04. 災厄の足跡

 リカルドとルシアンが訪ねてきてから、数日後。

 その日の警備を二人に任せ、ブレイズはラディと共に、魔境の森へ足を踏み入れていた。

 森の様子の確認と、あの少女の荷物が残っていれば回収するためだ。


「確かに、少し落ち着かない感じがするな」


 飛んできた甲虫を冷気で凍りつかせながら、ラディが言った。

 羽を動かせなくなった虫が、ぽとりぽとり、勢いを失って地に落ちていく。毒はないが、血を吸う種類だ。

 一応、虫除けに香草ハーブを詰めた匂い袋サシェを持ってきているのだが、この虫には効果が薄いらしい。


「もう十日近く経つんだけどなあ」


 ぼやくブレイズの足元には、額から角の生えた、通常より大きな体躯のウサギが転がっていた。

 ぴくりとも動かない身体の下から、じわりじわり、地面に赤黒い血が染みていく。


 このウサギ、見た目そのまま『一角大ウサギ』と呼ばれていて、草食である。

 肉は癖のない淡白な味で、焼いても蒸してもそこそこうまい。駆け出しの猟師でも油断さえなければ無傷で狩れる、この国では定番の食材だ。

 臆病な性格で、自ら人間捕食者の前に現れることはほとんどないのだが……。


「追われて逃げてきた……にしては、追ってくる獣の気配もない」


 ラディの言葉に小さく頷く。

 飛び出してきたウサギが別の獣に追われていたのなら、それが近くをうろついているはずなのだ。

 なのに、虫や風が葉を揺らすかすかな音の他、今は何も聞こえてこない。


「……進むか」


 考えるにしても、手掛かりが足りない。

 凍らせた虫とウサギの死骸をラディの魔術で焼いて、奥へ進むことにした。

 ウサギの肉や毛皮はもったいないと思ったが、解体するほど時間に余裕があるわけでもない。額の角だけ落として回収した。薬の材料になるそうなので、セーヴァに渡せば何か作るだろう。


 さて、あの少女を拾ったのはどのあたりだったか。


「たぶん、そろそろだと思うんだけどな……」

「目印とかなかったのか?」

「夜だったしなあ。『白の小屋』より手前なのは間違いないけど」


 白の小屋というのは、この道の先にある謎の建造物だ。

 白い壁で覆われた直方体で、いつからあるのか分からない。最初に発見されたのは、およそ十四年ほど前だそうだ。

 小屋の外壁に窓はなく、代わりに分厚い鉄の扉が二つある。一つは開いていたが、もう一つはいまだ閉じたまま。そもそも把手とってもドアノブもなく、開け方が分からない。

 開いていたほうの部屋の中には、鋼鉄の棺のようなものが壁際にずらりと並んでいて――


 最初に足を踏み入れた時、一番奥の『棺』の前には、二人の子供が倒れていたという。


「……思っていたよりファーネに近いな」

「ああ、こうやって少し歩けば着く距離だ」


 ラディの低い呟きに同意する。

 こうして日のあるうちに歩いてみて、改めて、街に近いと思った。ここまで周囲を注意深く観察しながら歩いてきたつもりだが、それでも二時間過ぎたかどうか、くらいの時間しかたっていない。

 そのような近場に、存在感だけで森を荒らすような、得体の知れない何か・・がいる――。


「ここまで接近されて、防壁の連中は何も気づかなかったのか?」

「あの夜、一気に近づいたのかもしれない。雷と雨に紛れて。……考えたくないけど」

「俺の記憶じゃ雨はともかく、雷はすぐ鳴り止んだはずだ。……とすると、相当速いな」


 そんな短時間で街に急接近してくるような移動速度を持つ存在が、ファーネの手前で足を止めているというのも不可解だ。

 夜闇と雷雨に乗じて移動するという行為に知能を感じるため、薄気味悪いとも言える。


「そんな生き物いねーよ、って言い切れないところが魔境の怖いところだよなあ」

「奥地に関しては、本当に何も分かっていないからな……」

「最後の調査隊が来たのって何年前だっけ」

「六、いや七年くらい前だったかな? よく覚えてないけど」


 話しながら歩いていると、前方、木々の間に白い壁が見えた。


「……あれ?」


 白の小屋だ。着いてしまった。

 ……ということは、少女と遭遇した位置を、通り過ぎてしまったらしい。


「ここまで何か落ちてたか?」

「いや……」


 ラディが首を横に振る。「だよな」とそれに同意して、ブレイズはきまり悪く頭をかいた。

 まあ、十日近く経つのだ。猿の魔物あたりが面白半分に荷物を持ち去ってしまったとしても、おかしくはない。気の毒だが、あの少女には諦めてもらうしかないだろう。


 となると気になるのは、あの雷雨の夜に感じた、異様な気配の主についてだ。ここまで歩いてきて、それらしき痕跡は見当たらなかった。強いて挙げるなら、森の生き物たちの様子が相変わらずおかしいことくらいか。


「ラディ、ここらへんの魔力に変なところあるか?」


 問いかけると、ラディは訝しげに眉根を寄せて、首を傾げた。


「……薄い?」

「魔力が?」

「ああ。他にどう言えばいいのか……」


 自分でもどう表現していいのか分からないようで、ラディの話しぶりには戸惑いの色が濃い。

 魔力を辿っているのか、ふらりと白の小屋へ近づく彼女の背を追って――。


「……え?」


 小さく声を上げ、ぴたりと足を止めた彼女の肩越しに、異変を見た。


 最初、白の小屋の壁に、大穴が開いているのだと思った。

 しかし穴の周辺にくすんだ鉄色がこびりついているのを見て、ああ扉かと納得しかけ、そのふちがひどくいびつであるのに気づく。

 分厚い鉄の扉が、引きちぎられたかのように、歪んだ断面を晒していた。

 どれほどの力をかければ、こんなことができるのか。いやそれよりも、一体どんな生き物にこんな力がある?

 鉄塊を引き裂くような生き物がこの場にいたのだと想像して、背筋に冷たいものが走った。


(あの子がやったのか?)


 今はファーネで眠っているはずの、黒髪の少女を思い浮かべる。……ありえない、とすぐに打ち消した。少女はただの人間のように見えたし、彼女にそんな力があったなら、あんなにひどい怪我は負わないだろう。

 これ・・をやった存在なにかにやられたのだ、と考えるほうが合点がいく。


「ブ、ブレイズ……」


 震える声で呼ばれて、ブレイズは我に返った。

 見ればラディの顔は色を失っていて、細い指がそっと、扉の向こう――部屋の中を指差している。


「……何かいるのか?」


 ラディは首を横に振った。なら何だと彼女の横から扉を覗き込むと、部屋の中がひどく荒らされている。鉄の台座のようなものが叩き壊され、床には鉄や玻璃ガラスの欠片が飛び散っていた。

 ただ、惨状ではあるが、それだけだ。


 これがどうしたのだと問い返す前に、彼女はかすれた声で言った。


「ここ、今まで入れなかったほうの部屋だ――」



 ◆



 同時刻、ファーネ支部の医務室にて。

 こんこんと眠り続ける少女の首に触れて、セーヴァは静かに彼女の脈を測っていた。


 脈拍も呼吸も安定した。腹に残っていた開腹の痕も、数日前にリカルドが『癒し』――精霊使いが行使する治癒の魔術をかけて、きれいに消えている。

 使える手段は全て使った。あとは、少女の体力しだいだ……と、思う。

 正直なところ、助けられる自信などないのだ。既往歴が分からないし、人種だって見当もつかない。体質上受け付けない薬を使っていたらと思うと、昼も夜も目を離せなかった。


「……そろそろ目覚めてくれよ」


 意識せず、縋るような声が出た。

 寝かせておくにも限界がある。栄養剤を投与してはいるが、それだけで何ヶ月も生き延びられるわけではない。


 脈を測っていた手を引こうとした、その時だった。


「ぅ、ん……?」


 少女の唇が薄く開き、黒のまつ毛が震えた。

 息を呑むセーヴァの目の前で、そのまぶたがゆっくりと開く。


「……気が、ついたのか?」


 恐る恐る声をかけると、ぼんやりとした瞳がこちらを向いた。

 意識がある、と判断すると、セーヴァは勢い込んで口を開く。


「身体に異常は? 手足は動かせるか? 痛かったり、苦しかったりするところはないか?」

「え、あ、えっと……」


 そこまで一気にまくし立てて、少女が戸惑っているのに気がついた。起き抜けに質問攻めしたって、まともに答えられるわけがない。

 きまりが悪くなり、いや、とかぶりを振って仕切り直す。


「……名前は、言えるか?」

「なま、え……」


 どこか、聞いたことのない言葉をそのまま口にしたように聞こえた。

 セーヴァに合いかけていた瞳の焦点が再びぼやけ、唇だけがぶつぶつと言葉を紡ぐ。


「なまえ……名前? 姓名、名称、呼称、通称? ……固有名、識別名!」


 そこまで呟くと、少女は小さく頷いた。

 青色・・の瞳は再びセーヴァに焦点を合わせ、はっきりとした確信の色を帯びている。


「ウィットネイト」


 聞いたことのない言葉・・だ、と思った。

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