9.ノーガー
――どうして、こんなにワクワクするんだろう。
宵闇に浮かぶ街灯に照らされたサーカスの天幕は、どことなく不気味な、けれどもいたずら心を刺激する独特な雰囲気を持っている。日は落ちているというのに子供たちが多いのもあって、日常とは違った空気が漂っていた。
広場には数多くの露店が並び、熱がこもっているかのよう。人が通る隙間もないほどに並んだ飴売りや、紙芝居や、子供向けの古着を売っている商人の間を縫い、イルミナとミニットはサーカスの天幕へと向かった。
「すごい人だかりね」
「そりゃあ、なんたってワーロックサーカス団ですからね。王都に来るのは数年ぶりだとか」
このサーカスが世界的に有名だということを、イルミナはついさっき聞いたばかりだ。そもそもサーカス団というものが世界中にあるというのにも驚きだったし、歴史の深さにも驚嘆した。
世界には知らないことが山ほどある――イルミナはそう思い、ミニットの詳しい説明を聞きながら内心で頷いていた。
なんでも、このサーカス団でしか見ることのできない演目があるとかで、イルミナの期待は否が応にも高まっていた。
テントの前までなんとか辿り着くと、子供たちの嬌声が聞こえてきた。そちらを見ると道化師がたくさんの子供に囲まれている。にこやかに笑み、手にした色とりどりの風船を手渡していた。
「あれが、ワーロックサーカス団の名物団長ですよ」
それも先ほどミニットから聞いていた話だ。
元々、ただの配管工だったルエイン・ワーロックという男は、手先の器用さを生かして、週末には子供相手に簡単な手品を披露していたらしい。それが思いのほか好評で、地方新聞にも載るほどだったという。知人の仲介で酒場や食堂に呼ばれるほどにまでなった頃、「これでは子供が手品を気軽に楽しめない」という思いから、弟と二人で立ち上げたのがワーロックサーカス団だ。
無類の子供好きだったワーロック扮する道化の受けも良く、更には演目の確かさもあって、彼の名声はあっという間に広まった。今では券を取るのも困難なほどの人気だ。
もちろん、その切符は殿下が手配してくれた。演劇のように予約しなければならない、というのもイルミナには驚きだったのだが……。
「ところでミニット。何故そんなに詳しいの? サーカスにあまり興味がないって言ってなかったっけ?」
「まぁ、そりゃあ王都に住んでいたらある程度流行に詳しくならないとやっていけませんからね。それに、屋敷にはゴシップ誌なんかよりもはるかに早くて、とびきり刺激的な情報源がありますから」
そう言ってミニットは、屋敷でイルミナの世話をしてくれているメイドの名を挙げた。確かに話し好きな少女ではあったが、ミニットが言うように噂話に目がないとは思えなかった。
「当人を目の当たりにして噂なんてしやしませんよ」
「当人?」
ミニットは口を滑らせたことに気づくと、罰の悪そうな顔をして頭を撫でまわしている。
――なるほど、そういうことか。
不本意ながら、イルミナにも彼が何を言っているのか掴めてきた。そう、彼が言う刺激的な噂とは、イルミナのことを指しているのだ。
確かに、自分の立場を考えると、噂をしたくなる彼らの気持ちも分かる。今までにいろいろとありすぎたし、これからもそうなのだろう。それらを忘れるためにサーカスに来たというのに、現実に引き戻された気分だった。
す、と。
浮かない顔をしたイルミナの目前に風船が差し出される。俯いた顔を上げると、すぐ傍に道化がいた。よく見ると、彼は着ぐるみを着ているようだ。でっぷりとした身体つき、イルミナの胴ほどある手足。絵本に出てくるみたいな見た目だ。彼はイルミナの表情をのぞき込むように身体を横にして無言のまま、だけれど笑顔で手に持った風船を指さした。
どれがいいんだい?
そう問いたいようだ。イルミナは桜色の風船を指さそうとして、少し考え直し白の風船を選ぶ。道化は束になったものからひとつを差し出した。
「ありがとう」
イルミナが声をかけると、にんまりというか、にっこりというか微妙な笑顔で頷いて、胸を指さす。
彼は首から板を下げている。そこには「サーカスは笑顔で楽しもう」と書いてあった。
――なるほど、ミニットが言った通りたいした団長だ。
イルミナの浮かない表情を見て来たのだろう。手を振ってみると、彼もそれを返してきたが、次の瞬間には子供たちに囲まれて、あっという間に見えなくなった。
「あ、ミニットの風船貰そこねちゃったね」
「いいですよ、あたしはそれよりも食い物のがいいや」
そう言って、先ほど露店で買ったサンドイッチを頬張る。
その時、イルミナの顔に水気が当たった。何気なく空を見てみると、いつの間にか一面に黒く、厚い雲が広がっていた。日も暮れてしまったから分かりづらかったが、これは一雨きそうだ。
露店をもっと見たい気もしていたのだが、その間に降ってきそうな空模様だったので、イルミナたちは足早に受付へと向かった。
***
「まったく。今日くらいは晴れると思ったのに」
ぽつりぽつりと泣き出した空を睨みながら、男がぼやいた。
「日頃の行いってやつですよ。お前さんは酷いです」
「おや、心外だね」
「だって、サンドイッチもっと食べさせてくれてもよかったですよ」
「あのままだったら、子供たちのがなくなっちゃうだろう? イザクはもっと我慢ってものを覚えるべきだ」
イザクと呼ばれた男は、それには答えず憮然と唇を突き出し、空を見つめた。
サーカスの天幕前。
この二人は、周りの視線を集めていた。だが、それに気づく様子もない。
イザクはこの広場にいる誰よりも身長が高かった。そのうえ、がっちりとした身体つきをしているので、山のように見える。それだけだったらいいのだが、ただでさえ目立つ風貌を際立たせていたのが、彼の大きな顔を覆う目出し帽だ。
もう一人の男も、彼に負けず奇妙な恰好をしている。
思わず振り向いてしまうほどの整った顔立ちをしているのだが、その瞳にはどこか生気がない。
流れるような銀髪を腰くらいにまで伸ばして、頭にはつばの広い帽子を被っている。細身の身体をすっぽりと覆う外套と相まって、絵本に出てくる魔法使いのような印象だった。
子供たちが好みそうな見た目をしているのに、彼らの周りには子供はおろか、大人ですら近寄り難い雰囲気を持っている。
「とにかく仕事だ。イザク、ちゃんと入場券は持ってきたかい?」
「あるですよ。でもイザクはサーカス見たくないです」
「おや、珍しいこともあるもんだ。どうした?」
「おなか減ってるです。中のを全部食べていいんだったら付き合うです」
男はお手上げといった風に手を挙げた。
「だったら仕方ない。券を」
「これです」
「おや、一枚だけだったのかい?」
「あいつケチです。『イザクを入れると何をするか分からん、入るのはノーガーだけにしろ』ときたもんです」
ノーガーと呼ばれた男は、そこで楽しそうに笑う。しかし、瞳には一切動きがないので、どこか狂気をはらんでいるかのよう。
「まさに彼が言いそうなことだ。オーケイ、じゃあぼくだけで行ってくるよ。イザクはどうする?」
「さっき屋台で見つけたパイをたらふく食べてるです。やけ食い革命です」
「意味がよく分からないけれど、そうするといい。ただ、他人には迷惑をかけないようにね」
イザクは、それを聞いていたのか、鬱陶しそうに手を振って駆け出していった。
――まったく、子供なんだから。
残された男は空を見つめ、誰にも聞こえないほどの声で、「ようやく会えるね、イルミナ」とつぶやき、ゆっくりとした足取りでサーカスの受付へと向かった。
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