魔境の森と異邦人

ツキヒ

ファーネの墓守

プロローグ

01. 雷雨の夜

 空を破るような雷鳴に、ブレイズ・オーデットは手元の書類から視線を上げた。

 窓の外では、ざあざあと滝のような雨音が続いている。


 辺境の街ファーネにある、商業ギルド支部の一階ロビー。

 正確な時刻は分からないが、真夜中である。まだ起きているのは、夜警当番の自分くらいだろう。


 じっと座っていたせいか眠気を感じて、ブレイズは椅子から立ち上がるとぐっと伸びをした。

 テーブルに放り出した書類の上で、ランプのが柔らかに揺れている。



 ◆



休眠状態スリープモードから復帰しました》


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処理番号プロセスID[6*!32#8]へ再開信号シグナルを送信...》




 いつでもない時、どこでもない場所で。

 なにかが、少女の手を引いた。



 ◆



「ブレイズ」


 眠気覚ましにロビーを歩き回っていると、奥にある階段を駆け下りる音がして、夜空色の髪をした女が姿を現した。

 夕方に交代したもう一人の警備員、ラディカール・レイリアだ。夜着のまま、片手にいつも使っている剣を携えている。

 その出で立ちと、やや不安げな表情になんとなく不穏さを感じて、ブレイズは眉をひそめた。


「ラディ? どうした」

警鐘けいしょうがずっと止まないのが、どうも気になって……」

「……警鐘?」


 そんなの鳴ってたか、と窓辺へ駆け寄って耳を澄ます。

 激しい雨音の中、かすかに、聞き慣れた鐘の音がした。


 カンカンカン、カンカンカン……。


 警鐘は街の北と南にあるが、音と聞こえ具合からして南側だろう。三回続けて鳴らして、一拍置くのを繰り返している。

 街の見張りをしているのは領主から派遣された兵士たちだが、警鐘の鳴らし方については、昔から取り決めがされていた。ブレイズも一通りの意味は知っている。


 三回は、人間以外からの襲撃――この街では多くの場合、魔物による襲撃、という意味だ。


「いつから鳴ってた?」


 ラディに向き直って問うと、彼女は少し考える素振そぶりを見せてから口を開いた。


「さっき、大きな雷が鳴っただろう。その少し後からだな」

「……様子を見に行ったほうがいい、か」


 目の前の相棒がこくりと頷く。

 単なる注意喚起としての警鐘なら、とっくに鳴り止んでいるはずなのだ。ずっと鳴り続けているということは、撃退の目処が立っていない――どころか、状況が悪くなっている恐れすらある。


「私じゃ着替えに時間がかかる」

「だろうな」


 つまりラディは、警備を引き継ぐために降りてきたのだ。

 夜着のままでは動きにくいだろうが、彼女が得意とするのは魔術戦だ。護身に剣が一本あれば、それで十分とも言える。


「……よし」


 腰の長剣を確かめて、ブレイズはひとつ頷いた。自分にも、これが一本あればいい。


「行ってくる」

「ああ、気をつけて」


 裏口のドアを静かに開けて、雨の中へ飛び出した。




 ファーネの街を南北に縦断する中央通りを、南へ走る。

 ほどなくして見えてきた石造りの防壁は、あちこちに配置されたカンテラの光で、淡い橙色に浮かび上がって見えた。

 道の終点にある大門は閉じており、その手前にいくつか人影が見える。近づいて、彼らが領兵――領主からこの街に派遣された兵士たちだと分かった。カンテラの弱々しい明かりの中で、門の前に土嚢を積み上げている。

 彼らに声をかけようとした矢先、どぉん、と重い音が門扉を震わせた。


「うおっ……おい、どうした?!」


 驚きつつも呼びかけると、兵士たちが一斉にこちらを見る。

 その中の一人が、「あっ」と声を上げてこちらへ進み出てきた。知った顔だ。


「ブレイズ!」

「よう、ジーン」

「来てくれたのか……と、ああ」


 顔見知りの兵士――ジーンはこちらに何か言いかけて、それから思い出したように、同僚たちを振り返る。


「商業ギルドの警備員だ、心配いらない」


 その言葉に、強張っていた兵士たちの表情が、少しだけ和らいだ。どうやら警戒されていたらしい。

 ……気づかないうちに、領兵の顔ぶれが随分と変わった気がする。警備に余裕ができたタイミングにでも、一度屯所とんしょへ顔つなぎに行ったほうがいいかもしれない。帰ったらラディと相談しないと。


「警鐘がずっと鳴ってるから、状況の確認に来たんだけど」

「ああ、魔猪だ。数は少ないけど、一匹でかいのがいる。そいつが門に体当りしてて……」


 どぉん。再び、門扉が軋む。

 周囲の兵士たちが、慌てて作業に戻っていった。なるほど、積み上げられた土嚢は門扉の補強バリケードらしい。

 彼らの邪魔にならないよう、少し離れた場所で話を聴くことにする。


「他の、小さいのはほぼ仕留めたんだけど。大型あいつが手強い。矢が刺さらなかった」

「魔術は?」

「力負けした。下級魔術程度じゃ怯みもしない」


 今は数人が防壁の上に登り、手槍を投げてなんとか手傷を負わせようとしているらしい。殺せなくとも、傷つけば逃げ去る望みもあるだろう、と。

 ただ、月明かりすらない雨の中では、狙いをつけることもままならないようだ。


「手槍の数にも限りがあるし、たぶん無理だろうけどね」

「あっさり言うんじゃねえよ」

「お前じゃなきゃ言わないよ」

「うわ嬉しくねえ」


 話している間も、防壁の向こうから、断続的に体当たりの音が続いている。


「それに、守るだけならやりよう・・・・はあるんだ」


 ほら、と指で示されて再び門扉を見ると、兵士たちが積み上げた土嚢に手を当てていた。


「……何やってんだあれ」

「魔術で凍らせてるんだよ。即席の凍土みたいなものさ」

「撤去するのも大変なんじゃねえか?」

「突破されるよりマシだろ。明日はちょっと、門が使えないかもしれないけど。……それより」


 ちょいちょいと手招きされて、ジーンの後を付いていく。

 そちらに何かあるのかと目を凝らすと、防壁の上から縄梯子が下がっているのに気がついた。


「お前も一度見てくれ。ちょうど、そっちのギルドに応援を要請しようかと話してたところだったんだ」




 防壁の上から南側を見下ろすと、ちょうど南門の正面に、大きな黒い影が佇んでいるのが見えた。

 一般的な、ほろ馬車くらいの大きさだろうか。ちょっとした山のようにも見える体躯のそれは、確かに猪の姿をしている。

 黒い毛に覆われた背の辺りに、二、三本ほど、細長い棒が突き立っていた。おそらく兵士たちの投げた手槍だろうが、当の猪が気にする様子はないので、あまり深くは刺さらなかったのだろう。

 他に動く影はない。ジーンの言った通りに仕留められたか、一足先に逃げてしまったかのどちらかだろう。


「どうだ? ラディちゃん呼ぶか?」


 一緒に登ってきたジーンが、ブレイズの隣で同じように南側を見下ろす。


「二人くらいならギルドそっちの警備に回せるから、必要なら行かせるけど」

「いや、いい」


 確かにラディなら、魔術の力押しでどうにでもできるだろう。しかし彼女は夕方ブレイズと交代するまで警備に立っていて、今もそのまま起きている。こんな雨の中、無理に引っ張ってくる必要はないと思った。

 まだ夜着のままのはずだし、そこに領兵とはいえ男を向かわせるのはためらわれる。

 そもそも――。


「ラディ呼ぶより、俺が斬ったほうが早い」

「言うなあ」

「だいぶ疲れてるみたいだからな」


 ジーンは気づいていなかったようだが、南門に体当たりする音の間隔が、段々と長くなっている。

 雨で体温が奪われる中、馬車のような図体で石壁に何度も体当たりを繰り返しているのだ、体力の消耗も激しいだろう。むしろ、まだ諦めていないのが不思議なくらいだ。

 ここでガツンと強めに叩いてやれば、さすがに諦めて森へ引き返していくだろう。


(……ん?)


 自身の考えに、ほんの少し、違和感を感じた。欠落感と言ってもいい。何かを、見過ごしているような。

 どう思う、と隣に話を振ろうとして、今は相棒ラディが一緒でないことを思い出す。


「どうした?」

「……いや、何でもない」


 別にジーンに話したっていいのだが、この曖昧な感覚をうまく言葉で説明できる気がしないので、黙っておくことにした。

 それよりも、猪をなんとかするほうが先だ。今夜のうちに門が破られることはないだろうが、ここまでガンガン体当りされていればあちこち傷む。


 眼下では、魔猪が門から少し距離を取っていた。次の突進のためだろう。

 改めてその顔を見れば、口の端から長い牙が伸びていた。


「まるで破城槌だな。実物見たことねえけど」


 腰に差した長剣を、すらりと引き抜く。

 斬ることに特化した薄刃の両手剣クレイモア。あの魔猪の皮は分厚そうだが、これならおそらく斬り裂けるだろう。

 カンテラの光を反射して刃が光るのに気づいたか、獣の注意がこちらに向いた、ような気配。


 がちんと猪が歯を鳴らすのと同時、ブレイズは防壁の上から跳び下りた。


「え、あっ、おい?!」


 予告なしの戦闘開始、戸惑うジーンの声は既に遠い。

 着地と同時に泥を蹴って走り出し、すれ違いざま、剣を横に薙いだ。剣先に浅く触れたような手応え。薄皮一枚切った程度か。気にせずそのまま右へ逸れる。

 距離を取ってから改めて向き直れば、相手もブレイズのほうへゆっくりと向きを変えていた。直接斬りつけてきた新手こちらを脅威と見なしたらしい。


「や、止めー! 投擲とうてき止めー!!」

「あっわりぃ」


 ほぼ独り言の声量で、ブレイズはジーンに詫びた。そういえば手槍投げてたんだっけ、危ないところだった。後でちゃんと謝っとこう。今はちょっと、それどころじゃないし。


 思ったよりも足場が悪い。長い雨で泥濘ぬかるみが深くなり、移動のために足を引き上げるたび、泥が靴底を引き留める。

 おそらく今まで兵士たちが放ってきた矢や手槍も、この泥の底に沈んでいるのだろう。変な踏み方をしたら、そのまま転んでしまいそうだ。


 じわり、革靴の縫い目から泥水が染み込む不快感。溺れるような水と土と草の匂い。

 は、は、雨の音に混じって、対峙する獣の荒い息遣いが聞こえる。


 攻撃の手を止めて、ブレイズはしばらく回避に専念した。

 泥を蹴立てて突進してくる巨体を、かわすこと自体はそう難しくない。距離をとって、突進の前兆を見逃さず、タイミングを合わせて左右に飛び退けばいい。魔がつくとはいえ猪だ、急な方向転換が出来ないのは同じである。

 二度目の回避で、突進時の目の高さは覚えた。三度目の回避で、歩幅も覚えた。

 呼吸による身体の上下、獲物ブレイズに近づくと僅かに顎を引く癖、その時の牙の高さ、角度。


 観察して、見計らう。下手に手を出して、不要な学習をさせない。

 それが獣を相手にするときの鉄則だと、そう教わってきた。


 魔猪がぐっと身を低くする――突進の予備動作。

 ブレイズは両手で剣を横に構える――飛び退くために右に向けていた爪先を、正面へ。


「さあ――来いよ」


 目前に迫る巨躯に怯むことなく、ブレイズは腰を落として泥混じりの地面を蹴った。

 前へ。

 踏み込む足に力を込める。剣先は低く、切っ先で泥の水面を撫でるように。

 雨水に負けじと目を開いて、獣の動きを予測する。振り上げられる前足、だが遅い。泥からそのひづめが抜けきるよりも早く、ブレイズの両腕は刃を送り出していた。


「はあああぁああっ!!」


 裂帛れっぱくの気合とともに、左上へ向かって剣を振る。全身を使って、伸び上がるように。

 ごりり、何か硬いものに刃が阻まれる感触。骨だ。刃先が滑って受け流される。

 構わず、そのまま剣を振り抜いた。


「ギ、ァアアアアアァ!!」


 張り裂けるような叫び声が背後で上がる。ぼたぼたと、雨音より重い水音が聞こえた。

 剣を構え直して振り返ると、魔猪がよろよろとした動きで、こちらを向こうとするところだった。

 その、右側の前脚の付け根が、ざっくりと斬り裂かれている。これで全力疾走、ひいては突進など無理だろう。


 猪に剣を向けながら、ブレイズはゆっくりと防壁側へ移動する。

 ここまで大きな個体なら、おそらく群れのボスだろう。殺してしまうと次のボスが決まるまで森が荒れそうなので、できればこのまま、南の森へ帰ってほしいところだ。

 だから、退路は塞がない。逃げるなら、それでいい。


 しばし、魔猪と睨み合う。

 しゅう、しゅう、と威嚇音。


「……なんで逃げないんだ?」


 もう十分、痛い目は見たはずだ。

 傷は深いし、体力だって残っていない。魔物だろうとただの獣だろうと、普通ならとっくに逃げ出して、森の住処で傷が癒えるのをじっと待つものではないのか。


(殺すしかないのか……?)


 できなくはないが、死体の処理は大変そうだ――などと考えていると、魔猪がゆっくりと森の方へ向いた。右の前脚を引きずり、時折ふらつきながら、のろのろと歩き去っていく。

 やがて、小山のような体躯は、森の奥へ消えていった。


「行ってくれたか……」


 ブレイズは深く息を吐く。

 いつの間にか、雨も警鐘も止んでいた。

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