい先ほど、大手映像制作会社の社員数名が感染症についての特番の制作費を横領していた疑いで逮捕されたらしい。ふーんそっか、と思う。犬か猫か狐か狸じゃ、お金の流れまでは分かんないもんなぁ。

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