第7話 戦国三 天狗
「姫さま!姫さま、お待ちくだされ」
「爺!遅れれば置いていくぞ」
「今宵は新月、星明かりだけに頼って急ぎすぎてはこの山中、道に迷いまするぞ」
「我らが遅れれば、城の皆はもう保たぬ。なんとしてもこの峠を越えて敵陣背面から奇襲をする以外に我らの生きる道はない!急げ!」
”姫さま”と呼ばれた女武者とサムライ十数人の集団が、暗闇の山中の木々の間をすり抜けながら小高い山道を登っていた。
その顔も身体もやせ衰えてはいたが、眼光の鋭さだけは野生動物並みの輝きを放ち、そしてその表情は、明朝、間違いなく確実な死を約束されているにもかかわらず、妙な明るさを感じさせていたのは、先頭をいく”姫さま”と呼ばれた女武者のせいだったかもしれない。
”姫さま”と”爺”と呼ばれる男の不思議な出会いから、すでに十数年が過ぎ、師弟として互いに切磋琢磨してきたその二人と弟子たちの修行の集大成は、もう間近に迫っていた。
弱小国として常に大国の脅威にさらされてきた「亜の国」は、巧みな舞姫の外交戦術といったん戦端を開けば、その地形と地の利を活かした大軍を翻弄する戦術、そして亜の国の謎の戦闘集団の活躍によって、この十数年を生き抜いてきた。
めまぐるしく変遷する、国盗りの時代にあって決して短くはない期間を生き残ってきたことすら驚異的なことだった。
この時代になぜか突然放り込まれ、なんの因果か”爺”と呼ばれた男と舞姫をはじめとする弟子たちとの修行が数年過ぎたころ、男は領主より苗字をたまわることとなった。
「爺、いや剣術師範と呼ぼうか、そのほう 今日より”宮下”の苗字を名乗れ」
居並ぶ武将たちの間からどよめきが漏れた。
「今日より”宮下”家は”浅野”と苗字を変える。して”宮下”の苗字はそのほうにということだ。名はわしの「義」をつかわす。『義春』と名乗るがよかろう。
”宮下義春”なかなか良い名ではないか」
戦国の世で武家が苗字を変えることは珍しいことではない。斉藤道三しかり豊臣秀吉しかりである。
が 苗字を下賜されることが どういうことかいまひとつ理解できないでいる男は
「は、ありがたき幸せ・・・・・・」
と 頭を下げたのみだった。
(”宮下”の姓は どこかで聞いたことがある気がしたが、もともとおれの名前は”宮下”だったのではないのか・・・・・・)
今となっては 確認のすべもなく、思い出すこともできないが、今後は”宮下義春”として生きていくことを男は素直に受け入れた。
視覚を取り戻すことと引き換えに故郷を捨てざるを得なかった男の心残りは、今では名前すら思い出せない一人娘のことだけだったが、舞姫のおもり役を担うことでいつしか忘れ去ろうとしていた。
その後 平和な時には修行に明け暮れ、いくさの際には特殊部隊として戦闘に参加してきた宮下と舞姫とその部下たちの生活は十数年が過ぎさろうとしていた。
出会ったときにはわずか十歳に満たなかった舞姫はすでに二十歳を過ぎ、当時若サムライだった弟子たちもいまや三十代半ばの最も血気盛ん、気力体力の充実した年齢に達していた。
そしていよいよ 宮下がおのれの技のすべてを教え込んだ次期継承者として選んだ舞姫に継承の儀を行うばかりであったそのとき・・・・・・ついに大国『伊の国』の襲撃を受けたのだった。それまでは外交戦術をもって全てかわしきっていた『伊の国』の侵攻はまさに『寝耳に水』であった。さすがの舞姫も予想外の出来事に対処が後手後手にまわってしまった感は否めない。
城に立てこもった女子供を含めた約二千人は、十倍以上の敵の波に飲み込まれようとしていた。
『伊の国』の領主”笹川義元”直々の参戦であった。当時、戦国の世とはいえ全国の中でも移動実戦兵力二万五千人と自国に留守居部隊を数千人を残して他国と戦闘できる武将は笹川義元を除いて皆無であった。
笹川義元の上洛作戦は近い将来必ず起こるものと予想はされてはいたが、亜の国の国力増強の時間稼ぎのための様々な懐柔策はここに至り、全て水泡に帰した。
「姫さま、予想より早すぎましたな 義元は・・・・・・ やつの上洛時期はわしの読み違えでございまする、もうしわけございませぬ」
「全てがわれらの思うとおりに進めば苦労はない。爺、それより愉快ではないか。義元の大軍がこの城ごときにてこずっておる。本来ならこの程度の小城は素通りしたかろうよ、義元めは・・・・・・」
背中に控え頭を下げる宮下に振り返って 舞姫は笑って応えた。
「爺・・・・・・ 私は このいくさ、乗り超えたら ”天下取り”に動くぞ」
その瞳は一片の曇りもなく、はるか遠くを見つめていた。
それは平和ないくさのない国造りを目指すならば最も近い道であり、避けては通れない茨の道でもあった。
戦によってこの国を平定し、戦のない世の中を造る・・・・・・
「全てはこの戦に勝ってからの話だがな・・・・・・」
他人が聞けば なんの戯れか・・・・・・ と同じ亜の国の武将たちでさえ一笑に付したことだろう。それほど「亜の国」などどこの国でも今日まで歯牙にもかけられていなかったのである。時折発生する隣国との小競り合いでの戦勝も偶然や運の強さ、相手国の侮りに起因するものとして扱われた。
いずれにせよ、いずこかの大国に踏み潰されて戦国の地図から消えてなくなるだろう、というのが、各国の武将たちの認識であり、もうすぐ消える運命の亜の国が誰のものになるかのか、だけが他国領主らの興味の対象であった。
宮下がタイムスリップしてきたばかりの頃の亜の国は 四方を険しい山々に囲まれた、特別な産業も何もない、単なる戦国時代の一小国に過ぎなかった。美しい山々や湖、深い森や清流などの自然を有するこの国は現代ならりっぱに観光立地できていたかもしれない。
戦国の世にあって、いくさに勝ち抜くため役にたったといえるのは、攻め込まれにくい地形であったということだけである。大軍が押し寄せるにはおよそ不向きな土地であり、なんの価値もないと思われていた事がいままでは幸いした。
そこへ宮下がこの時代に偶然持ち込んだ”伴通(ぱんつ)”と”手者通(てーしゃつ)”は、領民の間で静かなブームとなり、領外にも流通しはじめた頃からようやく経済が上向き始めたのだ。それまではまともな産業すらなかった亜の国は、その資金を元手に山々を開墾し、治水事業も順調に進み、農地も増えて-さあこれから-という時に発生した笹川義元の上洛侵軍騒ぎであった。
舞姫と爺の持つ独自の諜報網は 義元の意図を事前に察知してはいたが、大国領主、それもすでに人生の終焉が近い戦国武将の野望を押し留めるすべはさすがに二人とも現在のところ見出すことはできなかった。
大国の領主である笹川義元が、なぜ戦国弱小国の一つにすぎない亜の国を捨ておかずに平定しようとしたのか・・・・・・
それは 山あいの田舎国とはいえ地理的に亜の国が上洛進軍中の義元の背後を簡単に脅かしすことの出来る位置にあったことと、亜の国の謎の戦闘集団のうわさは思いのほか近隣諸国に知れ渡っており、無視して通過するにはあまりに危険が大きすぎたからだ。
亜の国を放置しておくことは 都と伊の国とを結ぶ生命線を脅かされることに等しい。
完全主義者の義元にすれば 魚の小骨程度の危険とはいえ見過ごすはずもなかったのだ。
では、配下に収めてしまう、というのは 笹川義元の個人的とも言える理由で一顧だにされなかった。
「あのじじい(義元)はな、私を側室にしたかったらしい。が 私は丁重にお断りした。私を側室にしたければ、その醜い腹をへこませて、少なくとも私に剣の腕で勝てる、でなければ嫁になる意思は毛頭ございません、とはっきりとな」
「・・・・・・とても丁重に・・・・・・ではなかったそうです、お師匠様・・・・・・笹川義元様はたいそう激怒されました・・・・・・」
弟子のひとりとして、また舞姫の側付きの小姓の一人として長年仕えてきた”あや”という娘が、宮下にそっとささやいた。その時の様子をすべて眼にし、言葉のやり取りを余すことなく聞いた内容は『とても口にはできないこと』だったらしい。
舞姫に”じじい”と蔑まされはしたものの、近隣諸国を束ね天下取りにすら動き出した、笹川義元に近い年代である宮下はなんとも複雑な表情をみせるしかなかった。
「たかが小国の小娘に馬鹿にされたと烈火のごとくお怒りだったそうです。お屋形様の狼狽振りはそれはもう・・・・・・ そのときはすぐにでも亜の国は攻め滅ぼされるだろうとずいぶんご心配なされました」
「私にしてはずいぶんと控えめに言ってやったんだがな・・・・・・ あの醜い突き出た腹と都風だとかいう歯を真っ黒に染めた、がま蛙のような面を見たときは吐き気がしたわ」
「それでも亜の国に攻め込んでは来なかった・・・・・・?」
宮下は己が今日初めて聞く話に素直な疑問を投げかけた。
「ちょうどその頃は、伊の国は隣の国といくさの最中であったことと、ご家来衆に何とかなだめられて 亜の国への侵攻はあきらめられたそうにございまする」
「だからこそ、私にこけにされたあのじじいが 今この国を黙って見過ごすはずはないのだ。力ずくでこの国も私も奪おうとしている。私がいくさに負けてやつの前で泣き叫び、ひざまずき、許しを請うのを信じて疑っておらんのだろうよ」
(この姫さまなら たとえいくさに敗れたとしても がま蛙の顔を踏み潰している姿のほうがよほど似合いそうだな)
思わず舞姫と視線をあわせた宮下は笑いをこらえきれずに吹きだした。
「こら! 爺! 変な想像するな・・・・・・ やつの醜い姿を思い出しただけでも虫唾が走るわ・・・・・・」
宮下の後ろに控える弟子たちからも失笑の声がした。
やがて戦闘開始から十数日目。すでに城内の戦闘兵の数は半数を割り、秋の収穫前の蓄えは底を尽きかけ、降伏か全滅かを迫られていた。
しかしこの日までに、義元が失った兵力は戦死、戦闘不能合わせて城側の損害のゆうに三倍をすでに超えていた。さすがの義元も焦りを抱かざるを得ず、総攻撃にて雌雄を決っせんとその準備の命令を配下の諸将に伝えていた。
こんな小城に時間がかかるようでは、ようやく晩年に至って動き出した”天下取り”など夢のまた夢で終わってしまうことを義元自身が十分にわかっていたのである。
予想外の大損害を被り、笹川義元の激怒の前に、このままでは己の首さえ危ないと悟った義元の部下たちの尻にも火がついた。
物見雄山の大名行列のごとく簡単に踏み潰してやれるとの考えをようやく改め、大将ともども一気に決着をつけんとしていた。
「何をしておるのだ! われらが弱いのか あの城のやつらが不死身なのか、だれぞ 子面にくい小娘をひっとらえてくる剛のものはおらんのか!」
「・・・・・・ははっ・・・・・・面目もございません・・・・・・」
これが、たかが小娘の守る小城ごときと侮ったその結果であった。義元の面前で弁解の出来る者も、新たな作戦を献策できる家臣も皆無、黙って頭を垂れるのみの名ばかりの重臣たちを前に義元の怒りは爆発寸前であったのだ。
舞姫に”がま蛙”と侮蔑された笹川義元はけっして平凡な武将ではなかった。笹川家の家督騒動の舞台の主役に躍り出るまでは 僧として密かに古今東西の主な文献を手習いし、剣術も某流派の免許皆伝の腕だ。領地領民を治め、経済の発展と他国との交渉にも辣腕振りを発揮した。凡将だったならばとうの昔にその領土を他国に切り取られていただろう。無能な領主が生き抜けるほど甘い時代ではなかったのだ。
が、義元は現代で言うところのいわゆる”ワンマン社長”であった。彼の意に沿わぬ者は全て抹殺されてきた。
それでも先年病没した軍師、雲斎が生きて側にいる間は組織のほころびはどうにか その手腕によって表面化することはなかった。官僚化した軍隊組織は勝ち進んでいるときは強くとも、一旦歯車が狂いはじめると対処が難しい。
満を持しての上洛戦、成功出来るか否かは、亜の国における緒戦の躓きをどう修正できるかにかかっていた。
「総攻めの用意は いつできるのだ」
「はっ 明日の昼前までには整えられるかと・・・・・・」
「総攻めの前に兵たちには交代で休息を取らせよ。明日は一気にかたをつけてくれようぞ」
一方、亜の国の領主、浅野義明も決して非凡な武将ではなかったが、平和な時代の官僚としてなら抜きんでた存在でいられたかもしれないという、およそ動乱の時代には不向きな男だった。
そんな領主が領主として生き抜いてこれたのは、舞姫と剣術師範兼守役である宮下の力によること大であるのは領民なら知らぬ者のない話であった。
このときの亜の国の最大危機においても、いくさの指導者としてその潜在能力を発揮したのは家臣や領民から「姫さま」と呼ばれて親しまれてきた舞姫とその守役、宮下義春だったのである。
十日間の防御戦闘において、ありとあらゆる手段を用いて伊の国の戦闘集団を翻弄することができたのは舞姫の卓抜な戦術手腕と、いざというときのための備えに怠りのなかったことによることは亜の国万人の認めることだった。
そしてその戦術を影から指南役として動いていた”爺”とよばれる男の存在を知らぬ者もこの国では一人もいなかったのだ。
だが、巧みな戦術を駆使した守勢も、もはや限界に近づいていた。
食料、水の問題は舞姫にも誰にも解決できない相談であり、どんな頑強な城も水の供給源を失い、食料に事欠けばいずれは落ちることは戦国の習いであった。
「おとう、この国は負けてしまうのか?」
「・・・・・・な~に、心配するな・・・・・・ わしらの国には姫さまと宮下さまがおられる。どんな敵が攻めてこようとそう簡単に負けはせぬ。まあ見ていろ! この戦もきっと勝つ! お前もこの戦に勝てるよう一生懸命お手伝いしてみせろ」
城内の領民の一人が 戦の行く末を幼心に心配そうに尋ねる息子を安堵させようと発した言葉に近くにいたすべての老若男女は、皆一様に黙ってうなずいた。
もちろん単純にその言葉を信じたわけではなかったが、全ての領民と末端の足軽でさえもが城の運命はもはや”舞姫と爺”そしてその弟子たちにかかっていることを知っていた。
『決戦のときは近い』
誰もが肌でそう感じていた。
他国からの援軍を期待できない亜の国は、最後の試みとして夜影に紛れて敵本陣の背後の山へ回り込み、夜明け前に敵本陣へ切り込み隊を突入させることを決めた。
古今東西、援軍の頼みのない軍隊は必ず同じ結末を強いられたことは歴史書を紐解くまでもないことだった。
『狙うは敵、笹川義元の大将首のみ!』
敵大将の首をあげる事ができなければ、もはや亜の国の生きる道がないことは、城に立て籠もる老若男女すべてが理解している。
伊の国と和解の道を選び降伏した隣国、江の国は城兵全員の命の保証と引換に開城するやいなや、約束を反故にされ皆殺しにあっている。
降伏しても戦っても全滅・・・・・・ならば 戦って戦って戦いぬくことに軍議は総意をもって決定された。
「姫様は城にお残りくだされ、城を守るものが必要です」
宮下は奇襲作戦成否如何にかかわらず、奇襲隊は生きて帰れるはずのないことを知っていた。この国の未来はたとえ笹川義元の首を運よく討ち取れたとしても、舞姫が生き延びる以外にないことも十分にわかっていたのだ。
「なにをいう、爺・・・・・・ この日のためにいままでつらい修行に耐えてきたのだ。私は誰がなんと言おうといくぞ、ガマ蛙の首を取りに!」
領主であり舞姫の父でもあった浅野義明の打算がここで働いた。
(義元の首が取れればいうことはないが、舞姫と宮下がそれで落命してもわしにとっては好都合、失敗しても降伏すればそれでよいよい・・・・・・)
舞姫と宮下の二人の大いなる人気に嫉妬していた男の企みは、吉と出るのか凶とでるのか・・・・・・
浅野義明は舞姫と宮下、そしてその弟子達全てと数十人の奇襲部隊の今夜半の出発を命じた。
夜半、選抜された五十人と共に城を抜け出た舞姫が、敵背後の山へと抜け出たときには味方の数はすでに十数人に減っていた。まともな食事どころか水すら飲むことかなわず、数十キロにも及ぶ過酷な夜行軍は歴戦の強者(つわもの)といえども脱落を余儀なくされたのだ。
残った十数人はすべて”爺”とよばれ、”宮下”の姓を名乗ることを許された男の弟子たちであった。
「おかしい・・・・・・おかしいぞ 爺・・・・・・」
先頭を走っていた姫が突然立ち止まった。
爺と呼ばれた歴戦の証をその右頬に刻みこんだ男と、後続の弟子たちも暗闇の中でその歩みを止めた。
「やはり 迷われましたか」
「ここはさっき通過した場所だ。木立に特徴があったのでよく覚えている」
「あと数刻後には敵本陣突入できる地点まで到達できないと斬り込みができなくなりまするぞ。明るくなってからでは敵陣に近づくことすらかなわぬことになり申す」
「爺、わかっておる。そのために私も急いだのだ」
「・・・・・・仕方がない、爺、二手に分かれようぞ」
「お待ちください、姫さま。ただでさえ手勢が少ないところで分散してしまえば戦力として成り立ちませぬ」
「わかっておる、わかっておるが・・・・・・このままでは・・・・・・」
「や・・・・・・姫さま。前方になにやら白い光が見えまする」
隊の最後尾で息を切らせていた男が突然声を上げた。
男の指し示す方向から、確かにぼんやりと白い灯りのようなものが近づいてくるのがわかった。
「こっちへ向かってくるぞ」
その声を待つまでもなく全員が抜刀、もしくは槍を構え、舞姫を護る体制になるのに数
秒とはかかっていない。
「姫さま、あの顔は・・・・・・」
「爺、私には天狗の顔に見えるのだが・・・・・・私の見間違いか?」
「いえ、私にもそう見えまする」
「姫さま、敵方の間者かもしれませぬ」
家来の一人が皆に警戒を呼びかける。
緊張感漂う中、正体不明のあやしい人影は集団から顔がようやく判別できるかどうか、ぎりぎりの距離を置いて立ち止まった。
まさにその顔は天狗、装束は山伏、履き物は一本歯の高下駄だった。
天狗とおぼしき人影は、流れるように来た道を引き返すと、振り返って再び立ち止まった。
「あれは、ついてこいと言っているのではないのか?」
「あやかしの術かもしれませぬぞ、姫さま」
「義元の軍の間者なら姿など見せずに襲ってきていたであろうよ。いずれにせよこのままでも埒が明かぬ。いっそ天狗様の導きに従ってみようではないか・・・・・・われら明け方には散る命だ。いまさらあやかしごときで驚かぬ。でおうたころは爺も”あやかしのもの”かとさんざんに言われたではないか」
皆の笑いの中に無言の同意を読みとり、爺と呼ばれた男も決断を下した。
「みごと敵御大将の首をあげ、生きて城に帰り、きっと今宵の天狗の話を城の者達に語り継いでくれるぞ! 皆のもの」
生きて無事還ることは、間違いなく現実とはなり得ないと承知の上で、その言葉に果かない一縷の望みを、奇跡を見出そうとしたこともまた事実だった。
約束された”全滅”すなわち”死”
万を超える大軍のなかに十数人が突入して生き残れる道理がなかった。仮に大将首が取れたところで そのまま見逃してくれるほど敵は甘くはない。
しかし敵の大将首を打ち取れなければ、ただの”犬死”になることも、さらには己だけではなく家族や友人、家来、領民たち全てを失うことを戦国の習いとして十二分に理解してもいた。
悲しくも壮絶な忍び笑いがだれからともなく漏れた。
やがて『天狗』の後を追いかけることに決めた集団の意思を察知したのか『天狗』は振りかえることもせずに、その山道を駆け抜ける速度を上げた。
「本当にあれは一本歯の下駄を履いているのか、爺。信じられぬ速さぞ」
「やはり幽霊かあやかしの類では・・・・・・」
「修行僧などであのように走れる者の話を聞いたことがある。我々ごときには到達できぬ技があるのかもしれぬ」
時々立ち止まり、集団が追いつくのを”天狗”は待っているかのようだった。
「それにしても速すぎまする。決して平坦ではないこの山道を、それも暗闇の中・・・・・・
流れるように走っておりまする・・・・・・こんな話はだれも信じないでしょうなあ。あやかしとまで言われたわしでも無理でございまする」
「伝説とは誰もが信じられないような話だから伝説となるのだ。伝説とはそういうものだろう?・・・・・・」
「今宵、我らも伝説となりましょうぞ、姫さま。われわれもそのための訓練をしてきたのだと今では確信しておりますぞ」
「爺の訓練は過酷だったなあ。よくぞまあ、弟子が全員一人も逃げ出さなかったものよ」
武術訓練はもちろんのこと、弟子たちに強いた訓練はまさに過酷なものだった。
現代で言うところの重量荷物を担いでの夜間行軍やサバイバルしながらの数十キロに及ぶ長距離移動訓練なども実施された。
表情にこそ出さなかったが、そのときの訓練に耐え切る男たちを見て
(さすがに戦国時代の本物の”サムライ”はものが違う)
と宮下は素直に感嘆したものだ。
泣き言を言うもの、脱落するものは唯の一人も輩出していない。皆、武家の三男以下で、脱落することはすなわちそれなりの覚悟をもって宮下に師事してきた若者たちであり、舞姫と宮下と共に生きる以外に帰る寄りどころのない者たちであった。
いまや宮下の弟子たちは、一人残らずどこの国でも武芸の一流派を起こせるほどの技量に達していたが、宮下から受けた技や多くの知識を門外不出と堅守し、舞姫と宮下に生きてどこまでも付いていくことを決心していた。
「信繁もそうだが、おぬしら全員、いい加減嫁をもらわんといかん歳だろう」
「爺、まあそういうな。ここにいる爺の弟子たちは皆この戦が終わったら嫁をもらうそうだ。こいつらはこいつらなりに今日の日のくるのを予感していたんだろうよ。信繁の許婚(いいなずけ)なぞ、まだ十六歳だそうだ。わたしより若いぞ!」
「いったいいくつ年下の娘っこと結婚するつもりだ?信繁! 体力が持つのか?・・・・・・」
「師匠、心配していただかんでも、師匠の稽古で鍛えてありまするゆえ・・・・・・ははは」
「・・・・・・姫さまは、姫さまは嫁にはいかんのですか?」
何気に発した弟子の一人の言葉は、舞姫以外の全員をその場に凍りつかせた。
ごくりと生唾を飲み下す音は、ひとつふたつではなかった。
暗黙の了解として、今までだれもが恐ろしくて口にできなかったその問いかけは、数刻後には骸になることが決まっている者のみに許された禁忌(タブー)の破壊であった。
「私は・・・・・・国がこんな状況で、嫁になど行けるか~! たわけが! 私は天下を取るくらいのやつのところ以外は嫁になぞいかん! 」
「はあ・・・・・・われらは、姫さまの花嫁姿をいつかは拝めるのしょうか?、お師匠様・・・・・・」
弟子のつぶやきは 亜の国領民全ての思いだったのだ。
(わしもせめて、姫さまの花嫁姿を見てから死にたかったわ・・・・・・)
いつもの舞姫の大言壮語に慣れている宮下以下十数人は それ以上の追求でどんなとばっちりを受けてもかなわんと、それきり舞姫の嫁入りの話はしなかった。
怒り狂わんばかりの舞姫が、最後に宮下の顔をちらりと横目で見たことをその場で気づいた者もまた皆無だった。舞姫自身、なぜ最後に宮下の表情を気にしたのかを理解していなかっただろう。
「ところで師匠、師匠にいただいたあの下着”ぱんつ”と”てーしゃつ”と申しましたか・・・・・・今ではわれらの国の特産名物品になっておりますぞ」
宮下が城仕えを始めた当初、宮下付きの小姓としてそばにいた御浦信繁が笑った。
「まったく笑うに笑えん話だな・・・・・・ もともとは下着なのに、いまや城下であの姿で平気で歩いてる男を見るとわしのほうが恥ずかしくて仕方がないわ」
「あれは普通の着物と違って肌ける事がないので、正式な場以外で着るなら便利だ、楽だ、なんといっても使う布の量が少なくて済むし、夏も冬もさっさと着替えられる、寒い思いもしなくてすむようになったと言ってずいぶん皆、ありがたがっていましたぞ」
「まあ、そのおかげで国の財政もずいぶん潤ったと聞く。何がどこでどう転がるかわからんものだ。わしが死んだらわしの名前でもつけてもらうか、あれに・・・・・・」
「あれも伝説になるんでしょうか・・・・・・師匠?」
「なんとも情けない伝説だな、わしのは・・・・・・」
「なんでも、最近聞いた話では、武者の行軍の際の着替としても正式にきまったようですわ。なんといっても軽いし、かさばらないのがいいとかで・・・・・・」
「なるほどなあ・・・・・・ 人の役に立つのならそれもよかろう」
「爺・・・・・・その『ぱんつ』と『てーしゃつ』・・・・・・ おなご用のはないのか?」
「これは姫さま、ははは・・・・・・ 実に面白いですな、おなご用とは気づきませんでした。この戦、生きて帰れた暁には、おなご用のがどんなものであったかじっくりと思い出してみせますわ」
過酷な訓練に明け暮れた日々のことなどを語りあいながら、集団は『天狗』に遅れまいと最後の気力を振り絞って道なき道を死地を目指して駆け上った。
夜明け前に敵陣に到達できるかどうか・・・・・・
『天狗』にすべてを託した戦闘集団は 目的地点まであと数里に迫っていた。
まさに時間との勝負だった。
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