第20話 第一節 二人の姫と二人の爺 <その一> バリアン邸
エルサレムに近いイベリア領のバリアンは、領主となって数ヵ月の後、己の領地で働く異彩の男を発見した。
小柄とはいえ、動きや行動に隙がなく黙々とその領地内を率先して働く男の顔は、どう観察しても、この地方の人間の容貌ではない。もちろん、おのれがかつて暮らしていた北フランスをはじめとする欧州のどこの人種にも属する顔立ちですらなく、バリアンの知らない世界に属する男が存在することを、この時彼は初めて知った。
共に作業をする男たちの、その男を呼ぶ声はもちろん彼の今まで聴いたことのない発音だった。
『ミヤシータ』
バリアンは一度、宮下と呼ばれている男とじっくり話をしてみたいと思ってはいたが、忙しさの中に埋もれたまま忘れ去った男のことを、再び記憶の中から引き出すまでにはある事件の発生を待たなければならなかった。
(今日は 姫さまのお出ましの日だったな・・・・・・)
現エルサレム王国の国王の妹、シビラの出迎えの準備を家人に急ぐように申し付けると、いまだに領主になりたての気恥ずかしさの入り混じった笑みを浮かべながら、階下へと急いだ。
一見平穏そうに見える領内の風景ではあったが、エルサレム王国をめぐる周辺のきな臭さは徐々に強まっていることをバリアンはとうに気づいていた。
現エルサレム王国、国王ボードワン四世の先は長くない。病気の国王が逝去すれば一時的な平和の均衡は破られ、一気に戦争へと突入するだろう。
舵取りを一つ間違えれば破滅への道をいく事になる・・・・・・ アイユーブ朝イスラム帝国の宗主サラディーンと戦争で決着を付けたがっているバカな地方領主がこの国には圧倒的に多いのだ。
バリアンは平和の道を切り開くための最も有効な手段を模索する毎日だったが、シビラ姫の来訪は、緊張の毎日の中の一服の清涼剤ではあった。
すでに夫を持つ身のシビラを姫さまと呼ぶにはやや抵抗はあったものの、その奔放な行動ぶりは、彼にとっては”姫さま”と呼ぶのが最もふさわしく思えたのだった。
(来たな・・・)
数騎の蹄の高鳴りが彼に向かって徐々に近づいていた。
バリアンが姫さまと呼ぶシビラは、いつも彼の領内を訪れるときは決まって護衛役をほんの数人引き連れての身軽ないでたちだった。
馬上から他者を見下ろす目は、何者をも寄せつけがたい眼光を放っていたが、彼を見つめるときだけは、彼だけが知る優しさを秘めていた。
「イベリア領主、バリアン! 我が兄、エルサレム国王のお召だ! 即刻出頭せよ!」
自らの乗る馬を巧みに手綱で操りながらその主は、顔の半分を覆った布をはずしながら小悪魔のような笑みをバリアンに向けた。
「はっ!」
軽く頭を下げ恭順の意を示した彼に、さらに馬上の主の声が追い打ちをかける。
「・・・・・・とはいえ出発は明朝だ。今晩は世話になるぞ、バリアン!」
馬の口を取り、すでに下馬したシビラと共にバリアンは彼の敷地内のシビラ専用邸宅へと向かって歩いた。
(おれはこの姫、いや女王ともいうべき人の愛人なのだろうか・・・・・・いや彼女の騎士(ナイト)ともいうべき存在なのだろう・・・・・・ 親父殿、おれをおもしろそうな世界に誘ってくれて感謝するよ。おかげでフランスにいた頃とは違って退屈している暇がない)
数ヶ月程前、バリアンの父親、すなわち先代イベリア領主は、バリアンを連れての帰郷途中に受けた傷が元ですでに他界していた。部下の僧侶立ち会いの元、バリアンはイベリアの二代目領主を引き継いだのだった。
気候も習慣もなにもかも違う世界の、小さいながらもその領地の主を引き継いだバリアンはしばらくするとおのれの知識をフルに使って領地の運営に乗り出した。
治水事業、作物の収穫方法、領地の守備の仕方、そして何よりも違う民族である使用人たちの扱いなどなど、それは多岐に渡り、改革と呼ぶにふさわしいものであった。
その業績は、しばらくするとボードワン四世の耳にも伝わり、現在では国王に直にエルサレム城壁の改修や、その他王国の運営についても助言を請われる立場を確保している。
同時に国王の妹、シビラ姫の目にも止まり緊密な仲に至ることも自然な成り行きではあったのだ。
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