8.ミニット
「どうしてこうなっちまうんでしょうかね」
ミニットが頭をさすりながら零した。イルミナはそれを聞いていないのか、ぼんやりと空を眺め続けている。
夕暮れが迫り、雲ひとつない青空は山間に向かって薄い橙の階調を作っていた。太陽が沈みつつある中空には、かすかに星のまたたきが見える。トーカ村ではよく見ていた景色だったが、冬の森で働き始めてから久しく見ていなかったので、懐かしい気持ちになりいつまで経っても見飽きるということはなかった。
ゆっくりと煉瓦作りの道を歩くイルミナの服装は、ずいぶんと動きやすいものになっている。ゆったりとした若草色のチュニックはカシュクール風に胸元が大きく開いていた。ふんわりとしたスカートも同じ色と素材で作られているようだ。夜はまだ冷えるからと、手編みのボレロを羽織っている。
これらは、件のメイドが選んだものだった。普段から活発に動きまわるイルミナは、もっと少年的な服装を好む。彼女の趣味ではなかったが、鏡に映った自分を見た時にこういった格好も悪くないかも、と思わせるほどには似合っている――と思う。
そもそもイルミナは給金の大半を本の購入に費やすので、あまり洋服というものを持っていないのだ。冬の森で働いている以上必要ないとも言えたし、買ったとしても見せる相手はあのザックだ。彼がまともな感想など言うことはなかったので、見せる甲斐がないと考えたイルミナの箪笥には、洋服が増える頻度は自然と減っていった。
だからこうして、可愛い洋服に袖を通すのは楽しかった。
そんなイルミナの隣を重い足取りでのろのろと足を動かすミニットは、ぶつぶつと何かを呟きながら対照的に浮かない顔をしている。
それも当然の話だった。
なぜか、一介の使用人である彼が殿下から直々にイルミナの案内を仰せつかったからだ。
身長が低いミニットと文字通りの意味で肩を並べて歩く、このイルミナ・ロッキンジーという少女が彼の主にとって重要な客分であるというのは理解できた。それらは彼女を気遣う主の物腰を見ていても分かったし、屋敷の空気もどことなく違う。殿下の護衛を務める王宮兵士たちが緊張感を持っているのだ。
さらには、女王陛下にも謁見されたとか。
これらの情報をミニットはよく喋る女中から聞いていたので、当然身構えることになる。
しかし、蓋を開けてみれば、イルミナは外国の要人でも貴族でもなかった。少し話してみると、ミニットと同じ民間人だと言うではないか。
女中から聞いた「無口な、影のあるどこかの国のお姫様」というイルミナ・ロッキンジー像とはかけ離れていたので、話好きで噂に目がないという彼女の顔を思い出し、ミニットはあからさまに顔を顰め舌打ちをしたい気分になったのは言うまでもない。
もちろんその女中というのは、イルミナの世話をしているあのメイドのことだ。
ともかく、噂とは違ったが、イルミナが重要人物であるのには変わりない。世話というと大したことがないように思えるが、実際は護衛に近い。
イルミナ・ロッキンジーという少女が、殿下の客であり、女王陛下に謁見した事実はとっくに知れ渡っているだろう。そして、会談の内容だって調べようと思えば、簡単にはいかないであろうができるはずだ。
そして宮中だけではなく、政界にだって殿下を良く思わない人間はいる。彼は人格者で有名だったし、実際に恨みを買うようなことはしていないが、それとこれとは別問題なのだ。
それくらいのことは、ミラク家に仕えて数年しか経っていないミニットでも理解できる。
そもそもミニットという男は、ごくごく普通の家庭に生まれ育った。普通に学校に行き、普通に職に就いたものの会社が潰れてしまい、たまたま見つけた求人で今に至る。もちろん、職場が職場なので調査はされただろうが、なんてことはなかったはずだ。
何せ、ミニットという男は特技といえば、馬の扱いだけという典型的な小市民だったから。
だからこそ。
――そう、だからこそ。
そんな要人の護衛を、なぜ彼が引き受けることになったのか。
先ほどからそれだけをミニットは考え続けていた。
イルミナは浮かない顔をして歩く、自分よりも少しだけ背の高い男が被っている帽子を取り上げる。
「仕方ないでしょう? こうなってしまった以上は楽しまないと損だよ」
帽子を指先でくるくると回しながらイルミナは弾む声でたしなめる。まるで、彼が考えていることを読んだかのようだ。少女の言葉には根拠も説得力も全くなかったが、確かに言うとおり楽しまないと損だ、と小太りの使用人は思い直した。
「しかし、サーカスなんて何年振りでしょうかね」
「ミニットはサーカスを見たことがあるの?」
「ええ、小さい頃は何度も。最近は興味すらないですがね」
イルミナは驚いた表情でミニットを見つめる。目は大きく見開かれ、口元に手を当てたまま。言葉にこそ出さなかったが、少女が何を言いたいのかはミニットには簡単に分かった。
だからこそミニットは、今にも口を開きそうなイルミナに手を振って言葉を続ける。
「ああいえ、興味がないってのは違いますぜ。言葉のアヤってやつで。正確には一緒に行くやつがいないってだけでさぁ。この見た目なんでね、この歳になって嫁はおろか、恋人もいない始末でさ」
「そんなことないわ。ミニットは優しいし、話は面白いし、何より魅惑的だもの。今までは運が悪かっただけだよ」
ミニットは刈り上げた頭をさすりながら苦笑した。この少女は、屋敷を出てからずっとこんな調子だ。イルミナのように明るく聡明で気配りのできる人間はそうはいない。
――まるで、鏡のような少女だな。
それがミニットがイルミナという、自分よりもわずかばかり年下の女に下した判断だった。彼女と応対した人間は、自分というものを否応なしに見せられるのだ。おそらくは、殿下も彼女のそういった部分に魅せられたのではないだろうか。
お世辞にも美人とは言えない少女だったが、活発なだけで魅力は上がる。読書家らしく、会話の端々に知性のかけらを忍ばせるのだが、それを鼻にかけないあたりにも好感が持てた。何よりまぶしい笑顔を持っている。笑顔は、女の最大の武器である。
他人の「相」を見るのが得意なミニットだったが、イルミナには掴めない部分があると思う。それが何なのかは分からない。あるいは少女が時折見せる物憂げな表情だったのかも知れないし、またあるいは、未だ成熟しきっていないその身体と精神のちぐはぐさかも知れない。
「ミニット、早く! こっちだよ!」
彼の思考は、自分を大声で呼ぶ声にかき消された。それに驚いた周りの人間が一斉にイルミナとミニットを見る。少女はそれを気にする様子もなく、ミニットに向けて大きく手を振っていた。
人に注目されるのが苦手なミニットはイルミナに軽く手を挙げて答えると、夕日が落ちてゆく空を仰いでから、よれよれのズボンに手を突っ込み、やや俯き気味に歩き出した。
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