第11話  現代六 二人のゴールテープ

 五十キロ付近のかなりきつい峠道を登りきったあと、七十キロの平坦路で、ふと後ろを振り返ってみた。


 後ろ十数メートル、苦しそうにしゃがみこんでいる女性の姿がさとるの目に飛び込んできた。


 普段なら気にも留めずに行き過ぎてしまうはずが、妙に気になって引き返すことにした。


 胃のあたりを押さえて苦しんでる様子は、さとる自身にも経験があったので、即座にウェストバッグの中の胃薬とペットボトルの水を差し出しながら彼女に声を掛けた。


 苦しそうにさとるを見上げるその顔は、まさしくあの”林の中の彼女”だった。


(偶然にしちゃあ、出来すぎだなあ、おい、相棒)


 もうひとりの自分にささやいてみた。


(全くだな。でも彼女、お前のこと”天狗?”とかって言ってんぞ?)


(おれと天狗と彼女、どこかでつながってんのかね。天狗?・・・・・・ん?・・・・・・)

 

 さとるの頭に『天狗』のキーワードが記憶の底から呼び覚まされつつあったが、今はそれどころではない。


 再び彼女は走り始めた。


 胃薬が効いたのか、ふらふらしつつも、さとるの後を、彼女は一歩も遅れまいとするかのようにひたすら走り続けた。


 とりたてて会話を交わすことはなかったけれども、はたからみれば別々に走っているとしか見えないランデブーを維持したまま、長く永遠に終わりの来ないと思われた百キロマラソンも残り十キロを切っていた。一キロ毎に立てられたキロ表示の看板を、カウントダウンよろしく一つまた一つと通過していく。


 辺りはすっかり夕闇のなかにあり、ときたま振り返ると街灯の灯りに浮かび上がった

数メートル後方の彼女の姿があった。


(もう少しでゴールだ、がんばれ)


 心の中で振り返る度に、何度も何度も彼女を励ました。


(残り十キロを切って、制限時間まであと一時間と二十分・・・・・・ キロ八分ペースでギリギリだ・・・・・・)


 時計を見たさとるが、頭の中で瞬時に計算する。


 やがて九十二キロ地点の最終関門を二分前に飛び込んださとるは、同じく最終関門を一分前にクリアした彼女の状態を心配そうに確認した。


(ここで休息するべきか、このままいくべきか・・・・・・)


 さとるの迷いを振り切るかのように、”林の中の彼女”はエイドステーションを一瞬たりとも立ち止まることなく通過した。


 その背中に、何が何でも時間内ゴールを目指す彼女の気迫を、さとるは強く感じ取っていた。


(ここまできたら、一蓮托生だよ)


(そうだな、相棒)


(彼女が時間内に間に合わなくなりそうになったら、君は彼女を置き去りにしていくのかい?)


(いや、必ずぼくが彼女を時間内にゴールさせてみせる!)


(そうこなくっちゃ。置いて行くなんて言ったらぼくはもう、君の相棒やめるとこだったよ)


 キロ八分ペースというのは、普通のランナーにとっては遅すぎてそんなペースで走ることは普段なら逆に難しいくらいのペースだ。


 だが九十キロ以上を走り続け、途中の山々をいくつも駆け抜けてきたランナーにとっては、それも百キロマラソンの制限時間ギリギリを狙うレベルではもう限界のスピードかもしれない。


 残りニキロの距離表示の看板を通過した時も『残り時間』十六分・・・・・・


 残り一キロ切ると沿道に応援の姿が一気に増える。


 誰もが『頑張れ」! 後少しだ、残り○百メートル!』と情報を伝えてくれる。本当に気の遠くなりそうなくらいに長い○百メートルだ。


 ○百メートルってこんなに長かったっけ?


 ゴール手前の最終カーブを右に折れるとカクテルライトに照らされた『フィニッシュゲート』が見えてくる。


『ゼッケン番号○○、○さん』


 アナウンサーの声が、ゴール制限時間が迫ってくると絶叫へとかわり、


『ゴールまで、二百メートル! 残り一分!』


 嘘かホントか・・・・・・そのアナウンスを信じて、さとると”林の中の彼女”は最後の猛ダッシュを試みてゴールへと続く赤絨毯の上を駆け抜けた・・・・・・赤絨毯の両脇で応援してくれる人々やボランティアの学生たちと歓喜のハイタッチをしながら・・・・・・


ゴールテープを切る数十メートル手前で、ふと三年前の出来事がさとるの脳裏に浮かんだ。


「いつかは 一緒に百キロマラソンゴールしようって言ってたっけ、宮下さん。今頃生きてりゃどこでなにしてんだろ・・・・・・」


 さとるの目の前から突然姿を消したブラインドランナーとの、当時は冗談半分でかわした約束だった。いつもの伴走の後のたわいのない、ビールを飲みながらの会話のネタでしかなかったが、あのまま共に今日の日まで練習できていたならば、今この場で共に喜びを分かち合えていたはずだった。

 ”ブラインドランナー宮下”が姿を消した後も、彼がきっとどこかで生きて『走っている』、さとるにはそんな気がしてならなかったのだ。


 まともに走れてすらいない彼女の後ろを、両手で支えるようにゴールに飛び込む宮下の幻が一瞬まぶたに映ったが、それは願望のなせる業であったことをさとる自身にももちろんよくわかっていた。


 「宮下さん、帰ってきたらまたきっと一緒に走ろうよ。おれはずっと待ってるさ」



 突然、嘔吐した。


 のろのろと走り続ける”まみ”の、みぞおちあたりが、突然ひっくり返ったかような悲鳴を上げていた。ただし、走る距離に比例して何も食べれない、飲めない状態が、徐々に進行していたせいで、吐き出すものは何もなく、いままでに経験したことのない苦痛が襲ってきただけだった。


 五十キロまでは順調。


 その後の急激な上り道を駆け抜け、さらに一気に下ったころから、全く足が動かなくなった。普段のジョギングよりさらにのろく、時折歩き始める両脚に力が入らなくなってしまったのだ。


 立ち止まった自分を心配そうに通り過ぎていくランナーを横目に、七十キロを過ぎたところでついにしゃがみこんでしまったまみの目の前に胃薬が差し出された。


「吐き気がして辛いんではないですか? これを飲むと少し楽になりますよ」


 顔を上げると、目の前の男性と夢の中の『天狗』がオーバーラップした。


「え!? 『天狗』さん?」


「『天狗』なんかじゃありませんよ。ただのランナーです」


 笑って薬と水を差し出すその相手は、あの林道でいつもすれ違う彼だった。


 もらった薬を無理やり流し込み、わずかに前を行く彼の先導でまるで”天狗”のまぼろしを追いかけるかのように彼女は再びよろよろと走り始めた。


(うわ~ また上り坂かあ・・・・・・)


 うんざりするほど何度も繰り返される峠越え・・・・・・普段の練習なら何てこともないはずの坂道が確実に身体にダメージを蓄積し、心が折れそうになる。


『もうここまでがんばったんだからいいじゃん。ここでリタイヤしてもだれも非難なんてしやしないさ。足も痛い、膝も痛い、ここで無理すると一生走れなくなるかもよ? ほらエイドの係りの人に一言『リタイヤします』って言っちゃいなよ。楽になれるから・・・・・・』


 悪魔の誘いが聞こえる・・・・・・心の葛藤・・・・・・リタイヤの誘惑


「まみちゃん、必ず七十キロ前後で心が折れそうになる。リタイヤの誘惑に負けそうになるときがくるからそこをなんとかがんばるんだよ。心が折れたらそこでまみちゃんの今回の百キロマラソンはお終い」


 マラソン経験豊富で すでに百キロマラソンを何度も完走している親友のなみちゃんからは以前から何度も言われていたことだった。


(これが いまそのときなんだね・・・・・・ なみちゃん・・・・・・もう心が折れそうだよ)


『もうリタイヤします』 


 何度もそう宣言しそうになったまみの前を走る彼は絶妙のタイミングでその度、立ち止まっては振り返り、彼女が再び動き出すのをいつまでも心配そうに待っていてくれた。決してやさしい言葉をかけるでもなく、自らが立ち上がるのを待っていた。 


(ああ やっぱり 走らなきゃ・・・・・・ 天狗さんが待ってるよ・・・・・・) 

 いつ果てるのかと、永遠とも感じられた時間が過ぎ、いつの間にかゴールは目の前数十メートルに迫っていた。


 赤いじゅうたんの向こうに、白いゴールテープが見えた。


「ゼッケンナンバー○○○、△△△県からお越しの宮下まみさん、ただ今ゴールです。お帰りなさ~い!」


 ゴール直前の、自分の名前をコールする声が、朦朧とするまみの耳に届いたとき、ようやく百キロを走りぬいたことを実感できたのだった。


 そしてゴールテープの向こうには彼の姿が見えた。


 周りの応援の声は何も聞こえない。


 そして聞こえるはずのない自分を励ます彼の声だけが、まみの頭の中でいつまでもリフレインしていた。

(がんばれ!百キロゴールして 今度はおれといっしょに百キロの先にある世界へ行こうよ。新しい世界、知らない世界の扉をいっしょに開こう!)


「『天狗』の彼が先導してくれて、私の背中を最後に押してくれたのはお父さんだった・・・・・・」


 ゴールテープを切ると同時に彼の腕の中で気を失いかけながらも、遠くで名前を呼ぶなみちゃんの声を聞き、背中には三年前に失踪した父親のぬくもりを、確かに感じていた。

「完走おめでとう まみちゃん。時間内完走だよ」


(やった!やったよ。完走できたよ、お父さん!)


 マラソン開始からの経過時間を表示するおおきなデジタル時計は、制限時間を三秒残してさらにその時を刻み、号砲が制限時間の終了を告げた。


 経過時間を告げる、そのデジタル時計をにらむように、いや、拝むようにして必死の形相で制限時間内完走を目指したけれど、念願かなわず時間外ゴールとなったランナーが続々と二人の傍らを己だけのゴールテープを目指して駆け込んでいた。


『今だけ時間よ、止まってくれ! せめておれがゴールするまで・・・・・・』


 ゴールテープを切ることは、制限時間内にゴールラインを越えるランナーにのみ許される特権。


 時間内完走ぎりぎりのレベルのウルトラマラソンランナーにとって 今、時間内完走できなければ次回の大会でそれが必ずできる保証などどこにもないのだ。


 時間内完走できなければ決して手にすることの叶わない、完走証と完走の証(あかし)のたわいもないメダル・・・・・・

「あの時もう少し、あとほんのすこしだけ、なぜがんばれなかったんだろう・・・・・・」


 悔しい想いを抱きつつ、ついに時間内完走を達成できずに、この世界を離れるランナーもいる。時間内完走したからといって、もちろん誰がほめてくれるわけでもない。自己満足といえばおおいなる完全な自己満足の世界・・・・・・


 体験したもの同士でしか分かち合えない、制限時間内に完走できたか否かは本人のみが感じる天国と地獄の世界なのだ。


 ただの自己満足のために(呆れられることの方が圧倒的に多いが)体力の限りを尽くして、ただただ百キロ先のゴールを目指すことを笑う人もいる。


『馬鹿だ、アホだ、きちがいだと・・・・・・』


 が、所詮人生は”自己満足”のために生きるということなのだ。何に価値を見出し、何を目指すかは他人が決めるものではなく、自らが決めてその目標を達成する時こそ自身が己自身を初めて賞賛できる瞬間なのである。


 ウルトラマラソンに参加した全てのランナーは ”ウルトラマラソン”を”自己満足”の手段のひとつとして、たまたま人生の一時期に選択した人達であるに過ぎないのだ。


 他人が自分に向ける”賞賛”など二の次、自分が自分を賞賛するための戦いをまだまだ繰り広げる”ネバーギブアップ”の数十人・・・・・・


 一生に一度しか訪れないかもしれない、『自分のための、自分だけのための檜舞台』はもう目の前だ。


 最終ランナーが時間外ゴールするまでにはまだ、十数分の時間を必要としたが、大会はいよいよフィナーレを迎えていた。 

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