取り返しのつかない過ち

 エステリーゼが赴く夜会は常にエスコートしているが、何度やっても慣れることはなかった。毎回、初めてのように心臓はずっと騒ぎっぱなしだ。

 シャンデリアの下でも映えるよう濃いめに化粧された彼女は艶やかで、昼間の雰囲気とはまるで違う。イブニングドレスで肌の露出が増えているのも大きいが、髪を結い上げた姿は別人のように思えて落ち着かない。

 彼女が着飾るのは、俺を喜ばすためではないことぐらい、わかっている。だがデビュタントして大人の仲間入りを果たしたエステリーゼはいつだって美しく、直視できない。

 彼女の美貌の前では、どんな立派な宝石も見劣りしてしまうに違いない。


「…………」

「…………」


 馬車で彼女の正面に座ることは緊張の連続で、俺は彼女の機嫌を損ねないように口をずっと噤んでいた。この厄介な口は一度開くと、本音と違うことばかり吐き出すからだ。

 目的地に着いたのだろう。石畳を走る馬車がゆっくり速度を落として停まったので、俺が先に降りる。馭者が用意した踏み台に片足を載せ、馬車の中で待つエステリーゼに手を差し出した。

 彼女のために俺がすることで、エステリーゼが頬を染めることはまずない。

 おそらく、すべて婚約者の義務からの行動だと思っているのだろう。その証拠に、檸檬色の瞳は感情を無にしたように冷たい。

 俺は細心の注意を払い、彼女の小さく華奢な手をそっと取る。


(緊張しているのはいつも俺だけだ。婚約者として長く一緒にいるのに、俺は片思いをしているわけか……)


 キールには善処すると言ったが、この恋が成就する見込みはゼロに等しい。

 エステリーゼを伴って赴く舞踏会は、一日にいくつもの邸宅をはしごする。俺の婚約者として愛想笑いをしなければならない彼女をあまり連れ回したくないが、貴族の付き合いを軽んじることもできない。

 根回しと情報収集に舞踏会の顔出しは欠かせないのだ。

 ヴァージル公爵家に届く舞踏会の招待状は山のようにある。筆頭公爵家が出席した舞踏会は箔がつくため、欠席するとわかっていても主催者はこぞって招待状を送ってくるからだ。

 最初に行く舞踏会は最初の三十分ぐらいで早々に引き上げ、次の舞踏会へ移動する。そこでも当たり障りのないやり取りをした後、その日の最後の舞踏会に出席することになる。


(疲れているだろうに、今夜もエステリーゼは弱音一つも吐かない)


 婚約者として立派に責務を果たしてくれるのはありがたいが、無理をさせている自覚はあるので嬉しい反面、心苦しい気持ちも当然ある。

 腕を組んで、横を歩くエステリーゼのドレスを一瞥する。


(もはや妖精というより、まるで女神様のようだな……)


 深紅のドレスは大胆に襟ぐりが開かれ、惜しげもなく彼女の美貌を引き立たせていた。

 いつもはもう少し控えめなデザインを好んでいたと思うが、一体どういう心境の変化か、扇情的なデザインだ。美しいとは思うが、正直に言ってしまえば、この姿を他の男の前にさらすのは強い抵抗がある。

 しかしながら、俺の口はいつも本音とは違う言葉を吐き出す。


「ダンスではせいぜい足を引っ張る真似はしないでくれ」

「――わかっているわ」


 そもそも、俺の褒め言葉なんて端から期待していなかったのだろう。エステリーゼは特に落胆した様子も見せず、清々しいほど普段通りだった。


 ◆◇◆


「よぉ。こんなところで奇遇だな?」

「……ルカ。なんでお前がこんなところにいる?」

「何って、女の子たちへのプレゼント選びだよ。その子に合った花を一輪ずつ選んでいるんだ」


 銀髪碧眼の男は、伊達眼鏡を胸ポケットに片付けて口の端をつり上げた。

 彼の名はルカ・ウェンデル。建国から代々続く名門ウェンデル伯爵家の次男だ。

 家格は伯爵家だが国王陛下からの信頼は厚く、議会からも一目置かれている家だ。彼の祖先や現当主は本来なら公爵になってもおかしくない働きをしているが、表立って活躍するのをよしとしない家風のため、今も伯爵位に留まっていると聞く。

 それもそのはず、代々ウェンデル一族は国の忠犬――国王直属の諜報機関という役割を担っている。今では、その事実を知るのはほんの一握りだが。

 彼らは表と裏の顔を使い分け、国に忠義を尽くしている。

 次男であるルカは家督こそ継がないが、すでに有能な働きをしていると耳にしている。

 もともと美形の家系だからか、令嬢たちの中には彼のだだ漏れの色気にあてられ、失神する者もいるとかいないとか。本人はその美貌を最大限に活かし、複数の女性を伴うことが多い。

 俺には冷たいエステリーゼもこの男の前では、楽しげに笑うこともある。しかも、それは一度や二度ではない。

 柔らかな物腰で相手を油断させるのはルカの十八番だが、正直面白くはない。


(……思い出したら腹が立ってきたな)


 甘い言葉ひとつで数々の女性を籠絡してきたルカは、俺とは真逆のタイプだ。

 俺は必要に迫られない限り、異性に優しく接することはない。困っている場合は紳士らしく助けることもあるが、必要以上に関わることはまずない。

 だがルカは「身分や年齢を問わず、すべての女性を平等に優しく」を信条に自分から率先して動く。俺には到底理解できないが、わざわざ贈り物を別々に準備して相手を喜ばせる。金額から考えれば、ささやかな贈り物であっても、自分のために選んでくれたところが評価されているらしい。

 とはいえ、ルカの女性に対する守備範囲は広すぎる。そのうち、醜い嫉妬心に駆られた女性に刃物を向けられる日が来てもおかしくない。

 もしこいつが刃傷沙汰で血まみれになったことが新聞に載ったら寝覚めが悪い。

 仕方ないので、昔なじみとして忠告だけしておく。


「女遊びもほどほどにしろよ」

「今さら何だよ。俺の仕事も知っているだろーが」

「だが、お前は心から楽しんで喋っているようにしか見えない」

「当たり前じゃん。女の子と話すのは楽しいもん」

「…………」


 予想通りの答えが返ってきて、俺は思わず渋面になった。


「そんで? ジュードが花屋にいるなんて、どんな心境の変化?」

「…………別に」


 エステリーゼに花を贈るつもりだった、なんて口が裂けても言えるか。

 せっかく庶民に扮して着古した服を調達してきたのに、これほどタイミング悪く店先で知り合いに会うだなんて誰が想像しただろう。しかも、ルカは服の着崩し方といい、いかにも中級家庭の息子といった格好だ。

 髪型も変えてリラックスした姿を見せつけられては、経験の差が一目瞭然である。


(くそ……わざわざ貴族街ではなく、中心街外れの花屋を選んだのに、なんでよりによってルカに出くわすんだ)


 ルカは情報通だ。複数の女性と関係を持っているのも、言わば仕事の一環だ。

 そして、表情の些細な変化から相手が何を思っているのか、彼はすぐに見抜くことができる。もちろん、見て見ぬふりもできるはずだが、基本的にルカは俺に遠慮なんてしない。

 気の置けない友人といったら聞こえがいいかもしれないが、要するに俺たちは親の意向に関係なくつるんでいる。この貴族社会で生き抜く中で、素の状態をさらせる相手はなかなかいない。

 そういう意味では、お互いリラックスできる貴重な相手というわけだ。


「ふーん。とうとう、ジュードも気になる女性に花を贈る気になったと。いやぁ、恋って人をここまで変わらせる劇薬なんだなぁ。いい人に出会えてよかったじゃないか」

「やめてくれ。……彼女とは所詮、政略結婚で決められた婚約者にすぎない。そこに上も下もない」

「またまたぁ、好きなんだろ? たまには正直になってみれば?」


 俺にとってそれがどれだけ難しいか、ルカはわかっていて言っているのだ。

 その証拠に意地の悪い笑みになっている。


「エステリーゼ嬢とちょっと話しただけの俺に、あからさまな敵意を向けてくるぐらいには好きなくせに強がっちゃって」

「……す……好きではない! 断じて! 毎回俺に突っかかってくる彼女のどこに好きになる要素があるというんだ。天地がひっくり返っても、俺が彼女を好きになることなどあり得ない!」


 いまだに本人に好きだと言えないのに、この思いを軽々しく口にできるわけないだろう。


(まったく……ルカは俺の本心を知っているくせに)


 わざと煽ってくるルカにどう抗議しようかと考えを巡らせていると、ここにはいないはずの声が思考に割って入ってきた。


「おあいにくさま! わたくしだって、あなたに愛されるつもりはこれっぽっちも考えていないわ。せいぜい愛妾でも囲って、勝手によろしくやっていればいいのよ!」

「なっ……」


 愛妾など持つ気はない! と反論する前に、エステリーゼは小走りで去っていく。

 彼女に向かって伸ばした腕をがくりと落とす。

 しばらくしてルカが俺の右肩にぽんと片手を置いたので、反射的にパシッと払いのけた。よりによって、こいつから哀れみなど向けられてたまるか。


(……ああ、これはもう絶望的だ。一番聞かれてはいけない言葉を、よりによって彼女に聞かせてしまった……)


 自業自得だとわかっているが、今の自分に彼女の誤解を解くことは不可能だ。

 なぜなら、それほどの信頼関係を築けていないのだから。

 その事実がぐっさりと胸に突き刺さる。ふつふつとこみ上げる昏い感情は、まるで遅効性の毒のように体中をじわじわと浸食していった。

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