お山の兄弟

 同じクラスの子はみんなヒサシくんが好きだった。わたしは小中学通してひと学年にクラスがふたつしかないようなど田舎の生まれだ。ヒサシくんのことは保育園の頃から知っていた。お山の市岡さんの末っ子。お山の市岡さんというのは文字通り山の上にある神社の通称で、わたしが生まれ育った町……村……のみならず、たぶん県内ではみんなが知っているような名前だった。お山の市岡さんは狐を祓う。或いは遣う。昔は子どもが熱を出したら病院より先に市岡さん、なんて言われていたこともあるらしい。今はさすがに誰も言わないけれど。

 とにかくそんな有名なおうちの息子であるヒサシくんは、ヒサシくんであるというだけでも人目を惹く上に付加要素がすごかった。ほんの小さな時分から整った目鼻立ち。可愛らしい笑顔。小学校に上がる頃には絵に描いたような美少年になり、背も伸びて、すらりと長い手足、屈託のない無邪気な性格、それにめちゃくちゃ足が早くて体育の時間には大活躍、頭も良くってみんなが嫌いな算数の授業で元気いっぱいに手を挙げる姿は今でも目に焼き付いている。

 こうも何もかもが完璧だと逆に彼のことを嫌いになる者が現れそうなものだが、意外や意外、排他的など田舎にしては有り得ないぐらい彼はすべての人間に愛されていた。お山の市岡さんだからヒサシくんのことが好き、という者もいた。お山の市岡さんとは関係なくヒサシくんが好き、という者もいた。とにかくみんながヒサシくんを好きだった。もちろんわたしも。


 狐を祓うとか遣うとか言われているのはヒサシくんのお母さんだった。その前はお祖母さんだったらしいが、詳しいことは知らない。毎年田植えのシーズンになると、ヒサシくんのお母さんは山から下りてきて農耕機のお祓いを行った。それ以外にも四季折々のイベントの中心にお山の市岡さんの姿があった。ヒサシくんは大抵の場合お父さんと手を繋いで『仕事』をするお母さんを見つめていた。そんな姿も絵になった。

 ヒサシくんにはお兄さんがいる。名前は稟市りんいちくん。ヒサシくんが小学校に上がる時にはもう受験を控えた中学生で、県外の高校に進学したためわたしたちヒサシくんの同級生は彼のことを良く知らない。良く知らないけれど、一度だけ、わたしは稟市くんに助けてもらったことがある。


 今よりもずっと暑くない夏のことだった。小学生だったわたしたちのあいだでは、こっくりさんが流行っていた。流行っていたとはいえ、こっくりさんに『狐狗狸さん』という字を当てることさえ知らなかった。

 わたしたちがこっくりさんに何を尋ねたのかはもう覚えていない。こっくりさんが何を答えたのかも。ああいや、ひとつだけ覚えている。ヒサシくんの恋人になれるのは誰ですか? と尋ねた。こっくりさんは、ここにはいない、と答えた。まあ、そうだろうなとみんなが納得する回答だった。それで……散々いろんな質問をしてきゃーきゃー盛り上がったあと、わたしたちはこっくりさんをきちんとお帰ししなかった。帰ってもらわなきゃいけないというルールは知っていた。でも自分たちの楽しみが優先で、それにどうせ参加してる誰かが十円玉に乗せた指に力を込めて動かしてると思ってたのだ。みんながそう思い込んでいた。

 次の日の体育の授業中沙織が足の骨を折った。国語の授業が始まってすぐ琢磨が泡を吹いて倒れた。放課後木下が校舎の二階の窓から飛んだ。3人とも昨日一緒にこっくりさんをやったメンバーだ。

 逃げるように学校から帰る道すがら、何かに後を付けられてるような気配がした。何に? 決まってる、そんなの。

「……いた! 藤澤!!」

 田んぼと田んぼに挟まれた道を駆け足で行くわたしの背に、大きな声をかけたのはヒサシくんだった。弾かれたように振り返ると、ヒサシくんは稟市くんと自転車を二人乗りしてわたしに手を振っていた。目が焼けそうな夕陽の中で市岡兄弟はこちらに駆け寄ってきた。自転車が倒れる音がした。ヒサシくんがわたしの右手をぎゅっと掴んで言った。

「そっちに行くと溺れるよ」

 え? と思った。だってここには田んぼしかない。蹴躓いて転んだとして泥だらけになるだけだ。

 稟市くん……その日初めてきちんと顔を見たヒサシくんのお兄さんは、ヒサシくんにあまり似ていなかった。白目の範囲が極端に広い三白眼、厚い唇をへの字に結び、真っ黒い髪が汗に濡れて額に貼り付いていた。その稟市くんが手を伸ばし、わたしの肩を掴んだ。それで目が覚めた。わたしは、小学校から歩いて一時間以上かかる場所にある川のほとりにいた。

 全身が汗でべしょべしょになっていた。教科書やノートが入った鞄はどこにもなかった。どうしてこんなところにいるのか分からなかった。

 わたしの肩を掴んだままで稟市くんが何かをつぶやいた。ごめんなさいとか申し訳ないとかそういう感じの響きだった。そうして稟市くんの手が、わたしの肩から何かを掴み出した。

 わたしには見えなかった。でもたしかに何かが出てきた。

 汗ばんだわたしの手から手を離さずにヒサシくんが呟いた。

「川の向こうから呼んじゃったんだね」

 稟市くんは何かをしばらく手の中で転がして、それからふっと息を吹いて空に飛ばした。何かは茜色の空にきらきらと輝いて消えた。見えなかったけれど、それだけは分かった。

 琢磨が保健室の先生に、沙織は病院に迎えにきた祖母に、木下が緊急搬送先の医者に、それぞれ昨日自分たちが何をしたのかを白状したのだという。そして話を聞いた全員がお山の市岡さんに相談した。村中みんながわたしを探していた。稟市くんは本当なら県内にいないはずだったのだが、なぜか昨日実家に戻ってきたのだという。

 体の震えが止まらないわたしの手をヒサシくんはずっと握っていてくれた。稟市くんは雑草がぼうぼう生える河原にどさりと腰を下ろして、大きく伸びをした。

「帰れなくなってびっくりしたんだよ」

 声変わりしたばかりと思しき低く掠れた声で稟市くんが呟いた。

「悪いものじゃないからもう忘れてあげて」

 わたしは黙って頷いた。何度も何度も頷いて、頷いているうちに涙が出てきた。遠くからお父さんとお母さんの声が聞こえた。探しに来てくれたのだ。

 話は、それで終わりだ。わたしは誰にも怒られなかったし、そこにはお山の市岡さんもヒサシくんも稟市くんもいなかった。わたしたちは二度とこっくりさんをやらなかった。稟市くんは週末を実家で過ごし、また県外の親戚の家に去って行ったという。


 ヒサシくんは相変わらずわたしたちのアイドルだった。稟市くんはそれから何年かして弁護士になるために大学に入ったという噂を耳にしたが、その後のことは知らない。

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