第4話  現代二 さとる

 ぼくにとって二回目の百キロマラソン挑戦の日の今日・・・・・・


 その後姿に見覚えがあった。


 夜の明け切らないライトに照らされたスタートラインにたたずむ緊張感の中、一人の女性の後ろ姿を記憶の底から取り出した。いつもの自宅近くの林の中をジョギングすると必ずすれ違う女性がいた。もちろん彼女の名前も住まいもわかるはずもなく、朝の挨拶を交わすのが関の山。


 すれ違いざま振り返ってみた彼女の林の中を駆け抜けていく姿が今、目の前のぼくの斜め前方に位置する女性の姿と完全に一致した。


 緊張の面持ちでたたずみ、ときおりストレッチする彼女のちらりと見えた無機質に近い

表情は別人のような気もするが・・・・・・


(まさかなあ・・・・・・そんな偶然はないよなあ)


 ぼくの心の中のもう一人の自分がつぶやいた。


 林の中を駆けていく彼女はいつもロングヘアをポニーテールでまとめて白のキャップを

かぶっていたはず。今日の目の前の彼女は ショートカット。どうみてもショートカット

だ。


(お前の勘違いさ)


 納得しようとする自分と第六感が告げる期待の早鐘。


(仮に林の中のいつもの彼女だとしよう・・・・・・ どうすんの? 声かける? 危ない男と思われておしまいさ。へんな期待はよしなよ)


 確かにその通りだ。声をかけても、林道ですれ違う彼女とはまったくの別人だったら、

ナンパ目的のへんな男と見られるのがオチかも。


(そんなことより レースに集中しなよ。またリタイヤすることになるぜ? 女のことなんか考えてたら)


(至極ごもっともです、相棒・・・・・・)


 でもなぜか気になる右斜め前方。


 彼女のナンバーと後ろ姿だけを記憶にしまいこんで、走りに集中することにした。

どうせスタートしてしまえば、だれがどこにいるかなんてわからなくなってしまう。

よほど走るペースが同じなら別だけど・・・・・・


 早朝五時半の暗がりの中、アナウンサーのスタートの秒読みが始まった。参加ランナー千二百人の緊張と意気込みが心の奥底に伝わり、思わず大声で絶叫したくなる。


(今日の日中の最高気温は32度を越えるでしょう)



 無機質なアナウンスの中にも”なんとまあ、参加者の皆様ご愁傷様です”の言外の意味を汲み取る参加者と応援に立つ全員の笑いと一斉大ブーイング。


 スタート会場すべての人間とアナウンサーのスタートの秒読みの大合唱が終わると同時に、号砲が鳴った。


 千二百人の集団の最後尾に位置したぼくの周辺はまだ動かない。というより動けない。先頭集団が飛び出してから、ぼくらがスタートラインに到達するまでには数分の時間を要する。その数分が途中の関門通過の際にどれだけのハンディになるかをこの時点で気にするやつはほとんどいない。ウルトラマラソンは一種のお祭りなのだから・・・・・・



「いってらっしゃ~い」「暑くなるから水分まめにね」

「ゴールで逢おう!」「途中のエイドステーションで待ってるよ~」

「パパ、がんばれ~」「ママがんばれ~」

「**雄! 途中でリタイヤしたら、家に入れてやらんぞ」

「ガンバ!!がんば!」

「マイペース、マイペース!」


 様々に飛び交うランナーと応援者の声、声、声・・・・・・


 各エイドステーションの人数も含めれば参加者よりも多い数のボランティアの人たちの拍手と歓声。そして見知らぬ同士の一期一会の”ハイタッチ”の激励のあいさつ。男も女も老いも若きも関係ない、ところどころから自然と沸き起こる爆笑の渦と早暁の暗闇の中に光る無数のフラッシュ・・・・・・


(戻ってきたんだ~ この世界へ、ウルトラマラソンの世界へ・・・・・・ただいま~)


 ぼくの感傷などお構いなく、最後尾がようやくスタートするころ 記録や順位狙いの先頭集団はすでに前方彼方だ。百キロマラソンの世界記録は六時間台。


(六時間じゃあ、ぼくなんかまだ半分くらいしか走れてないな)


 それくらい同じウルトラマラソンランナーでも走力の違いがある。それぞれがそれぞれのレベルで自己に挑戦できることが ウルトラマラソンの醍醐味かもしれない。


 かなり余裕のある選手なら、ウルトラマラソンともなれば、途中のエイドステーションと呼ばれる休息兼食料や飲料の補給所近くの温泉で、一汗流して悠々ゴールする猛者の話も聞いたことがあるが、真偽のほどは知らない。


(走力に余裕があればねえ、何でもできるよなあ)


 走力に余裕などないぼくは、レース終盤のエイドステーションで


『マッサージいかがですか~』


 なんとも魔力に満ちた声で誘ってくれる、女子高校生の甘い誘惑?にも打ち勝たなければ、とてもとても制限時間内ゴールなど望めない。ぼくの実力ではトイレの時間すら計算に入れて分単位でのペース配分が必要で、よほど時間に余裕がなければ”女子高校生のマッサージを受ける”なんて夢のまた夢なのだ・・・・・・


 マッサージに耽溺するあまり、そこでリタイヤをしてしまうランナーも実は多いそうだ。案外隠された大きな落とし穴かもしれない。


 ペース配分も補給も、そして装備やらなにやら全くの試行錯誤で最初に参加した二年前の百キロマラソン、ぼくは七十五キロの関門で制限時間に間に合わずリタイヤした。


 『三秒オーバー・・・・・・』 


 そう、たったの三秒。目の前で閉じられていく関門、そして非情にもタイムオーバーを告げ、申し訳なさそうに頭を下げる係員のあの瞬間の表情・・・・・・


 どこかで取り返せたかもしれない、たかが三秒、されど三秒・・・・・・


 ひょっとしたらたった一口のドリンクを我慢すればクリアできたかもしれない、あまりにも悔いの残る大会だった。

 だが、その関門をクリアできたとしても、残り二十五キロを三時間で走らなければならない状況では、おそらく制限時間内完走は無理だっただろう。三十キロ以降、膝をだめにしたぼくは全く走れず、残り四十五キロを歩き通していたからだ。


 ウルトラマラソンの難しいところは 普段の練習で痛めたことなどない身体の部分が当日故障したりしてしまうことだ。このときも練習で三十キロを走っても一度も故障経験のない膝にきた。想定外のアクシデントは肉体的にも精神的にもかなりのダメージとなるのだ。


「大丈夫ですか~!」


 両膝にサポーターを巻き、ひたすら歩き続けるぼくの後ろから、救護をかねた審判車の女性役員が、窓越しに声を掛けていく。


 声を発することなく片手で大丈夫のサインを示すと、サポートカーはぼくを追い越し一足先にゴール地点へと向かう。


 膝関節の故障は特に厄介だ。大会中で悪化することはあっても回復することはまず望めない。また、肉離れや痙攣を伴う筋肉痛の場合は別だが、通常の筋肉痛ははっきりいって故障には分類されないだろう。このくらいの距離を長時間かけて走れば筋肉痛など当たり前の世界なのだ。筋肉痛でリタイヤしたという人の話はとんと聞いたことがない。人によっては関節痛も当たり前と言うかもしれない。


 『筋肉痛は友達』


 と言えるくらいでないと夜明け前から日暮れ時までにも及ぶ【走り】の世界に首を突っ込んでも後悔と悪態の一日になってしまうのは間違いない。


 『ウルトラマラソン』と一般に称される、フルマラソンを超えた距離を走るマラソン。


 このウルトラマラソンの世界で何が一番つらいって、リタイヤした後、リタイヤ地点で収容されたバスの窓から、まだ果敢に走り続けるランナーを横目で見ながらゴール地点へ先回りするのは本当につらい。


 収容されたバスのなかでは、なぜか関節通も筋肉痛も吹き飛んでしまう。


(なんだこれくらい、本当にがまんできなかったのかよ、もっとがんばれば十キロ、いや五キロ毎に一分や三十秒くらい短縮するのは わけなかったろうよ、え?大将!)


(ぼくはなんでこんなに苦しいことを、金を払ってまでやってるんだろう? こんなに頑張ったんだ。もういいよ、きっとみんなも褒めてくれるさ。いつリタイヤしてもいい。次のエイドで係員に『リタイヤ』申告するって、簡単なことじゃないか・・・・・・)


 レース中に折れた心が生む、リタイヤ後に果てしなく続く後悔の念・・・・・・なぜ走り続けるランナーの中に自分はいないのか・・・・・・なんでぼくはバスの中にいるんだろう・・・・・・


 その後のゴールテープへの想いは、リベンジの今日この日まで毎晩”悪夢”となってぼくを苦しめた。 


『二度とリタイヤはしない』


 そうリベンジを誓って二年の間、さらなる練習と分単位で作成したペース配分表、周到に準備した装備と補給食・・・・・・今度は完璧さ・・・・・・完璧のはず・・・・・・


(あれが林の中の彼女だなんて、ぼくの勝手な思い込みだよなあ・・・・・・)


 ショートカットの彼女は前を走る一群のなかに埋没して、いつしかぼくの視界から姿を消した。スタート直後のペースはぼくより速い。


(大丈夫かな、彼女? そんなにペース上げて・・・・・・)

 余計なお世話、と言われそうな他人の心配をするぼくの頭の中で 突然、林の中に消えていくあの彼女の後姿と、今、目の前から消えた女性の姿が妙にオーバーラップして『ここは林の中?』かと錯覚さえ覚えてしまった。


(やっぱり彼女だったのかも・・・・・・)


(もう遅いよ・・・・・・ レースは始まった。縁があればまた きっと逢えるさ)


 もう一人のぼくがそう告げ、一年で最も長くて短い、そして最も過酷で楽しい、贅沢な一日が始った。制限時間十三時間半以内にぼくのゴールテープはみえるのだろうか・・・・・・



 号砲と共に、ぼくの頭の中は『今日、制限時間内に必ず完走すること』で一杯になってしまった。 

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