貴族である以上、初恋には期限がある

 何度目かの夜会で、俺は父親を伴って現れたエステリーゼを見つけた。

 キールからの報告によると、彼女はお茶会や舞踏会にはあまり参加せず、王立学園で勉学に勤しんでいるという話だった。

 少しでもいい条件の結婚相手を探したいという必死な令嬢とは違い、彼女は結婚に関して消極的だった。慎重と言えば聞こえがいいのかもしれないが、同年代と比べて、驚くくらい異性への興味が少なかった。

 女性の扱いに長けているルカが声をかけても、彼女が頬を染めるようなことは一度もなかったぐらいだ。普通ならば甘い囁きに卒倒するか、赤面してもおかしくないのに。


「そんなところで立っていないで、誘ってきたらいいじゃないか」


 俺が誰とも踊らずにいるのを見つけて、人の輪から抜け出してきたルカが声をかけてきた。

 つい視線をエステリーゼのほうに向ける。

 彼女は優男と一曲目のダンスを終えて、果実水で喉を潤しているところだった。


「……果たして俺が誘ってもいいのだろうか」

「何を言っているんだよ。親しい友人なら平気だって! ほら、行ってこいよ。じゃないと、悪い虫がすぐ寄ってくるぞ」


 ぐいぐいと背中を押され、俺はゆっくり彼女の元に近づいた。

 磨き上げられた大理石の床に俺の靴音が響く。だが、会場内を満たすオーケストラの春の音色によって、靴音ですら曲の一部のように思わせる宮廷楽団の腕は一流だ。

 とはいえ、間近で靴音が近づいてきたら嫌でも気づくだろう。

 案の定、エステリーゼがふっとこちらを向いた。


「あら、ジュードも喉が渇いたのですか? この果実水、爽やかで美味しいですよ」

「……そ、そうか」


 友人らしい会話だ。何もおかしくない。

 とはいえ、まったく緊張されないのもどうなのだろう。彼女は親類に向けるようなリラックスした表情だった。異性として見られていないのは明白だ。


(……いや、悪い方向に考えるのはやめよう。親しい証しだと思えばいいじゃないか)


 自分を鼓舞する。薄く息を吸い込んでから俺は腰を低くし、女神に許しを請うように片手を彼女の前に差し出す。

 ありったけの勇気を振り絞り、紳士らしく彼女にダンスの申し込みをした。


「エステリーゼ。どうか、次は俺と踊っていただけないだろうか?」

「…………」

「……エステリーゼ?」


 ぽかん、とした表情に俺は内心戸惑った。


(何か間違ったことを言っただろうか……? それとも、俺がダンスに誘うのはマズかったか? いや、まさか……そんなはずは……)


 ぐるぐると嫌な妄想が頭を駆け巡る。

 お互い婚約者もいない者同士。若い男女がダンスをするなんて別段珍しくないはずだ。


「はい。……喜んで」


 形式的な言葉とともに、おずおずと彼女の指先が俺の手の上に載せる。

 落ち着いたように見えていたが、やはり彼女も少なからず気を張り詰めていたのだろう。

 できるだけエステリーゼの負担を軽くしようと、俺は彼女が踊りやすいようにリードして会場内をくるくるとステップを踏みながら移動していく。

 そして、曲が終わる。お互い礼をすればダンスは終わりだ。

 長いようで短い幸せの時間はあっけなく終わり、それを待ち構えていたように、横から割り込んできた数人の男が次のダンスの相手に名乗り出る。その中から一番純朴そうな人物の手を取り、エステリーゼは再びダンスの輪に入っていく。


「…………行ってしまったか」


 婚約者ではない男と何度も踊るのはマナー違反だ。

 他の男が彼女にダンスを誘うのを止める資格は今の俺にはない。それがとても歯がゆかった。ただの友人にすぎない俺は、せいぜい一回相手してもらえばいいほうだ。

 もどかしい思いに駆られながら、彼女の後ろ姿を目で追う。

 胸に巣くうのは狂おしい熱情。


(……好きだ)


 そう伝えたら、彼女はまた逃げるのだろうか。俺の前から。

 正直、わからない。友人から恋人に昇格できるほどの親愛はまだ勝ち取っていない。

 告白して逃げられるぐらいなら、友人のままでいい。臆病者と思われてもいい。今は少しでも彼女のそばにいたい。

 もし失敗して、違う男の元に行かれたらと思うと、頭がどうにかなりそうだ。

 せっかく築き上げてきた彼女との関係を壊したくなかった。

 一歩踏み出すのはまだ先――――俺はいつものように問題を先送りにして社交に励んだ。

 彼女の心を正確に把握するなんて、天空神でもない限り、不可能なのだから。


 ◆◇◆


 最初は戸惑っていた彼女だったが、今では俺がダンスに誘うと微笑んでくれるようになった。嬉しい変化だ。ただし、舞踏会では筆頭公爵家の嫡男として顔つなぎの仕事があるため、エステリーゼにダンスを申し込める回数は片手で足りるほどだった。

 それでも何度か踊ったことで、お互い少しだけ肩の力も抜けてきたように思う。


(きょ、今日こそ言うんだ……!)


 ドレスアップしたエステリーゼは今日も一段と美しかった。

 透き通るような純白の肌をさらし、シャンデリアの下で見下ろす彼女は華やかなドレスに負けない気品に満ちていた。

 今までは化粧で着飾った彼女を心の中で賞賛する一方、気恥ずかしいという思いが上回って、直接彼女を褒めることができずにいた。過去、何度も言葉で伝えようと試みたが、それらはすべて口の中で空回りして終わった。


「……あ、その……」

「?」


 エステリーゼが不思議そうに見つめてくる。

 緊張で冷や汗をかく俺の姿が、彼女の檸檬色の瞳に映っていた。

 目を左右に泳がせつつ、ダンスで彼女の腰に回していた手をぐいっと引き寄せる。密着した彼女の体から、ほのかに甘い香水の香りがした。

 その香りにくらりとしながらも懸命に自分を律し、俺はエステリーゼの耳元で囁くように言うのが精一杯だった。


「…………。ドレス、似合ってる」


 エステリーゼを前にすると、俺の語彙力は途端に失われるらしい。

 もっと他にいい言葉はいくらでもあるはずなのに、脳がオーバーヒートしたように思考回路が機能しなくなる。

 女性遊びに慣れた悪友の口説き文句を真似するのは、恋愛初心者の俺にはハードルが高すぎる。そもそも歯の浮いたような台詞など、直接言うことを想像するだけで羞恥心でどうにかなりそうだ。

 俺は真剣に彼女を愛しているし、やはり安っぽい口説き文句はふさわしいと思えない。


(くそ、面と向かって言えないなんて……恥ずかしくて死にそうだ)


 耳を赤くしていると、ふふっと楽しげに笑う声がした。

 反射的に顔を上げる。そこには照れたように頬を染めたエステリーゼがいた。


「どうもありがとう」


 長年の付き合いだからわかる。これは社交辞令ではない、心からの感謝の言葉だ。

 穏やかな笑みをたたえた彼女があまりにも可愛くて、心臓が高鳴る。

 そのとき、身をもって痛感した。

 恋は落とすものではなく、何度も落ちるものだと。


 ◆◇◆


 エステリーゼとの友人関係は十二年間、続いた。

 彼女は結婚や婚約の話には敏感で、その手の話題が出ると、わかりやすく話を逸らしていた。だからこそ、今はまだそのときではないと己に言い聞かせ、俺は友人の座を死守した。

 舞踏会では彼女に粉をかけようとする輩を一睨みで撃退させ、何食わぬ顔で彼女と雑談を続ける。ヴァージル公爵家を敵に回したくない賢い男たちはそそくさと逃げ帰り、俺は友人として彼女のそばに居続けた。

 しかし、俺ももう二十歳。エステリーゼにいたっては十七歳だ。

 友人関係を続けるには、さすがにもう限界が近づいていた。


「さて今日、呼び出した件だが……」


 父上の執務室の机には、俺の婚約者候補の釣り書きが積み上げられていた。

 それらを一瞥し、毅然とした態度で自分の意見を述べる。


「俺が伴侶として選ぶのは、エステリーゼ・ウォルトン伯爵令嬢です。彼女以外の婚姻の話はすべて丁重にお断りしてください」

「……お前がエステリーゼ嬢に懸想しているのはわかっていたつもりだが、本当にずっと待ち続けるつもりか? 彼女がお前を選ぶ日まで」

「はい。必ず、彼女の心を射止めてきます。――ですからどうか、もうしばらく俺に時間をいただけませんか」

「だが、エステリーゼ嬢はすでに社交界デビューを果たしている。つまり、彼女はもう結婚適齢期だ。ウォルトン伯も愛娘の嫁ぎ先を探していると聞く。現状、彼女がお前を選ぶ可能性は限りなく低いのではないか?」


 それは痛い指摘だった。

 これだけ長く一緒にいるのだ。普通の男女であれば、恋心を抱いても不思議ではない。

 けれども、俺たちの間には友人という超えられない壁が立ち塞がっている。


「……たとえどんなに勝率が低くても、俺は最後まで諦めません。彼女だけは諦めたくない。一生を添い遂げる相手は彼女以外には考えられません。幸いなことに、まだエステリーゼに婚約者はいません。つまり、俺が婚約者になればいいのです」


 澄ました顔で言うと、父上は渋い声で反論した。


「彼女はお前のこと友人としか見ていないと聞いているが?」

「俺が心から愛する女性はエステリーゼだけです。彼女にそのことを信じてもらえるまで、言葉を重ねます。彼女が選ぶ男はきっと誠意のある男でしょう。ならば、それに徹するしかありません」


 なぜかわからないが、彼女は他の女性避けとして俺が婚約を申し込んでいると思い込んでいる節がある。俺が結婚相手として望むのは彼女だけだというのに。

 そもそも、この誤解が簡単に解けていれば、こんなに頭を悩ませていない。

 婚約を再三申し込むのも逆効果だと思って自重していたが、そろそろ攻勢に転じる頃合いかもしれない。


「……そんなことをせずとも、公爵家から圧力をかければ婚約ぐらいできるだろう。だが、その方法はまだ反対なのだな?」

「無論です。権力によって彼女を得る方法では、心までは手に入りませんから」

「一方的な愛だけでは満足しないということか……」

「俺は形だけの夫婦になるつもりはありません。愛し愛される夫婦になりたい。彼女にはずっと誠実であり続けたい。だから公爵家の力を借りるつもりはありません」


 最後の悪あがきとわかっていても、俺は彼女だけはどうしても諦めたくない。

 とはいえ、貴族として生まれた以上、初恋に期限があるのも知っている。

 俺ではエステリーゼの心は射止められない。それならば、そろそろ他の女性に目を向けるべきだ。社交界で生き抜いていくならば、しかるべき家格の娘を伴侶に迎えなければならない。

 父上がそうであったように。

 だが、絶望に沈む俺の耳に届いたのは応援の言葉だった。


「よく言った! わが息子ながら、その心意気は見事だ。なかなか、そこまで一途な恋をできる者も少なかろう。エステリーゼ嬢が学園を卒業する十八歳が期限だ。頑張りなさい」

「は、はい……! ありがとうございます!」


 まさか賛同を得られると思わなくて内心戸惑ったが、これは嬉しい誤算だ。

 しかし、明確な期限がついてしまった。ここが正念場だ。難攻不落の女性を落とす方法を何としてでも考えなければならない。

 俺はみなぎるやる気に満ちたまま、執務室を後にした。

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