3.月光
――どうして、本当にどうしてこんなことになってしまったのだろう。
燭台の灯りに揺れるイルミナの手には包帯が巻かれている。火傷の程度は酷くはなかったものの、「傷が残るといけないから」と殿下の一言で丁寧な処置を施された。
その間もイルミナが考えていたのはザック――本当はリムトだったか――のことだった。あの無愛想で無口な管理人を知った気になっていたなんて。夢だとも思いたかったが、微かに痛む左手が現実だとささやいていた。イルミナの脳裏にいつか見た写真がよぎる。
イシュバル・ミラクの私邸。
食事の後に殿下は公務が残っているらしく、早々と私室へと引き上げ、イルミナには客室が充てがわれた。きっと、彼女の火傷を慮ってのことだろう。イルミナも考える時間が欲しかったので、ありがたかった。
だが、こうして一人になると良くないことばかりを考えてしまって気詰まりだった。気晴らしにと持ってきていた本を読もうともしたが、目が滑るばかりで一向に内容が入ってこない。それすらも諦め、早々とベッドに入ったのだが当然眠れるはずもなく、イルミナは幾度となく寝返りをうった。
――何故、ザックは話してくれなかったのだろう。
――あたしは、まだ彼に信用されていないのだろうか。
――それとも単に話すのが億劫だったとでも?
壁に設えてある柱時計の針が立てる音が耳障りだった。
上等な羽毛布団は、イルミナの体温を上昇させた。彼女は起き上がると、燭台を手に持ち窓に向かう。大きな窓の鍵を外し半分だけ開いてみた。彼女が暮らす冬の森とは違って心地良い風が入ってくるが、それすらも鬱陶しく感じられる。草木の匂いすらも鼻につくので窓を閉めようとしたその時、庭に人影があるのに気づいた。
田舎育ちのイルミナは夜目がきく方である。距離があったため薄ぼんやりとしか見えなかったが、その人影はどうやら女性であるようだ。風にスカートが揺れている。
本来であればどう考えてもおかしい。日付はとうに変わり、時刻は真夜中を過ぎている。
しかし、今のイルミナにはそんなことに気を回す余裕はなかった。気付けば壁にかけてある上等なローブを手に取り、窓枠に足をかけていた。
一瞬だけ躊躇したが、空気が澱んで見えるこの部屋から出たいという一心で窓から身を躍らせた。素足のままだったので夜露に濡れた草が若干不快であったが、火照った身体に心地よい。
数歩足を進めたところで、ここは冬の森ではなく殿下の私邸だと思いだしたが、イルミナは軽く肩をすくめるだけだった。
これくらい、別に咎められることもないだろう。
どこか捨て鉢になっている自分に気づいて、イルミナは苦笑した。
そう、彼女は怒っていた。二年近く一緒に住んでいたのに何も言わないザックにも、どこか悪戯を楽しむかのように真実を告げた殿下にも。
半分はやけで、残り半分は彼女が持つ好奇心で、ゆっくりとイルミナはその人影に近づいていく。どこかでりーん、りーんと虫の鳴き声が聞こえた。後は時折風に揺られて草花がさわさわと合わさる音だけ。強めに風が吹いて、イルミナは羽織ったローブの前を合わせる。冬の森ほどではないが、季節は夏前。夜の空気は人を寄せない冷たさをはらんでいる。
風に身を任せるように立ち止まってしばし瞑目していると、ささくれだった心が解れる気がした。水面に投げられた小石が波紋を作っても、それはやがて消えるもの。きっと、明日になればこの気持ちにも整理がついて、いつも通りの自分に戻れるはず。半ば以上言い聞かせるようにイルミナは幾度か頷いて、瞳を開いた。
人影は、どうやら庭に設えられた庭園のベンチに座っているようだ。身じろぎもしていないので、イルミナのように瞳を閉じて自然の奏でる音楽に耳を澄ましているのかも知れない。
距離を詰めると、その人影の正体にイルミナは気づいた。人影も同様だったようで、「あら?」と柔和な声を出した。
「こんな時間にどうされました、ロッキンジー嬢」
人影は、イルミナをこの地まで案内した老婆だった。シルク生地の寝巻を着、その上にローブを羽織ったままであるイルミナと違って、老婆は昼間会った時と同じく地味な色合いだが、とても趣味のいい服を身につけていた。
イルミナの格好を見たはずなのに何も言わず、ただ座っているベンチを指し示した。座れということだろう。
隣に座り、老婆を盗み見る。彼女は月を見上げていた。
「うわぁ」
イルミナは思わず感嘆の声を上げる。月は真円を描き、青白い妖艶な光を発していた。傍らで瞬く星々がやけにくっきりと見える。
「この庭で見る月が好きなんですよ」
老婆は月から視線を外さずに、優しく微笑んだ。
「綺麗ですね」
「あら、貴女もこの月に魅せられた訳じゃなかったのですか」
「いえ、ちょっと……」
真っ直ぐな問いかけに思わず言葉を濁してしまう。それを世話好きな老婆が見逃すはずもなかった。
「どうかされたのですね? 私で良ければ聞きますよ」
イルミナも答えの出ない問題を抱えたままで眠れるはずもなかったので、世間話ついで、というには荷が勝ちすぎていたが、この老婆に話してしまうことにした。もちろん、極秘事項は伏せたまま。
「なるほど」
要領の悪いイルミナの説明を老婆は辛抱強く聞き、そうぽつりと漏らしたきり月を見つめたまま言葉を切った。
「あの、お月様のようなものですね」
どれくらいぼんやりと座っていただろうか。やがて老婆は月から視線を外し、イルミナを慈しむように見つめている。殿下とよく似た笑みだった。
彼女はこの家の――つまり王家のメイド長のようなものなのだろう。どことなく殿下を思い出させるのも、きっと彼女が殿下と共に長い時間を過ごしたからに違いない。
「こうやって見える月は、形を変えているように見えるけれど、実際は変わらない。満ち、やがて欠けるのも、全ては見方次第なんですよ。お月様は私たちがどれだけ変わろうとも、変わらずにあそこにいらっしゃいます。貴女の気持ちもきっとそういう類のものですよ。いつか、全てを許せる日がやってくる。私はそう考えています」
なるほど。
年の功、という訳でもあるまいが、説得力があった。イルミナの怒りだって一時的なものだろう。そもそも、彼女は何故ここまで腹を立てているのか、気づいてはいない。
――いや、気づいてはいるが、目を背けているのだ。
「それに」
思案していたイルミナが聞き漏らしてしまいそうな小さな声で老婆は何かを言いかけた。
「それに?」
「いえ、何でもないのですよ」
失言に気づいたのか、慌てて手を振る老婆。
「言ってください。気になります」
イルミナが詰め寄ると、老婆は困ったように眉根を寄せ、頬に人差し指をぴっと当てた。それはまるで少女のようで微笑ましかった。
「言わないわ」
「何故?」
「答えは自分で見つけるもの。そうでしょう、イルミナ・ロッキンジー?」
確かにその通りなのだが、イルミナは憮然と唇を突き出した。
「あらあら、レディーがそんな顔をしてはいけませんよ。ほら、もう遅いし眠られては? こんなお婆ちゃんの暇つぶしに付き合ってくださってありがとうございます」
笑みは絶やさなかったが、有無を言わせぬ口調で老婆はイルミナを立ち上がらせた。そして並んで屋敷へと戻る。もちろん、老婆が案内したのは窓ではなく正規の玄関だ。
慣れた手つきで鍵を開くと、イルミナの客間へと誘う。
「それでは、おやすみなさいませ。ロッキンジー嬢」
深々と頭を下げて、扉を閉じるその時に。「ああ、そうだわ」と思い出したかのようにイルミナを見つめる。
「今度はきちんと玄関からおいでくださいね。あんまりお転婆だとザックさんにも嫌われちゃいますよ」
「なっ……」
最後に老婆は軽くウインクをし、イルミナの返事を待つまでもなく扉は閉じられた。
「そんなんじゃ……」
イルミナの力ない言葉は重厚な扉に吸い込まれる。
――ないとも言い切れないのかな。
「よく分からないや」
思考するのも億劫で、イルミナはそのままベッドに潜り込む。肉体的にも精神的にも疲れが溜まっていたのだろう。今度はすんなりと眠りが訪れた。
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