名も知らぬ令嬢の正体は

 俺と同じくらいの身長ということは、彼女は同い年か年上だろう。

 あの園遊会に招かれたのは子爵家以上の貴族の娘だけだ。

 深緑の波打った髪に、つり目がちな檸檬色の瞳。そして、人の輪には加わらないような、おしとやかな性格の令嬢。

 けれど、その条件に一致する人物は誰一人いなかった。


(これは一体どういうことだ……? 君は一体、何者なんだ?)


 もしかしなくとも、何か大きな見落としがあるのではないか。

 貴族令嬢という条件で探していたが、まさか使用人と服を取り替えたわけではあるまい。そんなことをしてもメリットなど何もないのだから。

 リストを書き連ねた羊皮紙を眺めながら俺は嘆息した。


(名前もわからないままでは再会もできない。婚約だって申し込めない)


 園遊会の招待客の令嬢リストは、俺の婚約者候補のリストでもある。

 この中に俺の婚約者になる予定だった令嬢がいるのだと思うと見るのも億劫だが、公爵家嫡男である以上、政略婚姻は避けられない。そう思っていた。――彼女に会うまでは。


(招待客の従姉妹まで範囲を広げて調べたのに該当者がゼロとは……。もしや俺は妖精にでも会ったのだろうか? だから会えないのか……?)


 悶々と考える中で、ふと気になってリストにもう一度目を通す。

 今の今まで忘れていたが、園遊会の日、行方不明だった令嬢がいたはずだ。まだ五歳の子どもだと思って眼中になかったが、もし彼女が行方不明の令嬢だったのなら、すべての辻褄は合う。

 令嬢ごとの外見の特徴をまとめた紙と見比べ、俺は目を疑った。


(エステリーゼ……それが君の名前だったのか……)


 髪色や瞳の色も一致している。そもそも、彼女が同世代より高めの身長だと前もって知っていれば、こんな回り道をしなくても済んだはずだ。

 先入観は視野を狭める。そのことを痛感し、長く伸びた前髪をかき上げた。


(だが不幸中の幸いだ。彼女に婚約者はまだいない。もともと俺の婚約者候補だったのなら、父上の説得も難しくないはずだ)


 長く息を吐き出して、俺はリストを置いて部屋を出た。

 有名な画家の風景画が並ぶ廊下を抜けて階段を上る。今すぐ走り出したい衝動を抑えて、早足で目的の部屋を目指す。

 当主の執務室兼寝室である、突き当たりの広い部屋の前で立ち止まった。

 一刻も早く話したい。しかし、すぐに冷静を欠くのは次期当主にふさわしくない。どうにか逸る気持ちを落ち着けようと、その場で深呼吸を繰り返す。

 ぐっと気を引き締めるが、ドアを叩く手は少し震えた。


「ジュードです。今、よろしいでしょうか?」

「入りなさい」


 許可を得て入室すると、黒檀の執務机で書類を捌いていた父親が顔を上げる。

 机の両端には書類の山が積み上げられている。

 これは手短に済ませなければならないな、と俺は早速話を切り出した。


「父上。ご報告があります」

「……先日の件か?」

「はい。彼女の名がわかりました。ウォルトン伯爵家の一人娘、エステリーゼ嬢です」


 俺が名を告げると、父上は目を見開いて硬直した。

 かと思えば、眉間に刻んだ皺をほぐすように指先を当てながら、地を這う声が返ってきた。


「ちょっと待ってくれ。お前が見初めたのはエステリーゼ嬢だった、ということか?」

「そうです」


 なんてことだ……とつぶやきながら父上は天井を仰ぎ見た。

 その姿は、オペラで信じがたい光景を前に悲嘆に暮れる役者のようだった。


「あの……?」


 俺が声をかけると、遠い目をしていた父上がハッとした様子で向き直り、視線が交わる。大きく咳払いしてから、父上は厳粛な面持ちで告げた。


「ジュード。よく聞くんだ。あの日、園遊会で婚約者として顔合わせする予定だった令嬢は、エステリーゼ嬢なのだ」

「は……?」

「つまり、何もしなくとも婚約できたはずなのに、お前はその機会をふいにしてしまった。実に残念だ。ウォルトン伯は誠実な方だ。一度こちらから断りを入れておいて、再び婚約の申し出をするのは誠実に欠ける行いだ。賢いお前なら、この意味がわかるだろう?」

「…………」


 みるみるうちに絶望に染まる心に、労るような声が続く。


「諦めなさい、ジュード。きっと縁がなかったのだ。他にも令嬢はいる。この先、いつかジュードが好きになる令嬢と出会えることもあるだろう」

「…………せん」

「なに?」

「俺は諦めません! 必ず彼女を振り向かせてみせます」

「振り向かせて……? ま、まさか、お前が好きになってもらうようにアプローチするのか? これまで数々の令嬢を泣かせてきたお前が!?」


 驚愕した様子で確認をする父上の姿は無理もない。これまで俺がしてきた、異性に対しての態度は褒められたものではなかった。

 俺自身、こんな風に変わる日が来るなんて、信じられない気持ちだ。


「今までの俺は愚かでした。過去は変えられません。しかし、未来は違います。これからは女性に対して誠意を持って対応することを誓います。ですから……どうか俺にチャンスをください」


 自分の拳を握りしめて切々と語ると、父上は悩ましげに腕を組んで唸った。


「仮にエステリーゼ嬢がお前を受け入れたとしても、こちらから一度断りを入れた以上、ウォルトン伯もすぐに頷くとは考えにくい。苦難の道とわかっていて、あえてその道を選ぶと?」

「もちろんです。どんなに困難だとしても、俺は彼女を選びます」

「…………そこまで決意が固いのであれば、もう何も言うまい。決して無理強いはせず、やれるだけやってみなさい」

「はい! 失礼します」


 無事に父上から言質を取れたことで、退室の足取りも軽くなる。

 ドアを完全に閉めてから両拳を突き上げた。


 ◆◇◆


 彼女の名前がわかってから、俺はすぐに動いた。

 公爵家の情報網を駆使して彼女が出席するお茶会の日程を調べ、帰る時間を逆算して先回りした。お茶会帰りの他の令嬢が、道の横に立っている俺に気づいて早足で帰る中、エステリーゼは一人楽しそうに歩いている。

 彼女以外の令嬢が皆いなくなるのを見届け、道の真ん中で腕組みをして待ち構える。やがてエステリーゼがようやく俺に気づいたように立ち止まった。

 無言のまま視線が交差し、今の状況に気づいた彼女の顔が瞬時に驚きに染まった。

 俺はできるだけ彼女を刺激しないよう、ゆっくりと歩みを進めていく。


「……やっと、見つけた」


 毎日毎日、君のことをずっと考えていた。

 再び会える日をどれだけ待ちわびていたことか。もう逃がしはしない。

 だが、ここで不用意なことを言って、また避けられても困る。

 聞きたいことは山ほどあるが、この場で質問攻めにするのはよくないだろう。まずは彼女を怖がらせないように緊張をほどいて、優しく接さなければ。

 彼女はとても繊細な女性なのだから。


「君の名前を教えてほしい」

「な、名乗るほどの者ではございません」


 君のことはもう調べ尽くしたというのに、この期に及んでまだ逃げ切れると思っているのだろうか。前までの俺だったら確実に鼻で笑っていただろうが、不思議と彼女にはそういう気持ちは湧いてこない。

 彼女とこうして喋れるだけでも嬉しいと感じる自分がいた。

 とはいえ、異性にこれほど距離を置かれるのは新鮮だ。不安げにそわそわと目を泳がせていることから、隙あらば逃げようとしているのが丸わかりだ。


(まるで警戒した子猫のような反応だな)


 そう思うと、自然と口元がほころんだ。

 慎重に俺の反応を探る彼女に、できるだけ威圧を与えないように説明する。


「君は当家の園遊会に来ていた。ということは、子爵家以上の家柄の娘だろう。公爵家の人間と仲良くすることは、君の家にとってもいいことのはずだが?」

「…………」

「あの日、招待者の中で、挨拶を交わさなかった相手が一人だけいる」


 俺の言葉の先がわかったのだろう。

 ぴくりと彼女の手が震えたことに気づいたが、あえて続きを口にした。


「エステリーゼ・ウォルトン。それが君の名前じゃないか?」

「……最初からご存じだったのですか?」

「君の名前を知ったのは、君が帰った後だ。もともと、あの日は俺たちの顔合わせをする予定だった。そして……君と俺の婚約をお披露目する手筈だったと聞いた」


 よどみなく告げると、エステリーゼは考えこむように黙ってしまう。

 沈黙を選ぶ彼女を見つめながら、俺は戸惑った。


(これは、嫌な予想が当たってしまったか……?)


 万が一にも彼女を責めていると受け取られないように、言葉を選びながら口を開く。


「もしかして……と考えていたが。君は婚約したくないから、あの日、草陰にいたのか?」

「……さようでございます」

「それは、どうして?」


 俺の記憶が正しければ、彼女に対して横柄な態度を取った覚えはない。

 会う前から逃げられるほどの理由は一体、何なのか。

 どうしても、彼女の口から聞きたかった。

 すがるような目で見つめると、俺の視線から逃げるようにエステリーゼがふいっと横を向いた。そして彼女は観念したように口を開いた。


「……わたくしの口からは申し上げられません」


 何かをこらえるように、ぎゅっと目を閉じる様子から明確な拒絶を感じた。


(俺は君をもっと知りたい。そもそも簡単に諦められるような気持ちなら俺は今、ここにいない。これほど俺の心を虜にする女性は、きっともう出会えない)


 しかしながら、これほど頑なな態度を取れられるのは初めてだ。

 ここで何を言っても意味がないような気がする。でもだからといって、すごすごと引き下がることもできない。


「エステリーゼ。俺は君に婚約を申し込みたい。だめだろうか?」

「…………」


 俺の言葉に目を見開いて後ずさりしたかと思うと、エステリーゼは何も言わずに走り出した。方角的に迎えの馬車がある方向だ。

 反射的に彼女に向かって手を伸ばすが、彼女が踏みとどまることはなかった。


「待て。なぜ逃げる!? 俺の何がいけないというんだ」


 叫ぶように言うが、答えはなかった。パタパタと全速力で駆けていく彼女の姿は、すぐに小さくなっていく。

 俺は左手を下ろし、もう片方の手で顔を覆った。


(あの見事な逃げっぷり……どう考えても、俺は彼女に好かれていない)


 ある程度予想はしていたが、その事実は想像以上に心にダメージを与えた。

 俺はしばらくその場から動けなかった。

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