第26話 開戦

 だが、エルサレム王国の王、ボードワン四世はそれからまもなく逝去した。


 エルサレムにおける一時的平和に貢献した若き王の余りにも早過ぎる死であった。


 本来、後継者と目されていた五歳の甥は、イスラム帝国よりリークされた情報のゆえかどうかは不明だが、ボードワン四世と同じ病気であることを知らされた実の母親、シビラによって毒殺されたというのがもっぱらの噂だった。


 大方の予想通り、代わって王位を継いだのはシビラであったが、戴冠したその場で王位を夫であるギーへと引き渡した。現在、王国の冠を頂いているのはエルサレム王国史上、最も無能の王と評せられることになる男であった。


 時を置くことなく、新国王はエルサレム王国の全てを結集し、イスラム帝国すなわちサラディーン打倒のための遠征軍の編成を下命した。


「お待ちください、国王陛下」


 玉座から、戴冠したばかりの国王ギーがティベリアスを見下ろしていた。


「サラディーンはすでに、待ち構えています。今出撃すれば彼の思う壺、戦闘はこのエルサレムに籠城をすることこそが最善でございます」


「でしゃばるな、ティベリアス。サラディーンの軍などの私が蹴散らしてくれるわ」


「私が得ました情報では、ハッティンの丘の水源周辺はすでにサラディーンの部隊が占拠、我々は誘い込まれれば、水の補給ができないままに戦闘に突入することになります」


「補給隊は後続させるし、水源にはまだだれもいないとのおれの部下の報告もある。急いで進軍すれば我が軍がいい位置に布陣できるのだ。もういい、おれの騎士団にお前のような腰抜けは不要! ティベリアス、下がれ!」


(サラディーンの策略だとなぜ気づかんのだ、この馬鹿は・・・・・・勝手にしろ)


「私の部隊は此度の作戦には参加いたしませぬぞ。よいですな、国王陛下」


「お主の部隊などはじめからあてになどしとらんわ。領内に閉じこもって我が軍の勝利の吉報でも昼寝でもしながら待っておれ」


 ティベリアスは黙ってマントを翻し、その場を去った。


(この国は終わった・・・・・・ エルサレム王国の終焉だ・・・・・・)


 王国に嫌気のさしたティベリアスは、ハッティンの戦いの結果を見極めた後、この国を離れる事になるのだった。


 千人を超す騎士と二万人の歩兵を従えたギーは、聖遺物である聖十字架も持ちだした上、これこそは聖戦、今度こそイスラム帝国のサラディーンを瞬滅することを全軍の前で誓いの宣言した。


 しかし、意気込みだけで戦争を勝ち抜いた軍など人類の歴史上どこにも存在しない。


 聖戦の名を借りた『己の恨み』を晴らすための戦いに、補給を軽視した行軍はすでに破綻しつつあった。灼熱の太陽の下、満足な休息と十分な補給を得られない軍隊など、なんの役にもたたない。


 行軍が始まって数時間・・・・・・ すでに一部の兵士は己の防具や武器さえも放棄し始めていた。ただでさえ重い防具が太陽の熱で人間の限界を超えた熱さを帯びた状態で、さらに水の補給が得られないとなればそれは下級戦士にはあまりのも過酷すぎた。


 すでに戦意を失い逃亡または脱落した兵の数、三桁では足りなくなりそうな勢いだった。


 多くの兵士達はそれでもハッティンの丘の泉までの辛抱だという、新国王の言葉のみにすがり、なんとか目的地へと急いだ。

 

「ギーの部隊はハッティンの丘の泉を目指して行軍中だそうだ」


 アル・タヌイーンが舞姫に偵察隊からの情報を伝えてくれる。


「うまく行きそうだね、作戦は」


「あの馬鹿のお陰でこっちは大助かりだ」


「ああいう挑発に乗りやすいタイプは楽なもんだよ」


「ハッティンの丘の伏兵は準備万端だ」


「ああ、よろしく頼むよ。それがないと始まらないんだ、この舞台は・・・・・・」

 

「ハッティンの丘が見えてきたぞ、頑張れ!泉はもうすぐだ。水が飲めるぞ」


 エルサレム軍の各部隊長が、部下を叱咤激励する声があちこちで上がった。


 己の武器を引きずってでも手元から離さなかったエルサレム王国の兵士たちは、にわかに元気を取り戻すかに見えた。


「後方より、敵襲!」


 突然の警報に震撼する。


 ここで今、襲撃されたら壊滅的打撃を受けることを知っていたからだ。


 水を目指して行軍してきた兵士たちは、我先へと水源へ急いだが、部隊の後方にあってサラディーンの弓隊の攻撃をまともに食らった兵士たちのほとんどは、戦死するか戦闘不能に陥った。体力の疲弊している状態で受けた矢傷は、体力も気力も根こそぎ奪ってしまったのである。


「後続の兵士が壊滅的損害を受けております、陛下」


「役立たずの兵士など放っておけ」


 おのれの側近として同行させたルノーの報告を聞くと、ギーは言い放った。


「後続の補給部隊はどうなっておるのだ、ルノー」


「連絡用の兵士を向かわせましたが、まだ何の連絡もございませぬ」


「何をもたもたしておるのだ」


「しかし、陛下。目下我が本隊の最後方の部隊が攻撃を受けたとあっては、補給部隊などあてにはできますまい。一刻も早く水源を確保しなければ、我々は全滅ですぞ」


 ルノーの言葉に、まともな返答の言葉すらない新国王ギーだった。


 そして丘の近くの水源へと、あと二キロほどに迫った時だった。それまで水源近くには全く姿をみせなかったサラディーンの兵士たちが、みるみるうちにギーの率いる部隊と水源との間に湧いて出てきた。


 本当にその言葉どおりに、敵軍は湧いて出てきていた。


 その数、推定約二万・・・・・・


「一体全体やつらはどこに隠れていたんだ・・・・・・」


「斥候隊の報告ではネズミ一匹すら報告されておりませぬ・・・・・・」


 ギーとルノーの口から思わず出た嘆きは、味方にとってなんの慰めにもならないことがわかってはいても、言葉に出さずにはいられない状況であった。


 エルサレム王国の本隊は全面に二万、後方に一万の敵によって完全に包囲されてしまったのだ。 

 ギーの率いてきた本隊も、数の上では拮抗していたが、体力気力の充実度に格段の違いがあったのは、誰の眼にも明らかだった。


「おのれえ!小娘! よくもおれを騙したな」


 ギーは己の愚かさを省みることもなく、怒りの矛先はサラディーンの軍と舞姫へと向けられた。

 もはや短期決戦しか重包囲を抜けて生き残る術はなく、ギーの頭の中には”降伏”の二文字は存在していなかった。


「こちらの思惑通りに、うまくハッティンの丘に誘いこむことができましたな」


 騎士団の兵士達があてにしていた水源周辺は、すでにサラディーンの軍が占拠してしまっている。

「今頃『よくも騙したな、小娘!』とか言って歯ぎしりしてますよ、あのギーとかいう国王陛下様は・・・・・・」


「そのとおりだろうよ、アル。おいらがやつならここでもう降参するけど、そうはしないだろうな、あの馬鹿なら」


「あたら貴重な戦力を減らして何をしたいのやら・・・・・・」


「奴にとっては、恥をかかされた私をつかまえるか八つ裂きにする・・・・・・それしか頭にないのさ」


「気の毒なのは兵士達ですな」


「ああ、これほどの大馬鹿国王とは思わなかったな、あのギーとかいうやつ・・・・・・」


「これだけの長距離を炎天下の中、休みもなく行軍し続けて着いた先が水の補給もままならない火山地帯の丘の上では、まともに戦える軍団など存在しません」


「後送されるはずの補給隊も全滅されたとあっては万事休すとはこのことですな。舞姫さま、お見事です」


「いやまだだ。本編の開幕はこれからだ。例の仕掛け、頼んだぞ」


「かしこまりました」


「私は 私の国で、宗教に名を借りた禄でもない奴らを何万人となく殺してきたんだ。人は私が平気な顔で悪魔のように女子供見境なく殺したかのように思ってるだろうが、あれほど後味の悪いものはなかったよ。だから本当はあの国の兵士たちだって殺したくはないんだ・・・・・・」


 湖の水源地帯を確保できなかったエルサレム軍は、ハッティンの丘に円陣を組むしか残された道はなかった。彼らが生き残るには、戦って敵を全滅させるか後退させるしかなかったのである。


 およそ半数の兵士が武器を放棄していた。炎天下の行軍がすでに勝負を決めていたのだが、かれらの国王は降伏の道も退却の道も選ばなかった。


「補給隊がくるまでの辛抱だ。それまで持ちこたえろ」


 ギー国王の兵を叱咤激励する声が聞こえたようだった。


「馬鹿が・・・・・・ すでに重包囲されていて、補給隊だけで囲みを突破できるはずがなかろうよ」


 アル・タヌイーンのひとりごとに舞姫は応えずに次の命令を静かに伝えた。


「じゃあ、第二幕目の開演といこうか、アル・タヌイーン」


「はい、舞姫さま・・・」


     *****


 サラディーン討伐隊に参加拒否をしたバリアンと宮下、そして残されたシビラはエルサレムの籠城戦の準備を急いだ。


「遠征軍は必ず失敗する。なんの勝算も作戦もなく、補給すら十分でないのに遠征など飛んで火に入る夏の虫だ」


 バリアンの言葉に宮下は答えた。


「新しい国王がどうなるかはわかりません。が、無事では済みますまい。敗れればよくて虜囚の身・・・・・・ 残された我々はこのエルサレムの女子供たちを守るために全力を尽くすしかありません」


「もし、もしこのエルサレムの城が落ちた時、私達はどうなるのです?ジイ」


「シビラ様、その時は全滅、皆殺しかせいぜい良くても奴隷として売り飛ばされるかです」


「いまさら聞いてもなんの意味も無さそうですが、勝算はあるのですか?」


「ありませぬ。せいぜい時間稼ぎ程度のこと・・・・・・」


「このエルサレム王国は他国からの援軍はもはや間に合いません。時間稼ぎをしたところで・・・・・・」


「唯一の道は できる限る長く戦い、サラディーンの軍を消耗させ、最後は条件のいい講和に持ち込むことだけです。生き延びる道はそれしかありませぬ」


「ではどのみちこの王国は滅びるのですね・・・・・・」


「はい・・・・・・残念ながら・・・・・・」


 宮下はサラディーンの軍に身を寄せている舞姫に一縷の望みをもっていた。舞姫の存在が、この国を決定的な消滅から救ってくれることに一条の光を見出していたのだった。


「バリアンはなぜハッティンには赴かなかったのですか?」


 シビラは答えのわかっている問をあえて発してみた。


「私は・・・・・・ 私は亡きボードワン様と約束を交わしておりました。シビラ様と再婚し、王国を継いで王となるよりも、どこまでもこの王国の民と、そしてなによりもシビラ様を守りぬくことを・・・・・・ そして此度の戦いに敗れてなお私とシビラ様の命を永らえることができ、シビラ様が王家の人間としてではなく、一人の女性として私と共に生きていくことをご決心なされた時こそ、遠慮なく求婚させて頂きます、と申し上げました」


 現在のシビラには決断できる話ではもちろんない。


 正式な夫はまだ遠征中で生きており、王国も騎士団も民も健在、エルサレムの城塞が攻撃を受けたわけでもなかったからだ・・・・・・


「それは・・・・・・」


「わかっております、シビラ様。私の戯言とお聞き流されてください。けれどもこんな戯言すらもうすぐ言えなくなる状況は、もうすぐそこに迫っています」


「・・・・・・わかりました。バリアン、あなたが私の兄と交わした約束は一旦私の胸に納めておきましょう。今は、目の前のことを考えなければ・・・・・・」



「ご報告致します! たった今ハッティンの丘の戦闘報告がもたらされました」


 部屋のドアを叩きわらんばかりの勢いで、バリアンの部下が飛び込んできた。


「戦いは勝ったのか? 負けたのか?・・・・・・」


 バリアンとシビラ、そして宮下は固唾を呑んだ。


「結果は・・・・・・結果は、我が軍の全滅をもって終結いたしました・・・・・・ギー、いえ国王陛下は捕らえられたとのこと、またルノー様はサラディン軍兵士との一騎打ちにて落命されたとの報告でございます・・・・・・」


 しばらく無言のままの三人の中で口火を切ったのは、シビラであった。


「ジイ、舞姫というそなたの弟子はそこまで優秀な戦士、いえ戦術家だったのですか?」


 シビラの問に宮下は答えた。


「舞姫さまは私のもっとも優秀なる弟子であり、今回のハッティンでの戦いのきっかけ作り、誘い込み、戦闘の進め方など全てがあの方の演出されたものかと存じます。そしておそらくはその一騎打ちの相手も舞姫さまではなかったかと・・・・・・」



「ギーごときがいくら兵力を集めたところで、叩き潰されることは必然だったってことか・・・・・・」


 バリアンの言葉を受けて、さらに宮下は言葉を続けた。


「次は、このエルサレムの城塞が戦場となります。舞姫さまが相手となれば、生半可な策は全て破られましょう。急いで準備を・・・・・・ もはや間に合いますかどうか・・・・・・」


 一騎打ちの模様は、一度は捕虜とされた兵士が報告のために戻れるよう、サラディンが解放した男によってあきらかにされた。

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