4.馬車

「どうしてこんなことになってしまったか、ですか?」

 馬車の中。

 殿下に質問したはいいが、イルミナは小刻みに震える身体で微かに頷くことしかできない。その顔色は蒼白を通り越して死人のようになっている。

 車に酔った訳ではない。むしろ、乗り心地は今までのどの馬車よりも良かった。本当に車輪で走っているのか、幾度か外を確認したくらいだ。なんでも王家御用達の物だとかで、名工が仕上げた世界に数台しかないものらしい。当然というか、その所有者は王家の人間――つまりイルミナの対面に悠然と座っているイシュバル・ミラク皇太子殿下だった。

「さて。あの方も気まぐれなお人ですから」

 表情こそ平時と変わらないものの、殿下の声も硬くなっているように思える。

 二人が乗っている馬車は、殿下の私邸を出て更に中央へと向かっている。微かな振動が伝わってきてイルミナは肩を震わせる。だが、それも暫くのことでまたゆっくりと馬車は走りだしたようだ。


 ――これで何度目だろう。


 屋敷を出てから既に二時間ほど経っている。いくらのんびりとした行程だとはいえ、これだけの時間をかければニューオリオン市街を一周以上は出来るというのに、恐らくその半分も進んでいない。理由は単純に幾度も馬車が止まっては走りを繰り返しているからだ。

 検問……のようなものだろう。

 内府省に向かうときだって、こんな数の検問はなかった。これだけ厳重に護られている場所。イルミナの身に降りかかった事態が現実だと示していた。

 彼女たちが向かっているのは、セントラルの中枢どころかこの国そのもの。


 即ち、王宮だった。


 話の発端は、僅か数時間前にイルミナが眠たい目を擦り、大きなあくびと共に身体を起こした時に遡る。

 ぼんやりとした頭で覚醒を待っている彼女の部屋に、控えめなノックの音が響いた。恐らく、昨日も着替えを手伝ってくれたメイドであろう。

「はーい」

 間延びしたイルミナの声を聞いて返ってきたのは、意に反して低いバリトンだった。

「ロッキンジー様、おやすみのところを申し訳ありません。間もなくイシュバルが参ります」

 低く、威厳のある声には聞き覚えがある。この屋敷の執事長だったはずだ。


 ――それにしても殿下が? 今日もご公務だと聞いていたけれど、朝食のお誘いかしら?


 意識のはっきりしないまま、枕元に置いてあった私物の懐中時計に手を伸ばして、イルミナは悲鳴を上げそうになった。何度見なおしてみても、時計の針は昼前を指している。朝食どころか、昼食の時間だ。いくら昨夜遅かったとはいえ、ここまで寝過ごすとは思ってもなかった。

「すみません、すぐに準備します!」

 重厚な扉の向こうで頭を下げているであろう執事長に聞こえるように大きな声を出して、イルミナは文字通り跳ね起きた。

「慌てなくとも問題ありません。すぐにメイドが参りますので」

 まるで彼女の心を見透かしたかのように、執事長はイルミナが良く知るメイドの名を述べた。昨晩の老婆といい、王家の使用人たちは心中を読めるとでも言うのだろうか。

 それからほどなくして、先程よりも控えめなノックの音が聞こえる。寝巻のままであったが、イルミナが扉を開くと、小さな少女が頭を下げていた。

「おはようございます、ロッキンジー様」

 そう愛らしい声で挨拶を済ませると、少女は急いで部屋に入ってくる。大きなカートと共に。

 最初のカートには、ティーポットと焼きたてであろう、バターの匂いがするクロワッサンが乗っている。そしてもう一台には昨日のものよりも更に豪華なドレスがあった。


 ――昼食からこんなに着飾るなんて、そんなマナーあったかしら?


 メイドに薦められるがままにクロワッサンを齧りながら、イルミナは下着から何からを用意する少女を眺めていた。そもそも昼食前にクロワッサンが伴される訳がないのだが、イルミナにはそれに思考をやる余裕はない。

「こちらから内務省に向かうのでしょうか?」

 のんびりと二つめのクロワッサンに手を伸ばしながら、慌ただしく動く少女に問いかける。

「いえ、殿下がこちらに戻られます」

 メイドは手を止め、イルミナに向かい合うと弾む息を抑え、優雅に微笑んだ。

「こちらに? でも、殿下はご公務があるはずですよね。お邪魔ではないのでしょうか?」

「女王陛下からのご要望ですので」

 ふぅん。どこか他人事のようにイルミナは心で思った。


 我が国は基本的には民主主義だ。王家は政には関与しない。ここで言う王家とは、王陛下、並びに女王陛下を指す。外遊や、各国首脳会談に参加はするものの、発言権はほぼない。もちろん、政治の最終決定権は王陛下に委ねられるということになってはいるが、それはただの建前だった。要するに、世界を牽引する国家のシンボルのようなものだ。

 民主政と王政が両立している唯一無二の国家であるから、内情はかなり複雑に絡み合っている。例えば、一般的に殿下はであると理解されている。なのに政治には参加している。それも重要なポストだ。だが、これに国民から不満が出たことはない。

「王家とは、王陛下と女王陛下のお二方を指す」という建前が生きてくるのだ。

 どういった理屈なのかは知らないが、この国の王家は人ではない。別に幽霊とかそういった話ではなく、文字通りの象徴として置かれているのだ。

 要するに殿下は王陛下の嫡子ではあるが、王家のものではない。つまりは我々と同じく人である。であれば、政治に参加するのは別段構わない――そういう論法らしい。強引なきらいはあるものの、一度誰かが決めたことは滅多に覆らない。それが民主主義というものだ。

 

 イルミナはは政治学や歴史に明るい訳ではないので、この辺りが知りうる限界だった。そういやいつかササフラに教えてもらったっけ。

 だが、王家がただの象徴ではないこともまた知っている。王陛下は数年前にお隠れになったので、実質的には女王陛下が玉座を守っているのだが、その発言はいかなる規則も捻じ曲げる力を持つのだ。

 かの一声で戦争を終わらせたこともあるし、今回のようにいくら急務があろうと呼び出しには応じねばならない。今の女王陛下は変人であると専らの評判であったため、今回の件に関しても特に驚きはなかった。

 唯一の気がかりと言えば――。

 そこでイルミナはドレスに目をやる。どうやら準備は整ったらしく、メイドはイルミナが頬張ったクロワッサンを飲み下すのを待っていた。

「何故、私がドレスに着替えないといけないのでしょうか?」

 一番先に来るはずの疑問を、ようやくイルミナは口にした。それを待っていたように、晴れやかな笑顔でメイドは答える。


「女王陛下に謁見されるのにそのままでは、我々が叱られてしまいます。さあさロッキンジー様、立ってくださいまし。お任せください」


 ――誰よりも美しくしてみせますから!


 眩い笑顔で張り切るメイドの声は意識の底に飲み込まれていった。


「見えましたよ」

 セントラルに来たときの老婆同様、イルミナを慮ってか口数少なだった殿下が久しぶりに声を出した。もしかしたら、彼もかなり緊張しているのかもしれない。

 イルミナが窓の外を見ると、かつて教科書で見た荘厳ともいえる建物が目に入った。もちろん、写真やフェイクではない。正真正銘、本物の王宮が目の前にあった。

 何故かイルミナはそれを見て、小さいころ妹に姫と呼ばせていたのを思い出し、赤面する。

「行きましょうか」

 先に馬車を降りて、殿下はイルミナに手を差し出していた。断りたかったが、ここまで来てそんなことが出来るわけがない。震えながらその手を取り、なるべくゆっくりと王宮へと入ってゆく。


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