02. 魔境の森

 軽く剣を振って血を払い、手持ちの布で刃を拭う。

 切っ先のあたりで布がざらりと引っかかり、ブレイズは顔をしかめた。見ただけでは分からないが、触れるとわずかに刃こぼれができている。先ほど、猪の骨にぶつけたせいだ。


師匠ジルなら骨ごと斬ってたな)


 まだまだ己の剣の腕は、この剣の前の持ち主には及ばない。

 相棒ラディが聞いたら「生かして森に返すつもりなら歩けなくするんじゃない」とツッコミのひとつも入れそうな反省を胸に、剣を鞘へと戻す。

 不意に、視界の端が明るくなった。足元から前へ、影が伸びる。


「お疲れさん」


 振り返ると、カンテラを手にしたジーンが立っていた。もう安全だと判断して下りてきたらしい。

 防壁のほうからは彼以外にも兵士が何人か下りてきて、周囲に転がっていた小さい猪の死体へ向かっていく。


「後片付けはこっちでやるよ」


 言いながら、ジーンがぐるりと周囲を見回した。


やじりや手槍もなるべく回収したいし、猪も取れるところは取っときたいからね」

「肉はやめとけよ。ボスが魔猪だったんだ、子分も魔物化しかけてるかもしれない」


 魔猪や魔狼など、通常の動物が変異した個体は『魔物』と呼ばれ、元の動物より数段上の脅威として認識される。

 こういった魔物の肉は、食べずに捨てるのがこの地方一帯の慣習しきたりだった。食べてどんな作用があるか分からないから、らしい。


「血抜きもできてない肉を食べるほど飢えてないよ。用があるのは牙と毛皮、あと骨かな」

商業ギルドうちに持ち込むなら、毛皮は処理しといてくれよ」

「なめしまでは流石に手間だなあ……塩漬けでいい?」

「いいんじゃねえか、たぶん」


 適当に頷いて、ブレイズは森の上空を見やった。雨雲もだんだん薄くなってきて、わずかに月の光が透けている。

 ……これなら、夜目だけでも大丈夫だろう。


「ジーン、門が開かないなら縄梯子そのままにしといてくれ」

「ん? なんで?」

「ちょっと見てくる」


 親指で森を指すと、ジーンが「ハァ?!」とひっくり返った声で叫んだ。あちこちに散った兵士たちが、何事かと驚いた様子でこちらを見る。


「いやいやいやなんで? 馬鹿? このド深夜に森に入る?? 死ぬの??」

「ぶっちゃけ俺もそう思うけども」


 けれど、どうしても引っかかることがあるのだ。魔猪と戦う前に感じた、言葉にならない違和感。欠落感。


 どうして猪たちは襲撃してきた?

 奴らは夜行性じゃない。臆病だから、人間の活動時間を避けて夜に行動することがあるだけだ。わざわざ人間の守る防壁に突撃してきたのは何故だ?


 どうして魔猪は諦めが悪かった?

 子分を皆殺しにされ、自身も脚に深い傷を負って、それでもブレイズに向かってこようとした。逃げる判断が妙に遅かった、ように思う。あれは何だ?


「……たぶん、森に何かあった」

「何かって?」

「分かんねえけど」


 猪たちを防壁ここまで走らせた『何か』がある。もしくは、あった。

 頭で考えて分かるのは、そこまでだ。


 見過ごせない、と思った。今しかない・・・・・、とも。

 根拠とか、を逃したらどうなるか、とか。そういう詳細をすっ飛ばして、直感が『とにかく行け』と喚いている。

 こういう時の直感には、逆らわないほうがいい。……なんとなく、それこそ直感以外の何ものでもないのだが。


「じゃ、なるべく早く戻っから!」

「ちょ、お前……!」


 説得する時間すら惜しくなってきたので、さっさと森へ駆け込んでしまう。

 ……戻ってきたときに縄梯子が引き上げられていたら、流石に謝ろうと思った。




 ファーネの街の南側は、『魔境』と呼ばれる未開拓地域だ。

 広大な中央大陸のおよそ四割弱を覆う樹海で、未知の動植物で溢れていると言われている。

 ファーネの街が寂れてしまう前は、調達依頼を請けた賞金稼ぎたちが、よくギルド支部を訪ねてきたものだ。


 ブレイズが足を踏み入れた『森』は、厳密に言うと、そんな樹海のごく浅いところにあたる……はず、だった。


(……なんだ、これ)


 ブレイズは息を呑んだ。周囲を注意深く窺いながら、慎重に足を進めていく。


 異様な雰囲気だった。

 虫の一匹も見かけない。聞こえるのは自分が泥濘を踏む足音と、どこかで葉に溜まった雨水が落ちる音くらい。

 空気が冷えているような、ぴりぴりと肌を刺すような。呼吸ひとつにも気を遣わされる、重苦しい緊張感。

 森の奥へ進むほど、その雰囲気は濃く、空気は重く冷えていく。


 ブレイズの覚えている限り、こんなことは初めてだ。


(あの魔猪がなかなか引っ込まなかったのは、こういうことか……)


 何かいる・・・・

 元々棲んでいた獣が、たまらず逃げ出してしまうような何かが。どれだけ痛い目に遭っても、森に戻ることを拒みたくなるような何かが。


 真っ先に考えられるのは、魔境の奥から途方もない魔物が這い出てきたという仮説ケース

 先住の獣を追い出し、この辺りを新たな縄張りとして定めたとすると、かなりまずい状況になる。生息域を圧迫された獣たちが、集団性逃避行動スタンピードを起こして街へ押し寄せることも想定しなければならない。魔獣や魔虫が大挙して押し寄せた場合、あの古びた防壁では防ぎきれないのを知っている・・・・・

 そうならなくても、強大な魔物の縄張りが近くにあるというだけで、ファーネの危険度は跳ね上がるだろう。


(――今なら)


 今なら、阻止できるだろうか。

 森の空気を乱す存在なにかはおそらく極少数。それを、殺すか追い返すかして、排除できれば。


 かつて、素材目当てに賞金稼ぎたちが踏み固めた道を、奥へ、奥へと。


(……なんてな)


 口元に、小さく自嘲の笑みを浮かべた。

 早まった考えだ。そのくらいの分別はつく、本気でやろうなんて思っちゃいない。……この場に相棒ラディがいたら、その気になったかもしれないが。

 ただ、位置くらいは把握しておきたい。街から遠ざかるようなら、あまり警戒する必要もないだろうし。


 せめて、この道が途切れるまではと思い、足を進め――


「……!」


 思考より先に、手が剣の柄にかかっていた。

 道の先に、誰か・・いる。


(――人間、か?)


 目の前に真っ黒な人型が立っている。

 十五歳成人前後だろうか。男なのか女なのか、判別しづらい顔立ち。

 月明かりに透けてなお黒い短髪に、不思議な光沢のある黒の服。日に焼けたような淡い橙色の肌が、夜の森に白く浮き上がる。

 雨に濡れ、ぺたりと貼り付く前髪の下。緑色に光る双眸が、ぼんやりとこちらを向いていた。


 何か言おうとしてか、その唇が薄く開き――つう、と端から黒いものが流れ落ちる。


(血……?!)


 ブレイズが目を見開くのとほぼ同時、人型それは膝から崩れ落ちた。

 糸繰り人形マリオネットの糸が切れたように。


「……っ、おい! どうした?!」


 慌てて走り寄り、その上体を抱き起こす。


「しっかりしろ、おい!!」


 両目は既に閉じていた。

 顔から泥濘に突っ込んだのだろう、血と泥にまみれた頬には血の気が感じられない。

 抱きかかえた身体は冷えていて、ぐったりと脱力している。軽く揺さぶっても反応がない。

 口元にそっと手をかざし、呼気を確かめる。


(息は、まだある……!)


 弱々しいが、確かに息をしていた。

 安堵に緩んだ顔を引き締めると、ブレイズはその身体を背に担ぐ。偵察は打ち切りだ。死んでいないなら、見捨てるわけにはいかない。

 一瞬だけ、道の先へ視線を投げ――あとは脇目も振らずに、来た道を駆け戻る。


 先ほどまで感じていた異様な雰囲気は、いつの間にか消え失せていた。



 ◇



 ジーンたちの手を借りて防壁を乗り越え、ブレイズはギルド支部へ駆け込んだ。


「セーヴァを起こせ!!」


 その剣幕と大声に、ドアを開けたラディがびっくりした顔をする。

 しかし、すぐに彼が背負っているもの・・に気づいて真剣な顔になった。


「呼んでくる!」


 それだけ告げて、ラディは階段へ駆けていく。

 それを見送ることなく、ブレイズは一階の奥にある医務室へ向かった。

 暗い中、手探りで診察台を見つけると、それまで背負っていた身体を仰向けに横たえる。

 自分の速い心拍と、荒い息遣いが耳を打つ。意識のない人間を背負って森からここまで走ってくるのは、普段から鍛えていても堪えるものだった。


 手近なランプに火を灯し、運んできた人間(?)を見下ろす。

 ……やはり、明かりの下で見ても男女の判別ができない。胸に膨らみは見当たらないが、男にしては丸っこい気がする。上背はそれなりにあるが、まだ子供なのかもしれない。

 黒い服は腰のあたりで上下に別れていて、どちらも妙に伸び縮みする布でできていた。上着の裾のあたりにポケットがついているが、中には何も入っていなかった。上着の中央、縦に一本、金属の線が走っている。細かい金具を交互に噛み合わせているようで、布のようにぐにゃぐにゃと曲がるのが不思議だった。


(……どうやって着るんだこりゃ)


 よく伸びる布とはいえ、首をぴっちりと覆うそれが頭の通る大きさまで伸びるとは思えない。つまり、脱がし方も分からない。最悪、ナイフか何かで服を切るしかないだろう。

 この中央の金属は手こずりそうだ、などと考えていると、ばたばたと足音が近づいてきた。


「状態は」


 地を這うような低い声と同時、ブレイズの横に青灰色の髪をした男が立った。職員の一人、医者のセーヴァだ。寝ているところを叩き起こされて不機嫌そうに見えるが、普段から大体こんな感じの男である。

 ブレイズは立っていた場所を譲り、診察台の向かい側へ回り込みながら説明する。


「南の森に立ってたんだ。見つけた時には意識があったと思うんだが、すぐ血を吐いて気絶した」

「血の色は? 赤か黒か」

「……黒っぽかった、と思う」

「なら消化器はらのほうか」


 ふむ、と頷いて、セーヴァは患者の上着へ手を伸ばした。脱がし方が分からない、とブレイズが言う前に、裾を掴んで乱暴にまくり上げる。


「うっ……」


 ブレイズはぎょっとして、思わずうめき声を上げた。


 あらわになった腹は、あちこちが赤黒く変色している。ひどい打撲傷だ。

 黙って触診しているセーヴァの表情が、どんどん険しくなっていく。


「……ブレイズ、カチェルを叩き起こしてこい」


 カチェルというのは、今このファーネ支部にいる職員のうち、まだ寝ている最後の一人だ。

 役割としては事務員なのだが、使える魔術の幅がそれなりに広い。そのためか、セーヴァが重傷者の処置をする際に助手を務めることがある。

 つまり、それほど酷い状態だということだ。


「……分かった」


 頷いて、ブレイズは医務室を飛び出した。二階にあるカチェルの部屋を目指し、階段へ。

 途中、タライとタオルを抱えたラディとすれ違った。


「セーヴァ、持ってきた!」

「タオルはそこ、タライには湯を張っておけ! あと――」


 医務室から聞こえる会話を背に、階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 カチェルの部屋の前までたどり着くと、ドアを殴るようにノックした。


「カチェル、起きろ! 怪我人だ!!」




 ――その日、夜が明けるまで。

 ファーネ支部の一階から、明かりが絶えることはなかった。

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