第2話  現代一 宮下

 柔術家としてその世界で名の知れた家系に生まれ、自身も日本柔道界にその人あり、とまで言われた宮下は十数年前よりその視覚を徐々に奪われ、齢五十にならんとする現在では、視覚障がい者としてランニングが唯一の楽しみの日々を送っていた。


 視覚障がい者としてランニングする際は”伴走”とよばれる目の役目を担う青年と一本のロープを介在して、この日の夕方も一緒に走ることになっていた。


「さとる君、今日のコースは最後に繁華街を通って 一杯飲んでから帰らないか?」


「お?!宮下さん、いいですねえ。こう暑けりゃ走ったあとのビールがうまいっすよ」


 真夏の夕刻の五キロほどをジョギングした後、目的地の繁華街で客引きの甘い言葉に誘われるように場末のスナックで飲むことにした。 


 走って軽く汗を流した後の生ビールは格別で、早々と空のジョッキが三つほど並んだところで、帰り支度をした二人は 請求書の金額を聞いて眉を曇らせた。


「えっ!?間違いじゃないの?これ。金額、ゼロひとつ、いやふたつ多いよ、おねえさん」


 隣に座っていたホステスは、待ってましたとばかりに、それまでの愛想笑いを一変させ、

「生きて帰りたきゃあ、黙って払っていきな!」


 強面をつくって、いきなり凄んでみせた。


「・・・・・・宮下さん、帰ろう。ここ暴力バーだったよ」


「暴力バーとは言ってくれるじゃないか、え? きっちり払うまで帰れると思いなさんなよ、お兄さんたち!」


 客をただでは帰しまいと出口を固めていた客引き兼用心棒が、行く手をさえぎるようにいつの間にか二人の正面に立っていた。


 宮下を抑えこもうと、用心棒の腕が肩に触れたその瞬間、用心棒のその身はふわりと、だがあっという間に地面に転がされていた。同時に当身を入れられ動けなくなったことすら認知できない、まさに神技のごとき一瞬の出来事だった。


「え? な、なに?」


 凄みをきかせていたホステスは何が起きたかも理解できずにその場から一歩も動けなかった。もちろん成り行きを薄ら笑いを浮かべながら見守っていた他の従業員やら客たちも同様だ。


「あんまり柔道黒帯をなめなさんなよ? お兄さん・・・・・・」 


 しかし、その場にいた全ての人間を心底驚かせる事件は次の瞬間に訪れた。


 用心棒が気を失った隙に宮下の手を引き、さとるが店の外へ出ようとしたその時、さとるは突然、妙な違和感を感じた。


 宮下の腕をつかんでいたはずの感触が、まるでゆっくりとしぼんでいく風船のように手ごたえを無くして消えていく感覚・・・・・・


 振り返るとそこにいるはずの宮下の姿は消えかかっていた。さとるの目の前から、まるでフェードアウトしていくかのようにゆっくりと・・・・・・宮下はこの世界から姿を消しつつあった。


「み、宮下さん!」


 宮下の返事はなく、その表情にも変化はない。呆然とただただ見守ることしかできなかったさとるに、先ほどのホステスがおそるおそると声をかけた。


「・・・・・・おにいさん、いったい何のマジックショーなんだい?・・・・・・これ」


 人が一人、目の前で消えていくという現実は、簡単に受け入れることのできるものではない。何かの冗談かとすがりつきたくなるのは当たり前のことだ。

 

 さとるに答えを返すことができるはずもなく、何度その名を呼んでも、”ブラインドランナー宮下”は、ついに戻ってはこなかった。


 やがて警察が急行し、新聞やテレビでも大々的に取り上げられ、世間をにぎわすこととなったが、月日の経過とともに人々の記憶から怪事件のことは忘れ去られた。解決を見ることなく迷宮入りとなった、一人の視覚障がい者の謎の失踪事件・・・・・・



 再び世間がこのときの新聞ネタを思い出すことになるまでに、三年の月日を必要としたのだった。

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