琴美と橋売り
いちはじめ
琴美と橋売り
――ああ、暑すぎる。うちのエアコン壊れているのかな。全然涼しくならない。
顎から滴り落ちそうになった汗を、首にかけたタオルで拭きながら、少女は机に広げたテキストと問題集を交互に見比べている。
少女の名前は琴美。市内の小学校に通う五年生だ。夏休み半ばの今日、両親から言い渡された課題に取り組んでいる。これを週末までに仕上げないと、夏休み最後の週に予定されているネズミーランドへの家族旅行に連れていってもらえないのだ。
――アイドルに三日間も浮かれていた私がばかだった。後悔先に立たず。でも三日間のステージどれもよかったな。
追憶のかなたに引きずり込まれる寸前で、慌てて意識を引き戻す琴美。
――いやいや集中しろ!わたし。
頬っぺたをぱんぱんと叩くと、再びテキストに目を落としたが、すぐに気持ちが萎えてしまう。
――ううっ、集中力がだんだんと短くなっていく。
頬をテキストに押し当てたまま目を閉じてしまった。完全なあきらめモード突入である。そのまま寝落ちてしまうのか、というその瀬戸際、物売りの声が遠くから聞こえてきた。
「橋~、橋はいらんかね。今ならお買得だよ」
琴美は、気怠さを誘う声色だな、としばらくそのまま聞いていた。そして何とはなしにその口上を真似してみた。
「橋~、橋はいらんかね……、うん? 箸ではなく橋? なんで?」
そんな馬鹿な。この暑さで耳が、いや頭がおかしくなったのかと、もう一度耳を澄まして聞いてみた。
「橋~、橋はいらんかね。今なら銘板のサービス付きだよ」
間違いではない、確かに橋と言っている。しかも今度は銘板のサービス付きだ。俄然興味が湧いてきた琴美は、課題もそこそこに部屋を飛び出すと、サンダルを引っかけ、脱兎のごとく表に飛び出した。
どっちだ、どっちにいった。片耳がテキストで塞がれていたので音源の方向が分からない。幸いなことに、再び口上が聞こえてきた。左、公園の方角。それっ、と琴美は駆け出した。暑さに参っていたことを既に忘れているようだ。
――いたいた。
物売りは、公園の入り口から少し入った、木立の影に隠れたベンチに座って、おでこに浮いた、玉のような汗を手拭いでぬぐっているところだった。
琴美は躊躇することなく声をかけた。
「おじさん、おじさんは何を売ってるの。橋って聞こえたんだけど」
「その通りだよ、橋を売っているんだ。見て分からんかね」
物売りは汗を拭く手を休めることなく、脇に置いた少し深めの竹かごを、ひょいと顎で指した。
琴美はかごの傍に行き、覗き込んでみたが何もなかった。
何なの、訳分かんない。危ない人、関わったら駄目な人と思いつつも、琴美は湧き出す好奇心には抗えない。更に質問を続けた。
「何も入ってないんですけど、かごの中」
「そうかい」
「真面目に答えてください。貴重な勉強時間を割いて来てるんだから」と勝手な言い分をまくしたてた。
「もう一度見てごらん」
琴美が訝しげに再び見てみると、今度は観光地の土産物屋の店先に置いてあるような、いろんな形の橋の置物があった。
「こんなもの買う人いるの? 有り得ないわ。何なの?」
「実は、これは君の願いだ。君の心に秘めた願いが、具現化したものなんだ。付いている銘板を読んでごらん」
琴美がその一つを見てみると『ネズミーランドに行きたい』、その隣は『○○君ふりむいて』、慌ててさらに隣を見ると『体重○○㎏死守』とあり、それらは確かに琴美の願いであった。
「何勝手なことしてんのよ、人の心を覗き見なんかして。このエッチ!」とかごの上に覆いかぶさり、真っ赤な顔をして物売りを睨みつけた。
「おいおい、人を変態呼ばわりするんじゃないよ、失礼な奴だな。いいかい、人は誰でもいろんな願いを持っている。しかし努力なくして願いは成就しない。いや努力しても叶うとは限らない」
「そんなこと分かっているわよ。で、この橋と何の関係があるの」
琴美は口をとがらせて話の続きをせかした。
「橋の手前に人形がいるだろう。これは君だ。君が努力していくとこの人形は橋を渡って行く。そして向う側まで渡り切ると願いは叶うという寸法さ」
「じゃあ、これを買えば願いは叶うの?」
「さっきも言ったけど、努力しても叶うとは限らない。努力が足りなかったり、間違った努力をしたりしていると、この人形は橋を渡り切らない」
「買っても叶わないんじゃインチキじゃん」
琴美は買う気をちょっとはぐらかされてむくれている。
「手助けをするだけだから、勘違いしないで。 売るのは一度に一個だけ、願いの大きさによって値段は違う。買うの買わないの?」
琴美は買う決心をした。ただどの橋を買うか迷っていた。
――彼よりいい男の子が現れたら口惜しいし、体重の目標値は将来変わるだろうし。
そしてその中から一つを選ぶと物売りに聞いた。
「これはいくら?」
「ポケットに残っている百円玉と、小銭入れに入っているだけでいいよ」
「百円玉? ホントだ、あった。小銭入れはそんなに入ってないわよ」と言いながら小銭入れを逆さにして代金を払った。
公園を出た琴美が、キツネか狸に化かされているのではないかと振り返ったが、そこにもう物売りの姿はなかった。
家に帰ると小さな橋の置物を前に、琴美は再び机に向かった。
心なしかやる気が増したような気がした琴美は、何とか課題をこなせそうだとニンマリした。
人形が一歩前に進んだ。
琴美と橋売り いちはじめ @sub707inblue
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