12.箱

「どうしてあんなことが出来たんだろうね!」

 イルミナは頬を上気させて幾度も同じ言葉を繰り返した。

 すべての演目が終了し、観客たちは各々の意見を言い合いながら天幕を後にしていった。もちろん、最後の演目のことだ。

 きっと彼らはこれから食事をしながら盛り上がり、家族と興奮を共有するのだろう。


 イルミナだって同じだった。興奮のあまり、身体の火照りはしばらくおさまってくれそうになかったし、目まぐるしいほどの情報を与えられたせいか、脳の奥のほうが未だ痺れているかのようだった。

 それは、両隣を歩く男たちも同じだった。

 あれだけおしゃべりだったミニットは、演目が終わってから一言も発さない。

 逆に、銀髪の男は「すごかったなぁ」とか、「あれはきっと……いや、まさかね」等々、独り言をつぶやきっぱなしだ。

 

 観客があらかた捌けてしまったあと、ようやくイルミナたちは立ち上がった。

 名残惜しい気持ちが残っているのだろう、のろのろと歩くというよりも、足を引きずるといった方が適切なくらいの遅さで彼女たちは天幕を後にした。

 外では、未だ雨が降り続けている。

 まとわりつくかのような霧雨だったが、街灯に照らされて幽玄な雰囲気を出していた。これすらもサーカスの演目だと言われてしまうと信じてしまいそうなくらいだ。

「止まないねぇ」

 そう、銀髪の男が似つかわしくないしかめっ面で空を睨んでいるのを見て、イルミナはまだ彼の名を聞いていないことを思い出した。

「あの、いろいろと親切にありがとうございました。おかげでとても楽しかったです」

「いいよ、ぼくだって楽しかったし、お互い様ってことで。それに、きみともゆっくり話してみたかったしね。ありがとう、イルミナ。おかげで素晴らしい時間を過ごせた」

 お辞儀していた頭を上げ、イルミナは男の顔をまじまじと見つめる。と、同時にサーカスでの記憶も手繰り寄せたが、間違いない。

 

 ――あたしは、名前を名乗ってなんかいない。


 そう考えると、男の涼やかな目元が、得体の知れない何かに見えてきた。イルミナはゆっくりと後じさり、明らかに警戒した目線を男に向ける。

 男は特に動揺した素振りも見せない。口を滑らせた、といったわけではなさそうだ。

「そんなに警戒しなくてもいいだろう」と、肩をすくめている。「とはいえ、先に名乗るべきだったね。ぼくは、レインモンドという。レインモンド・ノーガー」

 そう言って、いたずらっぽく笑う。今度は、しっかりと誰にでも分かる笑顔だった。

 イルミナはその名を聞いても、特に何かを思うことはなかった。この男に対して、さらに警戒を強めただけだ。


 しかし。


 男は、イルミナの瞳をのぞき込んだ。それは、彼女がよく知るものに酷似している。いや、そのものと言ってもよかった。

 鳶色の瞳。それは。


「いつも弟が世話になっているね。あの通りだから直接は聞けないけれども」

 

 どこか歪な笑みの男の顔が、イルミナのよく知る男――ザック・ノーガーのものと重なって見えた。


「ずいぶんと遅かったですね」

 状況が把握できずに固まっているイルミナの後方から、間延びした、場にそぐわないのんびりとした声が響いた。

 振り向くと、ミニットがいた場所に山のような大男が立っていた。何故か男は目出し帽を被っていて、開いた穴からこれも大きく、そしてぞっとするほど冷たい瞳がイルミナを見抜いている。

「やぁ、悪かった。イザクこちらがイルミナ・ロッキンジー嬢。そして、イルミナ、あっちがぼくの同僚のイザク。見た目はおっかないけれど、気はいいやつだよ。だから怯えないで大丈夫」

 イザクという男ののんびりがうつったかのように、男もことさらゆっくりと話す。

 どこか反響していて、聞き取りづらかった。

 

 そこでイルミナは初めて異常に気付く。

 

 先ほどまで彼女たちを包んでいた喧騒が全く聞こえない。辺りを見渡すと、そこには真っ暗な空間が広がるだけだった。ミニットの姿も見えない。

「驚かしてすまない。けれど、この話は部外者はいない方がいいと思ってね。きっと、君もそう思うだろう」

「何を言っているの? 彼は? サーカスはどこ?」

「ここだよ。ぼくたちは移動はしていない。ただだけで、ミニットや他の観衆たちだって君の隣にいる」

「どうしてミニットの名を……?」

「それを説明するには時間が足りないんだよ、イルミナ。今回ぼくらは、とある方の使者としてここにいるんだ。別に君にも、ミニットにも危害を加えるつもりはない」

「それを信じろと言うの?」

「無理だろうね。ただ、これは君にとっても重要なことなんだよ。ぼくらの用件はひとつだけ」

 彼はそこで言葉を区切り、イザクを見た。

 イルミナもつられてそちらを見る。その表情は恐怖のあまり、こわばることになった。


 イザクという大男が、いつの間にかそこに現れたミニットを。それは文字通りの意味だった。ミニットをまるで物かのようにぶらぶらと振り回していた。意識がないのかなされるがままにされてはいるが、男の話を信じるのであれば、彼はまだ生きているはずだ。


「さて、イルミナ。状況はつかめたと思う。あんまりこういったフェアじゃないことはしたくはないんだけど、先ほどから言っているように時間がない。簡潔に言おう。今日女王陛下から下賜された箱を渡してほしい。『持っていない』なんて下手な嘘はやめた方がいいってのも付け加えておく」

 なぜ、この男が箱のことを知っているのか。

 そんなことはどうでも良かった。イルミナの視線は、イザクがおもちゃのように扱っているミニットから離せない。

「嫌だと言うのであれば――」

 男が続ける。抑揚のない声は、今やイルミナの心臓を掴んで離さない恐怖そのものになっていた。目出し帽の男がミニットの頭を持つ。遠近感が狂いそうなほどの大きな手。ミニットの頭をクリケットの球みたいに錯覚させていた。

「――分かるよね?」

 イルミナは震える手で懐中から小振りな箱を取り出した。辺りが暗闇に包まれていてもなお、その箱は鈍く輝いている。

「ありがとう、助かった。荒事は苦手だからね」

 どこが苦手なんだ――そう言いたいのをぐっと堪えて、イルミナは箱を男に渡した。

「うん、それじゃあ――イザクもういいよ、彼を戻してあげて」

 男がそう言った直後、大男の手からミニットの姿が消えた。

「いったい……」

「戻しただけさ。きみもすぐに戻れるよ。おっと、忘れないうちに渡しておこう」

 今度は男が懐中から一通の手紙を取り出した。その文字を見たイルミナの身体は、さらに大きく震えることになる。

 癖のある文字には見覚えがあった。それは、彼女の妹の字だ。

「あなた……まさか」

「勘違いしているね。これは配送の途中で拾ったものなんだ。届けてあげただけだよ」

 レインモンドは淡々と事実を述べているだけ、と言わんばかりだった。彼の言葉には感情というものが欠落している。手紙を受け取ると、満足気に頷いた。

「これでぼくらの仕事は終わりだ。きみはそれじゃ納得しないだろうから、ついでにこれを渡しておこう」

 もう一度懐から取り出したのも、先ほどと同じく手紙のようだった。ただ、封筒はイルミナの妹が使う可愛らしいものではなく、厳重にシーリングワックスで封がなされているもの。宛名は空欄。差出人には古代文字で名前が記されているが、イルミナには記憶がない名だった。

 しかしシーリングワックスには見覚えがある。そのちぐはぐさがイルミナを混乱させていた。

 

「差出人を訪ねてみるといい。そんなに大した情報は得られないだろうけど、まぁ一種のおつかいみたいな感じで軽く受け止めてくれたらいいよ……とは言え、きみがそれに気づくのは先のことになるだろう」


 男の姿が、徐々に薄くなってゆく。振り向いてみると、イザクも同様だった。魔法か何かを使って姿を消しているかのよう。

 彼らの姿が見えなくなったあと、声が聞こえた。


「そうそう、きみとはまたいつか会えると思うよ。それは冬の森ではなく別の場所で。それと悪いがここでの邂逅はなかったことにしたいんだ。少しばかり予定が狂ってしまったもんでね。なので記憶をいじらせてもらう。それじゃ、今度こそお別れだ。また会う日までどうか息災で」


 その言葉の意味を噛み締めながら、イルミナの意識は闇に溶けた。


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