8.祭主
イルミナは眉を顰めた。最奥に潜ったザックを待っている間、何度も目を通した資料にも先王コリーダの名は記載されていた。だが、彼の名はハニーウェイ何某ではなかったはずだ。
「ねぇ、ハニーウェイ・シャーラスタニって誰?」
「何度言わせるつもりだよ。
「お……くりな?」
「正確な語句は王国公用語には存在していない。だがここで働いているのだったら
シャーガーの拙い説明をまとめると以下の通り。
彼の国家には死者を尊ぶ文化が他国より強い。特に王族に顕著だと言う。生前禅譲がないという側面も作用しているだろうが、王は世代を牽引した後、天寿を全うして空へと昇る。その瞬間、唯一無二の存在になるのだ。あるいは神と呼べるだろう。そんな存在を記号として扱うルール。名を贈ることによって、故人が彼岸を旅する間、生前と変わらぬ力が備わる。死後も王として黄泉に下った魂を救済し、彼らを地の獄に繋ごうとする悪鬼たちを打ち破るという。イルミナは便宜上王などと呼んではいるが、世界有数の宗教国家の長であるコリーダ家は祭主なのだ。なので導くものとしての責務を負っているのだろう。そんな彼らが末期に祀るものが、長く続く旅路を祈るための名前。
それが諡――すなわち贈り名。
それを聞いたイルミナは、貴族というのはどこの国でも変わらないのだな、そう思った。いくら祭主、祈りありきだったとしても「救済する」とは。なんて居丈高な物言いだろうか。
「本来はファースト、ラストのどっちかを変える。俺らにはミドルネームなんてない。だが、じいちゃんはどっちも変えてる。歴史的にも少ないんじゃないかな。さらに付け加えると
イルミナの心中など推し量ったわけでもないだろうが、シャーガーは最後にそう吐き捨てるように言った。
「なるほどねぇ」
廟号は使わず、それでも個人の歴史を祀るというのは矛盾を孕んでいるが、文化の違いがある以上イルミナが口を挟むことではない。シャーガーの言った通り、変遷を繰り返すうちに仕組みそのものが変わっていったのかも知れない。そういった、結果よりも過程が先に立つという様をイルミナは何度もこのモルグにて見聞きしてきた。『埋葬』だって、かつてとは異なっているとザックは何度も言っていた。
そのザックは水晶玉の前で普段とは異なる詠唱をしていた。
「これは……」
イルミナがモルグに入って一年以上経つ。幾度も『埋葬』の通訳もしてきたし、古代語の辞書も諳んじることだってできる。既に王都にいる古代学者よりも、この言語に精通していると自負していた(事実、彼女は世界一の古代語使いと言ってもいい)。だからこそ気付けた。
文頭はきちんと揃え、区切りも美しく文彩鮮やか。その音の並びは聴きようによっては過去に誘う詩歌にもなるだろう。古代語を理解していないシャーガーは、先ほどまでの不機嫌さを忘れたかのようにザックの声に耳を傾けている。
その実。
これは呪詛だった。
耳触りの良い音に乗せた、すべての存在をただ呪う言葉の――いや、音の羅列だ。軋むような旋律が渦巻いている。過去からの足音がでたらめにイルミナの鼓膜を叩く。狂ったような笑い声が聞こえる。嘲笑とも歓声とも怨嗟とも喝采ともつかない何かが交差している。
何故こんな言葉を吐けるのだろうか?
何故こんな言葉を遺したのだろうか?
「おい、ロッキンジー!」
シャーガーの声で我に返った。目前にザックの足が見える。いつからザックは壁に立つなんて技術を会得したのだろう? いや、違う。いつの間にか倒れていただけだ。心配そうにイルミナを覗き込むシャーガー。
「延期だ。ロッキンジーをベッドへ!」
「問題ない」
「どこかだ、問題だらけだろうが」
「もう終わった」
「終わっただと? まだ始まっても……」
二人のやり取りをぼんやりと眺めながら、シャーガーがある一点を見つめていることに気付いた。釣られてイルミナもそちらを見やる。
先ほどまで水晶玉があったところに、一人の老人が立っていた。薄手、絹で織った上等な召し物――確か着物とかいうやつ――を纏った、到底そのいでたちが似合っていると言い難い偉丈夫。胸元まで伸びた顎髭の先を深紅の布で二つに結っている。資料で見たっけ、彼の国で生者と死者を隔てる印。
「……じいちゃん」
その姿を知るシャーガーが言う以上間違いはないだろう。ジェベル・コリーダ前国王。
いや、ハニーウェイ・シャーラスタニ公その人が、そこに顕現していた。
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