6.約束

「どうしてこうなってしまったのかしらね」

 老婆――いや、女王陛下はイルミナ、殿下以外の人払いを済ませたあとに、大きく息を吐き出した。

「ロッキンジー嬢、申し訳ありません。騙すつもりはなかったのですが」

 殿下は困ったように眉根を寄せて頭を下げたが、イルミナは状況が掴めずゆるゆると首を振ることしか出来ない。

「まったく、陛下のいたずら好きにも困ったものです」

 陛下に向けて真っ直ぐに非難の目を向けている。しかし、当の本人は逆に殿下を責めるかのように頬を膨らませた。それがとても似合っていて、イルミナは少し……ほんの少しだけ安心した。

「こんな大事になるなんて思いもしなかったわ。私はただロッキンジー嬢と話がしたかっただけなのに」

「それが何故大事にならないと思ったのですか」

「だって、いつものように女中として行けば良かったじゃない」

「陛下、その発言は誤解を招きます」

「事実だから仕方ないでしょう?」

 今度は殿下がゆるゆると首を振って、大仰に肩を落とした。言い方は悪いけれど、いつも同じような余裕のある笑顔しか見たことがなかったので、新鮮な気持ちで殿下と陛下を眺める。まだ混乱してはいたが、ある程度周りに気を配る余裕が出てきたようだ。

「ほら、あなたが小言ばかり言うからロッキンジー嬢が困っているじゃないですか」

「それは陛下が……」

 言いかけた殿下がこちらも珍しく言葉を詰まらせた。音もなく彼の前に歩み寄っていた陛下が、右手の指を三本ぴっと立てている。陛下の御年は七十を超えているはずなのだが、瑞々しく、美しい指先だった。

 瞬間、空気が張り詰めた気がした。

 陛下は相変わらずの表情なのだが、殿下が緊張の面持ちで見つめる。その瞳からはいろが消え去っていた。

 そう、彼女はこの指先ひとつを操るだけで世界の趨勢を変えることすら可能なのだ。今更ながらにそれを思い出し、イルミナも自然と背筋を伸ばしていた。

 彼女は立てた指先をとんとんと叩きながら、「忘れたのかしら、ミラク?」と跪いた彼の頭に手を置いた。

 

 殿下が辺りを伺いひとつ咳払いをした後、「……母上が」と言ったのでイルミナは吹き出してしまう。恐らく、彼らの約束事なのだろう。身内だけしかいない時は(もしくは彼女の指示で)、母と呼ぶ――そういった類の。

「あら、ようやく笑ってくれましたね」

 軽くウインクをして微笑むその姿は紛れも無く、昨日月を眺めながら話した老婆だった。底抜けに明るく、どんなときでも自分の歩調を一切崩さない。ころころと表情を変え、奔放に振る舞う姿は、イルミナと同じ少女を思わせた。

 召し物も多少飾りなどはあり、上質ではあったが、昨夜のものと大差はないように見える。ただ、唯一にして最大の違いは、彼女が戴いているもの。世界最大の宝石を埋め込んだ王冠は、イルミナをあっという間に現実に引き戻した。

「失礼いたしました。ラローナ八世陛下、本日はこの場にお招きいただいたことを――」

 かしずいて、これも先ほどメイドから幾度となく教えこまれた口上を述べようとした矢先、イルミナの額に指が置かれた。柔らかく暖かい、人柄そのものを示しているような指先は陛下のものだ。

「だめ、レディーがそんな顔してたら。女の笑顔は、どのような兵器にも優る最高の武器なのよ」

 にっこり、といった擬音がとても似合う笑顔。昨晩のことが思い出された。


 ――殿下と似た笑顔だ。


 当然だ。だって、親子なのだから。


 クイーン・メアリー・ラローナ八世。

 殿下と姓が違うのは、王冠を戴いたその瞬間から名を襲うからだ。東洋の島国でも同じような文化があると聞くが、発祥は我が国家――らしい。

 先王陛下唯一の子種として生を受けた、生粋のロイヤル・ファミリーである女王陛下は、辺境の地であるアルシュタイン地方を国家随一の都市へと発展させたプルニア公爵を婿として迎え入れ、病気がちであった先王陛下の時代から実質的に玉座を守ってきた。

 先王がお隠れになり、正式に王冠を戴くや否や彼女は世界中を駆け巡り、数多もの戦争を集結させた。世界大戦に発展する火種を孕んだレイクドール鉱山の利権戦争も、彼女が精力的に動き締結したのは有名な話だ。

 武ではなく、和をもって戦場を走り抜けるその様は、慈の女神であるエロールを彷彿とさせ、他国家では現代に蘇った女神のふたつ名で呼ばれることもある。

 公式に記録されているだけで彼女が終わらせた戦争は十を越え、非公式なものまで加えると百じゃきかないとまで言われている。

 これほどの影響力を持った人間を、イルミナは知らなかった。歴史上で見てもそういないのではないだろうか?

 数年のうちに、間違いなく教科書に載るであろう、言わば生きた伝説を目の当たりにして、緊張するなと言う方がおかしい――はずだった。


 当の英雄は、殿下に窘められながら先ほどより頬をふくらませている。それは教師にいたずらを見とがめられた生徒のようだった。

「ともかく。今回の母上のわがままで、一体幾人の人間が迷惑をこうむったと思っているのですか? いい加減に自覚していただきたい」

「あら。これだって重要なお仕事なのよ」

 殿下の小言を聞き流し、陛下はイルミナの手をとって立ち上がらせた。

「国家の安寧を願い、民を笑顔にする。これ以上に重要な物事があるのかしら。ねぇ、ロッキンジー嬢?」

 突然に同意を求められ、イルミナはただ曖昧な笑みを浮かべるしかなかったのだが、それで殿下は諦めたようだった。「わかりました」とだけ言うと、陛下の手を引いて玉座へと戻る。彼女も渋々といった様子であったが、黙ってそれに従った。

「さて」

 玉座へおさまると、彼女はひとつ咳払いをして、イルミナを見詰める。

「ロッキンジー嬢。彼の地から急な呼び出し、感謝します」

「そのようなお言葉、過分にございます」

「もちろん、貴女と話したかったというのもあるのですが、もうひとつお願いがあります」

「なんなりと」

「そう畏まられても困るわね。もっと楽にしてちょうだい」

「陛下。時間がありません」

 殿下が懐中時計を見ながら口をはさむ。謁見時間は有限なのだ。この後にも、談話室に残っていたアドラーを含む貴族たちと謁見せねばならないはずだった。イルミナにだけ時間を割くわけにはいかない。

 陛下は相変わらず頬をふくらませ殿下を睨んでいるが、当の殿下は素知らぬ顔でいる。こういったやり取りに慣れているのだ。そう考えると、イルミナは口元を綻ばせた。彼らがとても仲の良い(事実、そうなのだろう)家族に見えたからだ。

「全く、せわしないわね。それでロッキンジー嬢、お願いというのはこれ」

 そう言うと、陛下は玉座の傍らから小振りな箱を持ち上げた。小さなイルミナの手にすっぽりと納まるそれは、王家の紋章が彫られてある純金の箱だった。素材のためか、中の品なのか、思った以上の重さがある。

「これは?」

「中身は言えないわ。それを持っていてほしいの。いつまで、というのも分からないけれど。――ああ、そんなに構えないで大丈夫。中身はそんなに大した物じゃないから。ともかく、それをまたこの場に来る時にまで手元に置いておいて欲しい。私との約束手形のような物」

 今日――いや、王都に来て最大の驚きだったかも知れない。

 誰もが憧れる女王陛下に謁見できたばかりか、再会の約束までをも彼女から言い渡されたのだ。

「今度は、ゆっくりとお茶を飲みながら話しましょう。ここの庭に咲くローズヒップはとてもいい香りがするわ。また会った時には、彼とのお話をもっと聞かせてね」

 老婆は軽くウインクをした。人差し指を口元に当てている。彼というのはもちろん、ザックのことだろう。

 隣の殿下は状況が掴めず怪訝な顔をしていたが、イルミナは笑顔で頷いた。



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