エヤミグサの便箋

読永らねる

【短編コンテスト2020】エヤミグサの便箋

 クスクスとクラスメイトの女子たちの笑い声が教室のそこかしこから聞こえる。

 内緒話や恋愛話をしていれば、それは幼くも可愛らしい教室の一風景となるだろう。

 しかし、彼女たちは会話をしているわけではなく、教室の一点に暗い目を向けていた。その机の上には花瓶が置いてあり、三輪の花が差してある。

 桃色のナデシコ。朝手折られたのか、茎から花弁に至るまでみずみずしい。けれど、善意や好意による贈り物ではないことを私は知っている。

「……来たよ」

 廊下側に立っていた女子の一人が小さく呟くと、教室から笑い声が消え、水を打ったような静寂が広がる。

 そこに現れたのは、女子にしては少し高めの身長、肩甲骨の辺りまで伸びた黒い髪、色白の肌に端正な顔立ち。

 しかし、その前髪は彼女の目元を半分ほど覆っていた。

「綺麗ね」

 たった一言呟くと、彼女はその花瓶を教室後ろの棚に置いた。

 黒のセーラー服に身を包んでもなおその姿は日本人形を思わせる美しさで、彼女が花を持つだけで、私はたまらない感情に包まれる。

 遠野瞳、通称・死神。彼女はこの学校で最も有名な人物だ。この学年で彼女を知らない人はいない。それは彼女が『心中の生き残り』という噂があるからだ。


 一ヶ月前、この学校の生徒名簿から一人の名前が消えた。彼女の名は寒川かなた、陸上部のエースのような存在で、後輩たちからの支持は厚かった。

 しかし、無愛想で人付き合いをどこか避けているところがあり、同級生の中では、尊敬されつつも少し浮いていた。

 その寒川さんと最も近い存在だったのが遠野さんだ。クラスメイトからの二人の認識は、一番の親友くらいだが、絶対に違う。二人は恋仲だったはずだ。

 私は別に女性を好きなわけではない。けれど、私は遠野さんに恋をしている。だから寒川さんと遠野さんの関係も肌で感じ取れた。

 普段はクールな遠野さんだが、彼女が一度だけ笑顔を向けてくれたことがある。多分あの時私は恋に落ちたのだ。


 同じクラスになってすぐのことだった。別校舎に行く途中、雨で立ち往生している私に遠野さんが声をかけてくれた。

「柚子さん、ですよね? よかったら私の傘に入りませんか?」

 突然なぜ名前で呼ばれたのか気になったが、助け舟にありがたく甘え、相合傘をしてもらった。

 授業が終わった時、雨は少し弱まっていて、これなら大丈夫かと帰り支度を急いだ。入口に向かうと、キョロキョロと周りを見る遠野さんの姿があった。目が合うと、遠野さんは私を手招きした。

「よかったです、もしかしたら柚子さん、もう帰っちゃったのかと思いました」

 来た時と同じように傘に入ると、遠野さんはそう声をかけてくれた。あの頃の彼女は今よりずっと気さくだったと思う。

「さんじゃなくてちゃんでいいよ、あと……気になってたんだけど、どうして名前で呼ぶの?」

 思い切って質問をぶつけてみると、遠野さんは動揺し、こっちの目を見たままフリーズした。

「怒ったりしないから教えて欲しいな」

 テンプレートのような返しだ、怒ってる人間は決まってこの言葉を使う。一呼吸置いてから、遠野さんは恥ずかしそうに答えてくれた。

「その……柚子さ……柚子ちゃんの名字に、濁点がつくのか分からなくて……」

 予想外の可愛い返事に私が笑うと、遠野さんはちょっとムッとしながらも、正解を求めてきた。私の名字は漆原、濁点は付く方だ。

 一瞬会話が止まり、二人で同時に吹き出す。屈託なく笑う彼女は普段と違い、花が咲くような美しさだった。ひとしきり笑うと、最後に遠野さんは静かに付け足した。

「私色々考えすぎちゃうんです、それで会話が途切れちゃったりして、あんまりうまく人と話せないんです」

 俯きながら溢れた言葉、それは多分彼女の深い部分の想いだったのだろう。遠野さんは雨が止んだのにも気付いていなかった。


 彼女との交流はそこから途絶える。私には中学時代からの友人がいるし、クラスで話す機会は無かった。その頃から遠野さんはいつも寒川さんと一緒にいた。

 私が惚れてしまったあの時の彼女はもういないのかもしれない。遠野さんが最近笑っているのを見なくなった。やはり彼女の中で寒川さんが全てだったのだろう。

 私はまだ好きでいるのか? 自分に問いかける。確かに好きになったのはあの頃の柔らかな笑みを浮かべる遠野さんだ。けれど、今の遠野さんも変わらず素敵に見える。

 救いたいと思うのは私のエゴだ。笑顔を取り戻したいと願うならそれは身勝手だ。けれど、好きなんて感情は自己満足でしかない。恋人になれなくてもいい、私は友達でいい、そう、思う。

 だから、私はエゴのまま、遠野さんを助けたい。


 次の日、一人で食事を摂ろうとしている遠野さんに、私は声をかけた。

「遠野さん、ちょっと図書委員の関係で力仕事があるんだけれど、よかったら手伝ってくれない?」

 普段はいじめに加担することのない私に、視界の隅のクラスメイトたちはきょとんとするが、力仕事という言葉で変に勘違いしたのだろう。クスクスと笑い始めた。

「いいですよ、あまり力はないけれど」

 遠野さんの目にわずかに濁りが見えたのは気のせいだろうか? 胸が痛む。

「戻って食べる暇はないだろうから、お昼ご飯は持ってきてね」

 そう言って二人で教室を出た。向かうのは旧校舎の旧図書室、移しきれなかった古い図鑑が歯抜けの棚を寂しく埋めている。

「それで、私は何をしたらいいんでしょう?」

 少し震えた声で尋ねる遠野さんに、私は振り向きざまに深く頭を下げた。

「えっ? 何? 柚子ちゃ、あっ……」

 慌てて言葉を切ったが、まだ柚子ちゃんと呼んでくれたことが無性に嬉しくなる。

「ごめんなさい、遠野さん、他にいい案が浮かばなかったの……今まで何にもできなくてごめんなさい」

 下を向いたまま言葉を紡ぐ、悔しさと恥ずかしさ、申し訳なさが混じり目頭が熱くなる。返事を待ち、そのままでいると、震えた声が降ってきた。

「顔を上げて……柚子ちゃん」

 先程とは違い、迷うことなく『柚子ちゃん』と呼ばれる。

 顔を上げ、遠野さんと目が合う。普段のクールな彼女はそこにはいなかった。遠野さんは目にいっぱいの涙を溜め、唇を歪ませ、それでもこちらをまっすぐ見据えていた。

 何を勘違いしていたのだろう、彼女も熱を持った人間だ。けれど、私はやっぱりどんな彼女も好きだった。

 不意に、強く抱きしめられた。一瞬息が止まる。けれど、そんな苦しさはどうでもよかった。彼女が抱きしめる力だけで思いが流れ込んできた。左肩が熱い、涙がこんなにも熱を持つ事を私は知らなかった。

 私も強く抱きしめ返す、言葉は不要だ。彼女はわずかに震えていた、それが止まるまで私たちはそうしていた。


 氷解の後、私たちは放課後を一緒に過ごすようになった。不自然にならない程度にお昼も共にした。

 クラスメイトからのいじめは相変わらずだが、私にできるのはそれを忘れるだけの安らぎを与えることだった。友人として。


 ある日、遠野さんに言われるまま、私は花屋へと連れて行かれた。彼女の表情はあまり明るくなかった。私はまた学校で何かあったのかと不安になったが、そうではなかった。

 花屋に着くと、遠野さんはリンドウの花束を買った。セーラー服で花束を持つ彼女はやはり美しく、抱きしめるように持たれたそのリンドウは、誰かの代わりなのかもしれない。

「本当にごめんなさい、柚子ちゃん……代わりに供えてきてもらえないかな?」

 寒川さんの墓は街を見下ろせる小高い丘にあった。私は急な坂を一人で歩く。歩みが遅くなるのは坂道だからだけではないだろう。

 お墓には新しい花が供えてあった、遺族の方のものかもしれない。

 丁寧に花を供え、手を合わせる。心に浮かぶのは謝罪だろうか? 私は奪ったりしませんから、そう、言い訳をした気もする。

「ありがとうね」

 短くそう言い、遠野さんは戻った私を迎えた。目元は少し赤かった。


 次の日から、放課後は私も遠野さんを「瞳ちゃん」と呼ぶようになった。はじめは彼女もなんだか照れ臭そうにしていて、その反応で私も照れたりした。

 寒川さんのお墓にはそれ以降も何度か足を運んだけれど、結局瞳ちゃんがお墓の前に立つことはなかった。それでも寂しそうに見上げる彼女の小指を、私はそっと握った。

 握っている間、瞳ちゃんは寒川さんの話をしてくれた。陸上部でのクールな噂しか知らない私にとって、二人でいる時の様子は意外だった。甘えたがりというか、寂しがりな少女がそこにはいた。

「かなたの事、誰かに話すのは初めてよ」

 瞳ちゃんが寒川さんを呼び捨てで呼ぶ度、少し胸がちくっとした。

 私たちを結ぶのは、既に友情ではなかった。それが恋にはなり得ないと、してはいけないと、私は思っていた。

 だから、この関係が続いてくれればいいと思っていた。ずっと、ずっと。

 ただ、油断をしていたのだろう。せっかく手に入れた日常は、いともたやすく壊れてしまう。


 ある日の体育の体操で、いつものようにペアを作ることになった。私は中学時代からの友人グループが一人休み、あぶれてしまった。私は迷わず瞳ちゃんに声をかけた。

「遠野さん、痛かったりしたらごめんね?」

 できるだけ冷たい声でそう言うと、

「柚……漆原さん、よろしく」

 ボロが出そうになったが、なんとか瞳ちゃんも合わせてくれた。しかし、先に大きなミスをしたのは私の方だった。

 授業ではソフトボールをやることになったのだが、偶然にも瞳ちゃんが会心の当たりを見せ、ボールはホームランの白線を超えた。

 ベンチで待っていた私が手を叩いて喜ぶと、帰ってきた瞳ちゃんが笑顔を向けてくれる。私はつい言ってしまった。

「すごいね! 瞳ちゃん!」

 その瞬間、背後から大きな舌打ちが聞こえた。私は冷水を頭からかけられたような感覚がしたが、動揺は余計に相手を煽る。これくらいは普通でしょ? という態度を崩さぬよう、受け取ったバットを手に打席へ向かった。

 私に聞こえるように言ったのかどうかはわからない。しかし、私ははっきりと聞いてしまった。

「へぇ、アンタ次はあの子を殺すんだ」

 その打席、私はバットを振ることもできなかった。


 次の日から瞳ちゃんは私を避けるようになった。そして、なぜかいじめはピタリと止んだ。理由は分からないが、おそらく『するまでもない』からだろう。

 瞳ちゃんは見るからに動揺していて、あの凛とした姿は失われてしまった。ピンと立っていたはずの背筋がどこか曲がって見え、私は声をかけたい気持ちでいっぱいだった。

 けれど、あの状況を作り出したのは私だ、私こそが原因だ。私がミスさえしなければ……そんな思いが頭の中をぐるぐると回る。私以上に瞳ちゃんは辛いはずなのだ。

 その後状況は変わらず、ずるずると距離を置いたまま二週間が経ってしまった。

 あの日の翌日と比べれば、随分と瞳ちゃんの顔色は良くなった。けれど、緩やかな関係の死が煙のように私の心を撫でていた。


『九月十七日 曇り

 体調は良い。けれど、本を読んでいても目が滑ってしまう。同じページを何度も読んだが、内容が入ってこない。

 授業中気付くと柚子ちゃんを見てしまう。昼休みや放課後もなんだか落ち着かない。視界の隅で誰かを探している気がする。こんなことは初めてだ。理由は分からない』

 日記を閉じて、明かりを落とし、ベッドに沈む。

 感情を吐き出したところで、こんな文字では足りるはずもなかった。違う、違う、違う。この感情を知りたい? 嘘だ、この感情は知っている。本の中でいくつも出会った事がある。

 けれど、間違っていると思う。この感情には向き合うべきではない。だって、私はこの感情をかなたに向けることが出来なかったのだから。

 目を瞑り、視界ごと暗闇に沈む。夜明けにはまだ遠い。


「最近柚子っち元気ないよね」

 ボーッとお昼を食べていた私は、名前が出たことにハッとする。

 中学時代からの友人たちは私を柚子っちと呼ぶ。瞳ちゃんと違うのは正直助かっている。特別なものにしたいからだ。

「そりゃそうっしょ、せっかく普段真面目にしてて、ストレス溜まってんのにさ、ちょっとした遊びに水差されたらたまんないよね」

 思わず食事の手を止める。どうやらみんなの中では『私は遠野さんをからかう気持ちで相手をしている』ということになっていて、それを邪魔されたというシナリオだ。

「あーしは怖くて無理よ、なーんか不気味じゃん? 何考えてっか分からないっていうかさぁ……」

「わかるわかる! クール気取りってかさ、効いてませんアピールに見えるけど、ロボットみたいな怖さがあるのよね」

「泣かないわ笑わないわ本当に感情がわかんない。アレに付き纏われたら寒川さんも……」

「ちょ、そっちの話はやめなよ」

 流石に故人の話を出すのは憚られたのか、瞳ちゃんの話題はストップする。私は作り笑いを浮かべ

「そんなにストレス溜まったりしてないって。たまには火遊びしたくなったりする事あるでしょ? そんなもんだよ、別に悩んでないし。それにさ」

 みんなが居るじゃん、最後にそう付け足した。照れ臭そうにする三人を残し、図書委員の仕事ということでその場を後にした。


 涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、早足で歩く。多分走ったら溢れてしまうだろう。悔しい、悔しくてたまらない。

 長年の付き合いだ。みんなのことはよく知っている。会話に悪意がないことも理解している。陰口に聞こえるが、結局恐れているだけなのだ。悪意ある陰口を叩くような人間なら、とっくに縁を切っている。

 けれど、瞳ちゃんへの評価は間違っている。彼女らは数ヶ月前の私と同じだ。知ろうともせずに、上辺で判断して、思考を止めてしまっている。

 自分にも腹が立っていた。私はあんな目で瞳ちゃんを見ていたのかと思うと、自分を殴りたくなる。

 私は……私はきちんと知っていたはずなのに。恋人の死という大きな問題だから、彼女が変わってしまっても仕方ないと勝手に決めつけていた。


 彼女は変わってしまった、それをなんとかしてあげたい、元に戻してあげたい。プラス方向へのエゴだからと、自分の中で思考停止していた部分を恥じる。

 彼女の側にいて分かった。変わったのは彼女ではなく、周囲の方だった。クールな面も、気丈に振る舞うのも、全て遠目で見た感想でしかない。彼女の小指はあんなに暖かくて、震えていたのに……。

 今の私のまま、もう一度瞳ちゃんに声をかけることなんてできない、私はあの日「そんなことない」が言えなかった。怖かった、私も同じように居場所をなくす事が。

 頭の中で『寒川さんの代わりになればいいのよ』という言葉が浮かぶ、すぐにそれをかき消した。私は付き合いたくって近付いたんじゃない、傷ついて弱った所につけ込むような奴になりたくない。だから私は友達のままでいい。

 でも、そんな言い訳ももう効かない。あの頃はそうだったかもしれないけれど、もう無理だ。

 弱みにつけ込むと思われてもいい、なんと言われてもいい。私はこれからも瞳ちゃんの隣にいたい。それだけだ。

 胸に灯った熱を元に、私はその日から『何か』を探し始めた。きっかけを待つのは嫌だ。けれど、何もないままじゃ、もう一度瞳ちゃんの隣に立てない。


 ある日の放課後、私は何かに導かれるように花屋に立ち寄り、あの日と同じリンドウの花を買った。

 急な坂道を歩く、あの時よりも早足で、焦りに近いがそうではない。ただなんとなく、導かれた気がしたのだ。

 寒川さんのお墓の前に、一人の女性が立っていた。少し疲れた顔、目の前のお墓を、どこか遠くの存在を写す目。直感的に寒川さんの母親ではないかと思った。

「こんにちは……あら、その花」

 私の存在に気がついたのか、女性は話しかけてきた。

「こ、こんにちは……えと、私クラスメイトの」

 言い終える前に女性はこちらに歩み寄り、私の持つ花をじっと見た。私は思わず名乗り損ねてしまった。

「あなたは以前も娘のお墓に来てくれた子よね? 覚えてるわ、そのリンドウ」

 花を供えたのは初めて来た時だけだ。おそらくその日のことだろう。そして『娘のお墓』ということは、さっきの予想も間違い無いはずだ。

「あっ、はい、そうです。やっぱりかなたさんのお母様ですか?」

 寒川さんの身内を「寒川さん」と呼ぶのは変な話だ。口にし慣れない言葉に少し躊躇いつつ、そう呼んだ。

 「かなたさん」その言葉を聞いた瞬間、少しだけ顔が曇った気がした。当然だろう、大切な家族だったのだから。

「えぇ……その、あなたもしかして、瞳ちゃん?」

 そう言って、寒川さんのお母さんは手提げから便箋を取り出した。

「娘がね……遺書と一緒に残してたの。大切な友達へって……」

 便箋の裏には『瞳へ』とだけ書かれていた。


 便箋を手に、夕暮れの道を家へと歩いた。嘘をついて受け取ってしまったことは、本当に心苦しかった。けれど、こうでもしなければ、瞳ちゃんも、私も、ずっとこのままだ。

 寒川さんのお母さんは、家での様子を話してくれた。瞳ちゃんの話とは違い、家でも真面目で努力家の、噂通りの寒川さんがそこにいた。

 彼女にとっての居場所は、瞳ちゃんの隣にしかなかったのかもしれない。そう思った。


 次の日、大切な便箋を鞄に忍ばせ、私は瞳ちゃんの席へ歩いた。近くの席の女子がざわつき始める。

 あの一件で私と瞳ちゃんが仲が良いという事は、クラスの共通認識になっていた。その後私たちが距離を置いた事もみんな知っている。

 瞳ちゃんの席の前に立つ。心臓が早い、手汗が滲む。急速に乾く喉をどうにかしようと唾を飲んだ。

「瞳ちゃん……」

 震える声で絞り出せたのはそれがやっとだった。呼び方も名前で呼ぶ、隠す気はさらさら無い。

 帰り支度をしていた瞳ちゃんは、ハッと顔をあげる。最初に驚きが浮かぶ、教室のざわつきにも気付いたのだろう。顔を動かさず、視線だけで周囲を見たのが分かった。

「今日、一緒に帰ろ?」

 そう言って右手を差し出す。わずかに震えているのが自分でもわかる。瞳ちゃんの視線が私から右手へ、そして再び私に戻る。迷いが消せない様子だ。

 私が迷わせた。私が追い詰めてしまったのだ。私のミスなのに……。

 しばらくして、意を決したように立ち上がり、瞳ちゃんが私の手をとった。離さないように強く握ると、瞳ちゃんも握り返してくれた。そのまま教室を出る。

「柚子っち……」

 後ろで不安げな友達の声がした。けれど、決して振り返らない。みんなにもきちんと説明しなきゃいけない日が必ず来る。その日を思うと胃がキリキリと痛む。

 でも、そんなものは些細な痛みだ。乗り越えることが出来るし、いつか消えて無くなる痛みだ。


 曇天の下、目指すのはお墓ではなく、もう一つの場所。私も初めて足を運ぶが、場所はちゃんと知っている。

 時折足を止めて息を整える。私以上に瞳ちゃんは体力がない様子だった。食事や生活など知りようもないが、あの日から少し痩せたと思う。


 辿り着いたのは古い橋、町外れで少し山に入ったところにあり、人通りは少ない。

 ――寒川さんが自ら命を断った場所でもある。

 途中から気付いていたのだろう、橋が近付く程に握る力が強くなった。そして、視界に入った瞬間、キュッと強く握られる。

 正直かなり心が痛む。トラウマそのものに対し、私が強引に向き合わせてしまうのだから。もし一度でも足が止まれば、場所を変えるつもりでいた。けれど、行き先を知ってなお瞳ちゃんの足が止まることはなかった。



「帰るなんて嘘ついて……ごめんね」

 橋の中央で持ってきたタオルを広げる。中には小さく切った段ボール。

 テープで貼られた二枚を剥がすと、中から便箋を取り出す。シワがない事を確認し、ほっとする。

「まず謝らせて欲しいの、あの日、私が否定しなかったから……『そんな事ないよ』って言えてたら……」

 ごめんねという言葉を聞いて瞳ちゃんはこっちを向いた。どうして? という顔だ。

 言いながら視界がぼやける。傷つけた側の私が泣いてどうする。けれど気持ちとは裏腹に滲みは大きくなる。涙が溢れる前に手を握られた。

「私こそ逃げちゃってごめん、巻き込みたくないって、柚子ちゃんのためだって、自分に言い訳してたけど、本当は……私が傷つくのが怖かっただけなの」

 自分から傷つきたがる人なんていない。そんな当たり前のことなのに、どうして謝ってくれるんだろう?

「これ……寒川さんから」

 便箋を震える手で差し出す。裏面の『瞳へ』の文字を見て、瞳ちゃんの目がきゅっと小さくなり、みるみる涙がたまる。

「かなたの……字だ」

 目を閉じ、便箋を抱きしめる瞳ちゃん。今この瞬間に彼女の胸の内に巡る感情も、全ての思い出も、彼女の涙が痛いほど語っていた。

 少しシワのついた便箋を開ける。席を外そうかとも思ったが、黙って袖を掴まれた。今私は隣にいてもいいんだ。

 シンプルな白の便箋にはこう書かれていた。

『愛するひーちゃんへ

 多分冷静にひーちゃんに話すのはもう無理だと思う。だから、最期に手紙に気持ちを綴ります。ずっと逃げてばかりでごめん。言いたいことはたくさんあるけれど、言わなきゃいけないことだけ言うね

 私ね、ひーちゃんが私のこと、本当は、友達として好きなんだって分かってたの。それでもわがままで振り回しちゃった、ごめん。最後は分かってても辛くなっちゃって……馬鹿みたいだよね

 ひーちゃんは優しいから、このままずっとわたしを恋人にしてくれると思う。でも、それは多分お互いに幸せにならない。何より私が辛いんだ

 だから、恋人のうちにいなくなろうと思います

 好きになれてよかった。どんなに辛くても私は後悔だけはしてないよ。ひーちゃんを好きになれて本当に良かった。だからね

 私のこと――』

 最後はかすれていて読めなかった。いろいろなことを書いては消してを繰り返したのだろう。続く言葉を知る人はもうどこにもいない。

 そして、やはり心中の噂は間違っていた。瞳ちゃんは居合わせただけなのだろう。好きな人の記憶になる為に、目の前で死を選ぶ事を理解できない。けれど、共感できてしまう。

 瞳ちゃんは何度も何度も手紙を読んだ。文字の一つ一つが染み込んでしまうまで。その目からぼたぼたと涙が溢れるのを、拭いもせずに。

 瞳ちゃんは突然橋の欄干に手をかけた。私はもしやと思い、慌てて手を伸ばすが、乗り越えたりすることは無かった。瞳ちゃんは今まで聞いた事もない大声で叫んだ。

「バカ! かなたのバカ! 私がどんだけ……どんだけ好きだったか知らない癖に!

 友達だとか恋人だとか、そんな、そんな言葉なんかで繋がないでよ! そんなの無くたって私ずっとかなたといたかったもん! 一緒に……一緒にいたかったのに!

 恋なんて本でしか知らなかった! 知らなかっただけなのに! どうして⁉︎ 知らない私に教えてよ! 私かなたのことちゃんと好きになりたかったのに!

 カッコつけ! いじっぱり! かなたが弱っちぃのなんて知ってるもん! 私が膝枕してあげたら、こっそり泣いてたのも気付いてたもん!

 私が……私が伝えなかったのが悪いのに……何でもかんでも背負わないでよ! もっと私のせいにしてよ! わた……私を……叱ってよ」

 最後は絞り出すように、消え入りそうな声でそう続け、瞳ちゃんはわんわん泣いた。

 図書室の時とは違い、力無くただ泣き続ける瞳ちゃんを、私はぎゅっと抱きしめた。

 お墓にすら行けない程、止まっていた時間は動き出した。ようやく瞳ちゃんの中で、寒川さんは死ぬことができた。


 場違いなのかもしれない、空気が読めてないのかもしれない。今伝えるのは、それこそ弱みにつけ込むことになるのかもしれない。けど決めた、二人の魂の叫びを聞いて腹が座った。

「瞳ちゃん……聞いて」

 抱きしめていた力を緩め、肩を抱いて瞳ちゃんと見つめ合う。涙でぐちゃぐちゃになり、長い前髪は頬に張り付き、目を真っ赤に腫らし、普段の美しさなんてかけらも残っていなかった。

 そんな瞳ちゃんを見ても、やっぱり私は瞳ちゃんが大好きだ。

「瞳ちゃんが傘に入れてくれたあの日から、ずっとずっと好きでした。弱いところも、ダメな所も知ったけれど、私の気持ちは変わらない。私と、お付き合いしてください」

 瞳ちゃんの目に喜びが浮かぶが、すぐに暗くなり、俯いてしまった。

 そして消え入りそうな声で呟く。

「私重いかもしれないよ?」「大丈夫」「メンタルも強くないよ?」「分かってる」「かなたのこと……引き摺っちゃうかもしれない」「もちろん、忘れちゃうような人なら好きにならない」

 そこまで問答を繰り返し、諦めたように瞳ちゃんは顔をあげた。そして私の目を見ると、ゆっくりと微笑み、頷いた。

 小指から順に、指を少しずつ絡め、最後にはしっかりと手を繋ぐ。彼女の手は暖かかった。そして、もう震えてはいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エヤミグサの便箋 読永らねる @yominagaraneru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ