7.サーカス
どうしてこうなってしまったのか?
馬車に揺られ瞑目しながら、イルミナは夢のような出来事を思い返していた。行きに殿下が座っていた場所は空席だ。いくつかの謁見に同席するとか言っていたっけ。
おかげで、イルミナは思う存分思考に身を委ねることが出来た。
王都に来てから驚きの連続だ。たぶん、すでに一生分は驚いたに違いない。
ザックのこと。
女王陛下のこと。
殿下のこと。
いくつかの考えが流れる景色とともに浮かんでは消えたが、やがてイルミナは強くかぶりを振って打ち消した。たくさんの話を聞いたが、彼女のやるべきことは決まっていた。まずは休暇を楽しむ。
そして、冬の森に戻ったら、ザックの頬を思い切り引っ叩いてやるのだ。
きっとザックのことだ。イルミナが頬を打っても、いつものように憮然とした表情を浮かべるに違いない。イルミナが本当に怒っているのを察すると、肩をすくめて彼女がお気に入りであるハーブティーの入ったカップをそっと置くのだろう。
そこまでが容易に想像ついたので、イルミナは豪華なシャンデリアがついている天井を眺めながら苦笑した。
その時。
かすかな振動とともに、馬車が止まる。まだそこまで走っていないはずなので、何かあったのかと窓の外を見る。イルミナは目を丸くした。
そこには人の波と形容するのがぴったりなほど、人が溢れていたのだ。
市場にほど近い大広場なのだが歩道と車道の境目は既になく、そればかりか民家の屋根に乗っている人もいた。彼らの視線を追ってみると、どうやら人々が泉と呼んでいる広場中央の噴水あたりで何かしらの見世物をやっているようだった。大きなテントが、離れているイルミナからも見て取れた。
そんな中突如現れた王家の紋章が刻まれた馬車が現れたので、混乱はより増したようだ。
広場後方にいた人たちは、新たな見世物がやってきたとばかりに馬車を囲む。子供たちは中に座っているイルミナに遠慮ない好機の視線を向けていた。
何となく――本当になんとなく興が乗ったイルミナは、笑顔を浮かべ子供たちに手を振ってみる。嬌声は増し、馬車の周りの人だかりがどんどん大きくなった。
「ロッキンジー様、おやめください」と、馬車の手綱を握る男が泣きそうな顔になっている。
これくらい、いいじゃないか。そう言いかけて、この男に罪はないことを思い出した。なるべくしおらしい顔をして「ごめんなさい」と謝ったあとに、前方の人だかりに視線を向ける。
「今日は何かお祭りがあっているんですか?」
「いえ、そういうわけでは。おっと」御者は浮足立っている白馬たちを宥めるように手綱を操った。「今日が週末ということもあるんでしょうが、今あそこにサーカスが来ているんですよ」
「サーカス!」
イルミナは目を輝かせ、両手を腕の前で組み合わせた。その様子をちら、と見た御者は「駄目ですよ」と彼女が何かを言う前に制してくる。
「どうして?」
「こんな騒ぎだ。降りた瞬間にもみくちゃにされますよ。良からぬことを考える輩がいないとも限らないですしね。そもそも、あたしはこの道を通ることも反対だったんだ」
この市場を見たいと言ったのはイルミナだった。この馴れ馴れしい御者はもちろん反対したが、緊張の連続で精神が疲れていたイルミナは、頑として譲らなかった。そうしたらこの騒ぎである。御者の言い分も理解出来ていたので、彼女は力なく頷いた。
御者はそんな少女を見てから何も言わずに馬車を旋回させる。一本道を戻って別の通りからミラク邸に戻るつもりなのだろう。
イルミナは、ゆっくりと離れていく大広場を、名残惜しそうにずっと見つめていたが、やがて角を曲がりそれすらも視界から消えると、大きく溜め息を落とした。
――サーカス。見てみたかったな。
彼女はが住んでいたトーカ村にも、サーカス団が一度だけ来たことがあった。こんなに大きなテントではなかったし、出し物もどちらかと言えば地味な方だったと思う。
しかし、一輪車に乗りながらジャグリングをする道化師は喜劇的ながらも驚きを提供し、狼たちが火の点いた輪を何度もくぐり抜ける様に大きな声援が送られた。
何よりも圧巻だったのは
若い男女の演者が笑顔を浮かべたまま、目も眩みそうな高さのなか何度も飛び交っていたので、手に汗を握りはらはらした気持ちで眺めていた――らしい。
これらは全て妹から聞いた話だ。
その頃イルミナは流行り病に罹り、ベッドでうなされていたのだ。高熱があるのに「サーカスに行きたい」と駄々をこねて母親を困らせていた。今考えると、元気だった母親の方こそ見たかったに違いないのに、イルミナを必死に看病し、優しく頭を撫でてくれていた。だが、当時年端もいかない少女にそれを察しろというのも無理な話だろう。
そんな訳で、イルミナはサーカスというのを見たことがない。きらびやかで蠱惑的な非日常を体験するのは、彼女が「死ぬまでにしてみたいこと」のひとつだ。
もちろん、それを御者に理解を求めるのは無理な話だった。いくらイルミナが熱を込めて訴えても結果は変わらないだろう。だからこそ、イルミナはもうとっくに見えなくなったというのに、未だ窓に顔を寄せてサーカスの幻影を追い続けている。
こつこつ、と前方の窓を叩く音が聞こえた。
「ロッキンジー様」
彼女を見かねた様子で御者が窓を開く。イルミナは返事を返したものの、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
「サーカスは二回講演です。昼の部は無理でしょうが、夜だったら見れると思いますよ。一度屋敷に戻って、着替えてください。その間、あたしが話を通しておきます。護衛つきになるでしょうが、旦那様も駄目とは言わないはずです」
「本当?」
いつの間にか、イルミナが窓から顔を出していたので、御者は飛び上がらんほどの驚いた。
「本当にサーカスが見れるんですか?」
「ええ、約束は出来ませんけどね。あなたは大事な客人だ。それを無碍にするほど殿下は狭量じゃありませんって」
「ありがとうございます! えっと、名前聞いてなかったですよね?」
「ミニット。ラッセル・ミニットです。あと敬語はなしにしましょうや。あたしは単なる雇われで、そんな大層な身分じゃないですし」
「本当にありがとう、ミニット! とても感謝してるわ」
イルミナは目を輝かせ、でたらめな鼻歌を口ずさみ始めた。すでに心は大広場でのサーカスに向かっている。
ミニットはその様子を見ると、肩をすくめ帽子を取り、短く刈った頭を右手で撫で回した。
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