11.万雷

「どうしてこうなるのかって?」

 位置が気になるのだろうか、銀髪の男は帽子のつばを触りながらイルミナの疑問をそのまま繰り返した。

 その疑問というのは、サーカスに対してのことだ。これまでかなりの時間を費やしてサーカスはその演目を消化していた。たった今、噂に聞いていた巨大な空中鞦韆ブランコを美しい兄妹が危なげなく終わらせたところだ。

 それを見終わったあとのイルミナの感想は、「どうしてこんなに綺麗に見えるのか?」ということだった。危ない、どちらかといえば男の子が好みそうなものなのに、何故かイルミナの心を捉えて離さなかった。

「これは受け売りなんだけど、サーカスってのは仮想空間みたいなものなんだ。誰でも同じ気持ちを共有して、老若男女問わずに楽しめるように工夫がなされている。だから、普段は野蛮なことが嫌いな淑女でも、大きな声を張り上げたりもするんだ」

 そんなものなのか、となんとなく納得したイルミナは、質問を重ねた。

「すごく詳しいようだけど、何度もサーカスを?」

「こんな年になってもサーカスが好きでね」

 柔和な笑顔を浮かべ、男は熱を込めて話し出した。

 

 自分はサーカスが大好きなこと。

 その中でも、特にこのワーロックサーカス団が好きなこと。

 ワーロックを追って海外まで足を運んだりしていること。

 特に大好きなものが、この休憩を挟んで行われる件の演目だということ。


 それらを身振り手振りを加え本当に楽しそうに話すので、イルミナもいつの間にか彼の話に聞き入ってしまった。それは隣に座るミニットも同様で、「そりゃあすごい。それで?」と続きを急かしてしまうほど。

 特にイルミナが目を丸くするほど驚いたことは、彼は演目表を開きもせずにこれまでの演目だけではなく、この後に行われるショウのことまで説明を加え始めたのだ。もちろん、イルミナたちに配慮して概要だけのものではあったが、男が話上手だったこともあり、情景が浮かんでくるほどだった。

「どうして、そこまで詳しく分かるんですか?」

 イルミナが当然の疑問を挟む。男の話が正確なのは、目を白黒させながら何度も演目表に視線を落とすミニットを見れば分かる。ワーロックサーカス団を幾度も見たことがあるのだろうが、公演によって演目を変えるというのは、イルミナでも知っている。その場にあった構成だってあるだろうし、団員に怪我人や病人が出ないとも限らない。

 男は、少し難しい顔をして、「うーん」と唸った。形の良い眉毛がちょっとだけ下がる。

「どう説明したらいいのか上手く言えないけれど、こういったサーカスには流れ、というか定石みたいなものがあるんだ。たとえば前半で行われた、虎が火の輪をくぐる演目。あの後に空中鞦韆ブランコみたいな派手な演目を持ってきても上手くはないんだ。派手なものばかり続くと、お客さんが疲れちゃう。緊張と緩和――といえばいいかな。そうやってぼくらを飽きさせない工夫がサーカスにはたくさん詰まっているんだよ。そして、その流れってやつはこうやって見てたら段々分かってくるようになるんだ」

 そういったものなのか。イルミナがさらに質問を重ねようとしたその時、休憩の終わりを告げる呼び鈴が響いた。

 これから最後の演目が始まるのだ。


 天幕内の灯りが全て落とされ、辺りは闇に包まれた。

 やがて、舞台の中央にだけ灯りがともされ、背の高い帽子――山高帽とかいうやつ――を被り、地面につくくらい長い外套をまとった男が立っていた。俯き気味で表情は見えないが、ずいぶんと背が高く、痩せていることは分かった。

「あれが、団長さんの本当の姿だよ」

 隣の男が誰にともなくつぶやきを落とす。イルミナは目を見開いた。


 ――あれが? だって、さっきテントの外で見たときは……。


 イルミナの口に出さない疑問に答えを出したのは、男ではなくミニットだった。

「道化の恰好は着ぐるみらしいですぜ。ずいぶんと徹底しているもんだ」

 確かに道化といえば、ちょっと太っていて、おっちょこちょいなイメージがある。ルエイン本来の姿のまま衣装だけを着替えたところで、大衆がイメージする道化師とは似ても似つかない。

「身長もずいぶんと違うように見えるけれど……」

 そう、今ステージ上の男は、どう見てもイルミナよりも頭二つ分は大きい。それこそ、彼女が知りうる限りで長身な殿下やアドラーあたりと並んでも差がないように思える。さっきの道化はイルミナと同じくらいか、それよりもやや高いくらいのものだった。

「着ぐるみの中で、しゃがんでいるそうだよ。なんでも膝立ちしているとか」

 こちらは、男の台詞。

 そうすることによって、道化特有の動きに見せることができるそうだ。例の、よたよたと頼りなげに歩く、誰もがイメージする姿。

「もちろん、そんなことをすれば膝を悪くするだろう。なんたってサーカスは身体が資本だからね。他に、道化役にぴったりな人間もかつてはいたそうだけど、団長は頑として譲らないらしい。彼は妥協というものを一切しない。ここまでワーロックが有名になったのは、象徴とも言える道化師を完璧に演じてきたからだとも言われているね」

 どこか悲しそうな瞳でワーロックを見つめる男。そういえば、イルミナはまだ彼の名を聞いていなかったことを思い出した。それを言おうとしたその時、ワーロックが帽子を取り深々と頭を下げた。

 場内からため息に似た歓声が漏れた。それも主に女性たちから。うっとりと、熱を持った視線で彼を見つめる者もいた。


 ルエイン・ワーロックという男は、役者顔負けの美男子だった。すらりと伸びた鼻梁、小さな顔の半分を占めるほどに大きな二重の瞳は見るものを捉えて離さないかのような迫力がある。短く刈っている髪が、より彼の小顔を強調していた。エキゾチックな彫りの深い顔立ちは好みが分かれそうなものだが、そういった地点にいないように思える。あまり美形に(と、いうよりも男全般に)興味がないイルミナでさえも見とれてしまう美しさがあった。

 隣に座る男も美しかったが、それとは対極的な位置にいると思う。この男は儚げで、今にも消え入りそうな枯れる直前の花のようなものだが、ルエイン・ワーロックはあまりに雄々しい、生々しい美しさがあった。それこそ死者ですら生き返してしまいそうな――。


「ご来場の紳士、淑女の皆様、お待たせいたしました」

 朗々と声が響く。ワーロックは唇を結んだままだった。声の主は、先ほど動物を鞭一本で操っていた小男だった。のちに聞いた話だが、この男こそがルエインの実弟であるルカ・ワーロックだという。

「これより、このマントの男がやってのけるのは、こちらです!」

 その言葉を待っていたかのように、一気に灯りがともされる。イルミナはあまりの光量に目を細めた。ようやく慣れてきたころ、今度は目を見開くことになった。

 

 いつの間にかステージの中央、ワーロックの後ろに大きな水槽が置かれている。高い天井に届きそうなほどで、幅は大人が十人以上並んでもなお余裕がありそうだった。

 それよりも、目を引いたのはその中身だ。これだけの広さなのに、狭く見えるほど大きな魚が二匹、身をよじりながら泳いでいる。イルミナの拳ほどもありそうなつぶらな瞳は、観客を伺っているかのようだ。時折開いた口からはのこぎりののような歯が見えた。

 直接見たことはないが、図鑑でその存在は知っている。

 

 ――確か、ホホジロザメ。


 性格は獰猛で、人間を食うこともあるそうだ。近海でも存在が確認されており、何年か前に人間を五人以上食ったとされる人食い鮫を捕獲したという新聞記事を読んだことがあった。

 前列に座っていた女性が小さく悲鳴を上げた。やがて、その悲鳴は次々と伝播し、会場は大きなざわめきに包まれる。団員が、何らかの肉を水槽に放り投げたのだ。二匹のホホジロザメは我先にと餌に食いついた。二人の団員が持ち上げるほどの大きさだったにも関わらず、悲鳴が尾を引いている間には胃袋へとおさまってしまった。

 まるで客の反応を楽しむかのように、ルカはゆっくりと会場を見渡し、たっぷりと間を置いてから続けた。


「ご覧のとおりです。このホホジロザメという生物には今、久しぶりに餌を与えました。無論、これだけの栄養であの大きな身体を維持することは困難でしょう」


 まるでどこかの教授のような口調だった。淡々と事実を述べているだけ、とでもいった風情。ざわめきは徐々に収まりつつあった。皆、ルカの言葉を待っているのだ。彼もそれが分かっているのだろう。焦らすかのように更に間を置いて、声をひそめる。


「つまり、彼らはこう思っているはずです。『まだ足りない、もっと食わせろ』――と。オーケイ、だったら望みを叶えてあげましょう」


 そこでルカは大きく手を振り上げた。指を一本立てて、観客の興味を集めるとゆっくりと下ろす。その先には、棺があった。ここで何人かの観客が「これから何をするのか」を悟ったようだった。驚嘆の叫び、不安そうな囁き、それにざわめきが加わって場は混乱しきっている。

 それを止めたのはルエインだった。

 それまで微動だにしなかった彼が、ゆっくりと棺に歩み寄ってゆく。いつしか観客は騒ぎを忘れ、その様子を目で追い出した。どうやら、ルエインという男には人を魅了する能力が備わっているようだ。

 そこで、イルミナはなぜか、数か月前の『埋葬』のことを思い出していた。ルエインのどこか冷たい瞳が、あの稀代の殺人鬼と重なったのだ。ゆるゆると頭を振って、それを追い出す。


 ルエインは、棺の前にたどり着くと、手と足が縛られた。更には目隠しをされ、棺を運び込んだ団員に抱きかかえられて中にすっぽりと納まる。そのあとに、二人の団員によって大小様々な鎖が棺に巻きつけられた。きっちりと錠前までつけるという徹底ぶりだ。


「さて、皆様。これから一体何が起きるか想像ついた方もいらっしゃるかと思います。おっと、まだ言ったら駄目ですよ。これがあたしの見せ場なんですから取らないでくださいね」


 ルカの冗談で会場の空気が和らいだ。きっと、これが先ほど彼の言っていた緊張と緩和というやつなのだろう。

 先ほど棺に鎖を巻いた団員にもう一人が加わってそのまま棺を持ち上げた。三人とも力のありそうな大男だったが、それでもとても重そうに見える。あれが演技だとはイルミナには思えなかった。つまり、本当にルエインはあの中で横たわっているのだ。

 その様子をちら、と見てルカが「さて」と続けた。「さて。これからご覧にいれますは、驚異の超能力。我がワーロックサーカス団が誇る魔人、ルエイン・ワーロックによります人体移動!」

 そのタイミングに合わせて、大きな音楽がかかり始めた。棺は水槽に設えられた階段を昇りきり、今まさに水槽に放り込まれようとしている。

「あれだけ厳重に鎖が巻かれた棺から脱出できるわけがない? 確かに。更には手足の自由すら奪われている! これは絶望的だ!」

 声を低くし、観客を見渡してゆっくりとルカが説明を始める。その声音は徐々に興奮してゆき、最後は叫ぶかのようになった。

「だが! 魔人はそんなことは意に反しない。何故ならば、我らがルエイン・ワーロックは超能力を持っている。それこそが彼を魔人たらしめる所以! 残忍な鮫の餌になるのか、はたまた彼はこの絶体絶命の状況から脱することになるのか。さあ、皆様一緒に秒読みを!」

 彼は高々と掲げた手を広げた。そして「ファイブ!」と叫ぶ。観客もそれに倣う。

「フォー!」

「スリー!」

「ツー!」

「ワン!」

 最後の秒読みが終わると、ルカは指を折り、突き上げた拳を勢いよく振り下ろした。

「ゴー!」

 それと同時に棺が勢いよく水槽に投げ込まれる。鎖との重さであっという間に地表にたどり着いた棺の周りを、二匹のホホジロザメが様子を伺うかのように回り始めた。

 誰もが息を飲み、祈りながらそれを眺めた。


 数分過ぎたころに異変が起きた。棺がみしみしと嫌な音を出しながら軋み始めたのだ。ゆっくりと回っていた鮫は、それが合図だったとばかりに棺に噛みついた。鎖があるとはいえ、棺は何の変哲もない木製だ。あっという間にバラバラになり、中にいたワーロックが引きずりだされる――はずだった。

 しかし、そこには何もなかった。 

 鮫がきょとんとしたように一瞬動きを止める。それは観客も同じだった。しかし、次の瞬間にはざわめき始める。


「おい、ワーロックはいったいどこだ?」

「まさか一飲みに……」

「いや、血が出ないのはおかしい」


 それぞれが好き勝手言いはじめ、収拾がつかなくなった頃を見計らって、ルカがにやりと笑ったのにイルミナは気づいた。

「あれは!」

 ルカが叫ぶ。

 誰もが、そう――ホホジロザメですら指先を追った。


 水槽の、先ほど団員が棺を投げ入れた場所。そこには、登場したときと同じように、微動だにしない外套を纏った大男が立っている。帽子をとって、深々と頭を下げる。彼が身体を起こし、手を広げた。一滴の雫すらまとわずに、ルエイン・ワーロックが軽く笑みを浮かべていた。

「ブラヴォー!」

 今日一番の歓声が起きる。

 イルミナも気づけば立ち上がり、痛くなるほどに手を叩いた。

 ルエインは降り注ぐ拍手喝采を受け、幾度も幾度も頭を下げる。拍手は、ルエインが舞台を降りても、セットが片づけられても、なお鳴りやまなかった。


 

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