2.晩餐

「どうしてこんなことになってしまったのだろう」

 今朝から幾度と無く湧き上がってくる疑問に耐え切れず、イルミナはつい声に出してしまった。

 対面では彼女の独り言が聞かれた様子もなく、殿下が慣れた手つきでカトラリを操っている。静謐とも言える空間に響いた自身の声に思わず口元を覆った。スカーフの擦れる音でさえ響くくらい静かな食堂。イルミナは並んだ料理の味を堪能することも出来ずに、見るからに高価そうなカトラリを震える手でたどたどしく弄び、音をたてないように口へ運ぶだけで精一杯だった。

「口に合いませんか?」

 贅を尽くした陶器製のデキャンタから注がれたルビー・カラーワインを飲み下し、殿下は優しく微笑んだ。些少とも言えるイルミナの感情ひとつを見落とさず、適切なタイミングで声をかける。よく観察しているものだと感心はするものの、表情は出さない。心を読まれる気がして陶器に視線を落とす。

「いえ、そんなこと。とても美味しいです」

 今言ったことも事実だ。特にメインディッシュとして提供された合鴨の香草焼きなんかは、今までイルミナが口にしてきたものがまがい物であるかのように柔らかく美味だった。香草の瑞々しささえ感じられ、五感すべてを刺激するような貴重な体験だとも思う。

 ただ、彼女が暮らすモルグ全体と同じくらい広い食堂で、豪奢な家具や著名な絵画などに囲まれて食事をするのはやはり落ち着かない。まるで悪い夢かのようだ。常に侍っているメイドの無表情がそれに拍車をかけていた。


 食堂に給仕する人間は数人いるものの、ダイニングテーブルについているのはイルミナとミラク殿下だけ。

 わざわざ冬の森から呼び出してきたからには、相応の用事があるに違いないと身構えるイルミナを、以前見たままの優雅な笑みで私邸へと案内し「まずは食事でも」とこの場に導いた。

 余談ではあるがイルミナが着ているのは、いつも彼女が好む動きやすい服からは遠く離れた煌びやかなドレスである。これも殿下が用意させたものだった。

 ひどく窮屈な格好で緊張した空気の中、食事を楽しめるわけがなかった。それに、未だに用件とやらも聞かされてない。殿下も話すつもりはなさそうだったので、意を決しイルミナが口を開こうとした、その時だった。


「急な呼び出しをしてしまい申し訳ありませんでした」


 雄々しい馬の装飾が施されたデキャンタではなく、流線形のデザインをした水差しに手を伸ばした殿下は、珍しくぎこちない笑顔だった。

「そのようなお言葉は私には過分にございます。王国民としては当然の務めです」

 イルミナがそう言ったところで、殿下は指を一本立てて小さく左右に振る。口の端はいつの間にか悪戯めいた笑みが浮かんでいた。それは随分様になった仕草だったし、何より笑顔だけでこれだけたくさんの表情を作ることが出来る彼を見て、イルミナも自然と笑っていた。


「言ったはずですよロッキンジー嬢。私は王家の者ではありますが、ただの人。そのような畏まった態度をとられるとこちらが恐縮してしまう」


 そう、イシュバル・ミラクという男は特別扱いされることを極端に嫌う。王家に生まれついたとは思えないほど、イルミナのような平民にも貴族にも分け隔てなく接するのだ。

 彼は齢五十手前――そうイルミナは記憶している。頭髪に白いものが目立つが、これは王家特有のもの。深い皺も数本刻まれている。しかし、彼を見て年齢を当てることが出来る人間はいないだろう。三十だと言われてみればそうも思えるし、反対に還暦を迎えていると聞けば誰もが納得する。老練然とした表情と、子供のような無邪気さを併せ持つ彼は、生まれついての人たらし、という世間の評価だったが、それが間違いでないことをイルミナは既に知っていた。生まれさえ違えばジゴロにでもなっていただろう。

 彼と初めて出会った時も、その振る舞いでイルミナは随分と救われたものだ。殿下や、ザック、それにと過ごした時を思い返しそうになって、彼女は軽く首を振った。


「それで、本日のご用向きというのは?」

 イルミナは努めて事務的にそう言ったつもりだったのだが、それすらも殿下は不服そうに眉を寄せた。仕方ない、彼女はこういう話し方しか出来ないのだ。

「いえ、大したことではないのですよ。純粋に貴女に興味をもった。もう少し話してみたかったのですが、何ぶん公務がありますので、こうして出向いてもらった――そういうことです」

「興味……ですか?」

 殿下はナプキンで口元を拭い、無言のまま頷いた。食卓からはメインディッシュが下げられ、既にデザートのストロベリー・ムースが運ばれてきている。彼はそれに手をつけずに、グラスに注がれた水を飲み干した。その間、口は開かない。イルミナの言葉を待っているのだろう。


 ――あたしに、興味?


 幾度考えても、貴族の頂点に立つべき人間がイルミナに興味を持つなどと言った、冗談のような話を受け入れることが出来なかった。そもそも彼女に心当たりもなかったし、つい先日まで何の接点もなかったのだ。

 どれくらいの間沈黙していただろうか。やがてイルミナはひとつの結論に思い至った。

「ひょっとして、先日の『埋葬』の件でしょうか?」

「当たらずとも遠からず、といったところでしょうか。確かにあの日のことは今でも思い出します」


 ――『埋葬』。


 それは、イルミナの職場である冬の森の死体安置所でのみ執り行われると伝わる、失われた古代人の儀式。世界から取り残されたかのような深い森で、生者と死者は境を失う。全てが曖昧に、そして明確に。穿った見方をするのであれば、そんな場所である。


「どうですか? あの森での暮らしは」

 イルミナの思考を遮るかのように、よく通るバリトンで殿下が言った。その瞳は、どこか悲しげに見える。

「概ね満足しています。ザック――ああいえ、同僚もいい人間ですし」

 答えながら、イルミナはふと思った。


 これはひょっとして、契約を更新するための面接のようなものではないのか?


 表向きは国家公務員として彼女は冬の森で働いているが、実は契約は二年単位なのだ。何も問題がなければ、自動的に更新することにはなっているが、それもギルドの気分次第だ。そして、この日はまさに契約更新の月だった。

「そんなに深く考えなくても結構ですよ。先ほど言ったように個人的興味があるだけです」

 イルミナの心を読んだかのように、殿下は笑った。

「それが分からないのです。私のどこに興味を持ったのか」

 考えても仕方ないので、イルミナは思ったことを口にしてみる。先ずは行動――それが彼女の理念でもあった。

「私が知っている限り十八人」

 殿下が口にした数字。それはイルミナも知っているものだ。彼女がかの森に着任するまでにザックの同僚として働いた人間たち。

「あの森でザック・ノーガーが先代より管理人を引き継いでから五年間で辞めた人数です。これも私が知りうる限りでは、その間、一年以上あの森で生活しているのは貴女、イルミナ・ロッキンジーだけ」

 そうなのだ。他のものは一年を待たずして自ら辞めたり、またはクビを切られたりした。イルミナ以外で一年近くもったのは、彼女の前任者だけ。そしてその彼は自ら命を絶った。

「あの偏屈なザック・ノーガーと暮らすのは大変だと聞いています。だからこそ興味をもった」

 そこでイルミナは小さな違和感に気づいた。

 以前から思っていたのだが、殿下はザックに対してどこか気安い。それはイルミナに対してもそうだったが、それとはどこかが違う。そう、喩えるならば、まるで身内のことを話しているような――。

 給仕がいつの間にか紅茶を運んできていた。イルミナはたっぷりとミルクが入っているカップを取り落としてしまい、絨毯に染みを作った。

 殿下はそれを気にするまでもなく、「大丈夫ですか? 手にかかったのであればすぐに冷やした方がいい」とイルミナを気遣う。

 しかし、彼女は熱い紅茶が手にかかったことも、見るからに高級そうな絨毯に染みを作ってしまったことにも気を留めず、震える声で殿下に問い返す。

「今、なんと?」

「手を。火傷しているではないですか」

「そうじゃありません! ザックが、ザックが何ですって?」

 給仕が手に当てたタオルすらも煩わしく、イルミナは何度もそう繰り返す。

「聞いてなかったのですか。まぁあれも口が上手い方ではないですし、仕方ないのか」


 ――そんな、嘘でしょう?


「ザック・ノーガーというのは代々冬の森死体安置所の管理人が襲う名。彼の本名はリムト――リムト・ミラクと言います」


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