かけがえのない婚約者

 本日はエステリーゼと二人だけのお茶会の日だ。

 ヴァージル公爵家とウォルトン伯爵家で交互に行われるお茶会は、婚約続行のために定期的に行われている。ほとんど会話がないまま終わるが、今日は前もって話があると俺は招待状に一筆書き添えていた。

 給仕を終えたメイドが下がるのを見届け、エステリーゼは棘のある声で尋ねてきた。


「改まって一体何の話かしら?」

「…………その……花屋でのことだが」


 渋々切り出すと、エステリーゼは最初首を傾げていたが、しばらくして俺が言いたいことに思い当たったのだろう。


「……別に気にしていないわ。愛妾の一人や二人、別に珍しくないでしょう。わたくしだって、その覚悟ぐらいあるわよ」


 それは、まるで自分に言い聞かせているような台詞だった。

 長年エステリーゼを見続けてきたからわかる。第三者が見たら別に何ともないといった表情だが、本心からそう言っているのではないことぐらい。


(……素直でないのはお互い様だな)


 もうじき彼女は王立学園を卒業する。

 結婚式を挙げたら、彼女は実家を出てヴァージル公爵家の仲間入りをすることになる。


「一応、確認しておくが……君は俺とこのまま結婚してもいいんだな?」

「いいも悪いも、この婚姻に本人の同意は関係ないでしょう。だって、政略的な契約に基づく結婚なのだから。それとも、わたくしが嫌だと言ったら、あなたの力でこの話を白紙に戻せるの?」

「…………」

「無理でしょう。だって、あなたはまだ爵位を継いでいない。貴族の子どもの婚姻は当主に決定権がある。わたくしたち当人の意思は考慮されない。結婚が家同士の結びつきを強めるのが目的なら、わたくしが口出しする問題ではないわ」


 俺がどれだけ君を想っているのか、エステリーゼは知らない。

 だからこその発言なのだろう。そう頭では理解できるも、その事実は俺をどん底に突き落とすには十分だった。言葉を失う俺を尻目に、エステリーゼは何かに気づいたように話を続けた。


「ああ……それとも、第二夫人候補の相談? あなたがわざわざ花を買いに行くほどだものね。よっぽど魅力的な女性なのでしょう」

「ち、違う……!」

「別にわたくしに遠慮せず、好きにしてもらって結構よ。もともと、わたくしたちの間に愛などないのだから。たとえ愛のない結婚でも、次期当主として恥ずべき行いをしないのであれば何も言わないから」


 彼女の口から愛のない結婚だときっぱり言い切られて、俺は面食らった。

 このときばかりは己の羞恥心に構う余裕などなく、本音を彼女にぶつけていた。


「頼む、聞いてくれ。俺は第二夫人は娶らない。伴侶は君だけだ」

「…………。気が変わったら、いつでも言ってくれていいのよ? これから素敵な出会いがあるかもしれないし、今ここで無理してわたくしに誓う必要はないわ」

「俺を信じてくれないのか?」

「……信じる? あなたを? わたくしが?」


 愛情すら与えない男の一体何を信じるのか、という副音声が聞こえた気がした。

 その瞬間、俺は唐突にある可能性に気づく。


(もしや俺の態度のせいで、エステリーゼはたくさん辛い目に遭ってきたのではないか?)


 口さがない世間にとって、婚約者に顧みられない令嬢は哀れみの目を向けられてもおかしくない。それどころか、一人の男にすら愛されないことを理由に、自分より下の立場だと侮られていた恐れもある。

 けれど彼女の性格上、影で悪口を囁かれていても人前では気丈に振る舞っていたはずだ。俺もそれを当然と受け止めていた。なぜなら俺の前で弱さを見せることなんて、一度もなかったから。


(いつも強気に言い返すから、彼女は何を言われても平気だと思っていたが……もしそれで傷ついていたならば話が違う)


 エステリーゼはずっと俺の婚約者だった。

 婚約という契約で、彼女の自由を縛っていたのだ。それも何年も。

 いつも毅然とした態度だったから、無意識にエステリーゼを強い人だと決めつけていた。だが俺のいないところで一人苦しんでいたとしたら――。


(俺は本当に無神経だ……自分のことだけで精一杯だった)


 エステリーゼは言葉に詰まった俺から視線を逸らし、優雅に紅茶で喉を潤す。

 すべての感情に蓋をし、何もなかったように振る舞う。その様子はいつものお茶会と何ら変わらない。だからこそわかった。

 俺の言い訳や謝罪など、最初から何も期待されていないのだと。

 好きではない男に嫁がされるエステリーゼの苦悩が垣間見えた気がして、俺は片手で目を覆った。何を言われても傷つかない人間などいない。

 心を許していない俺に、彼女は弱みを見せる真似などしない。もはや、何を言ってもエステリーゼの心には届かないだろう。

 しかし、これだけは伝えなくては。


「――結婚後、君に不自由な思いはさせない。君の夫として、最低限の礼儀は尽くそう」


 たくさんの言葉を飲み込み、顔を上げた俺はそう言うのがやっとだった。

 エステリーゼは社交辞令と受け取ったのか、素っ気なく「……そう」とつぶやくように言った。


 ◆◇◆


 純白のタキシードに身を包み、俺は王都中心部にある大聖堂を訪れていた。

 聖堂の両端には白い飾り柱が並び、深紅の絨毯が敷かれた中央の道を悠々と歩く。

 正面の五角形のステンドグラスから朝日が差し込み、七色の色彩がきらきらと絨毯の上に降り注ぐ。天の祝福を受けたような神秘的な光を受けながら、ふと立ち止まった。

 天空神をかたどった精緻な石像を見上げる。豪奢な剣を両手で持つその姿は創世神にふさわしい神々しさが宿っていた。

 いつ彼女から婚約破棄されるかと正直不安だったが、どうにか結婚式までこぎ着けた。

 花嫁を乗せた馬車が到着するまで、あと数時間。

 静謐に包まれた大聖堂にいるのは俺と、影のように後ろを歩くキールのみ。

 大司教は、大聖堂に隣接した礼拝堂で朝の仕事を果たしている頃だろう。

 親族も招待客もいない中、俺は最前列の横長の椅子に腰かける。神に懺悔するように、組んだ両手を自分の額に当てながら口を開く。


「彼女が王都に来たときは、今までの非礼を詫びるつもりだ。これまで散々エステリーゼには暴言を吐いてしまった。彼女が許してくれることはないだろうが、それでも誠心誠意、心を尽くして謝罪する。どれだけ時間がかかっても、この命が尽き果てるまで彼女を第一に考えて行動する」


 俺の決意表明にキールが穏やかに笑うのが気配でわかった。


「はい。影ながらジュード様を見守っております」

「……ああ。これからもよろしく頼む」


 その後、軽食を間に挟みつつ、大聖堂二階の貴賓室で聖典の写しを読みながら花嫁の到着を待った。だが到着予定の時刻を過ぎても、ウォルトン伯爵家の紋章入り馬車が訪れることはなかった。

 続々と他家からの招待客は大聖堂に集まっている。

 しかし、主役の一人である新婦の姿がまだない。本来ならば、とっくに到着していてもおかしくない時間だ。新郎と新婦は、結婚式前に段取りの最終打ち合わせがあるのだから。


(今日は悪天候でもないし、遅れる場合は前もって知らせが届くはずだ。それがないということは、まさか彼女の身に何かあったのか……?)


 嫌な予感が体を駆け抜ける。

 それを裏付けるように、二階の貴賓室に向かって慌ただしい足音が近づいてくる。続いて焦ったようなノック音。キールが慎重に扉を開けると、見慣れたメイドが鬼気迫る顔で告げた。


「た、大変でございます……!!」

「そのように慌ててどうした? 一体、何があったのだ」

「エステリーゼ様が乗っていた馬車が崖から落ちたようです。先ほど、生存者はゼロとの早馬が……っ!」


 信じられない報告に俺は目を見開いた。

 黒いインクをぶちまけられたように、目の前が真っ暗になる。


(嘘だ……エステリーゼが死んだ? そんな、ばかな……)


 本当ならこの大聖堂で結婚式を執り行うはずだった。

 花嫁を乗せた馬車を王都で出迎え、俺たちは天空神の前で生涯の愛を宣誓する予定だった。


「…………なるほど、これが俺の罰か」


 俺の独白に不穏な気配を感じてか、キールが心配な顔で見つめてくる。


「ジュード様、顔色が真っ青です。大丈夫でございますか」

「俺が素直になれなかったばかりに……もっと早く彼女に許しを請うていれば。いやもう、何もかも遅い。そもそも結婚してから謝罪すれば、いつか許してもらえるなんて考えが浅ましかったのだ。天空神もそれを見抜いておられたのだろう。つまり、エステリーゼは不幸な花嫁にならずに済んだわけだ」

「落ち着いてください。エステリーゼ様の事故はジュード様のせいではありません。そのようにご自身を責めてはいけません」


 キールが優しく諭してくれるが、心の闇は膨れ上がる一方だった。

 結局、結婚式を迎える日まで、俺はエステリーゼに自分の本音を伝えられずにいた。

 彼女は一体、どんな気持ちで馬車に揺られていただろう。気丈に見せていても、内心では俺との結婚生活に不安を抱いていた可能性は充分にある。

 もしかしなくとも、自分は不幸な花嫁だと感じていたのではないだろうか。

 仮にこの予想が当たっていたとしたら、エステリーゼは死ぬ間際、一体何を考えていただろう。死の怯えよりも、俺と結婚せずに済んでよかった、と思っていたかもしれない。


「――俺のせいだ。今までどれだけ彼女を傷つけてきた? 優しく笑いかけることもできず、本心とは真逆な言葉を吐き捨てるように言い、彼女を散々侮辱してきた。そのくせ、彼女に近づく他の男に威嚇してばかりの狭量な男だ。こんな男の元に嫁がないほうが幸せに決まっている……」

「ジュード様……」


 所詮、俺はプライドばかりが大きいだけの器の小さい男だ。

 他の令嬢には紳士的に接することができるのに、エステリーゼを前にすると緊張が上回ってうまく言葉が紡げない。

 俺にとって、そのくらいエステリーゼは特別な女性だった。

 年々美しくなっていく彼女を見ると、焦りだけが募っていった。彼女に色目を使う周囲の男を牽制することはできても、長年染みついた口の悪さは直らず、エステリーゼに愛を囁くことはできない。

 今まで謝罪をして信頼関係を築く機会はいくらでもあったはずなのに、意気地なしの俺はその機会をいつも活かすことができずにいた。これまで散々悪態をついていた自覚はあるだけに、今さらもう遅い、という思いが毎回頭をよぎった。


(俺は最低だ。君に気の利いた言葉ひとつ言えず、せっかく用意した贈り物さえ一度も渡せなかった)


 怖かったんだ。これ以上、嫌われることが。

 自分の本音をエステリーゼに伝えて拒まれたら、おそらく俺は立ち直れなかっただろう。

 だが、たとえこの想いを拒否されたとしても、ちゃんと伝えればよかった。

 君を愛していると。関係をやり直したいと。

 

(もう一度、最初からやり直せるなら。あのとき、もし違う形で出会っていれば、あるいは――)


 都合のいい夢を考えて現実逃避しても、すべては無駄だとわかっている。

 なぜなら今も時計の針は止まることなく、無情にも時を進めていくのだから。物語のように、都合よく時間が巻き戻るなんて奇跡は起きない。


(君の代わりなんていないのに。一体、俺はこれからどうやって生きていけばいいんだ。君のいない世界で……)


 絶望の淵に立たされた中、その日、俺は最愛の人を失った。

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