6.幽世
最奥――そう呼ばれる場所に足を踏み入れた瞬間、イルミナは強い酩酊を感じた。いったい、ここは何なのだ?
造り自体は珍しいものではない。天井の高さは十フィートほど、幅はその倍くらい。部屋は奥へと伸びている。まるで廊下のようだな――イルミナがそう思うように、細長く続いていた。
ここを決定的に常識の外へと置いてあるのは、部屋を覆う素材だった。
間違いなく地下なのであろうに、どこから採光しているのか、ステンドグラスがいたるところから光をでたらめに反射している。目前を染め上げた原色の暴力に、思考が浮かんだ傍から散ってゆく感覚。見ているものばかりか、形どるもの全てが曖昧模糊としている。
「取り込まれるな」
いみじくも、ザックは最奥に入る前にそう言った。全く無茶を言う。イルミナはひと際大きな赤色のグラスに手をつく。そうしていないと自分が立っていられる気がしないからだ。
たっぷり時間を置いて、ようやく自力で立っていられるようになった。地面があることを確認するように二度、三度と足を踏み鳴らす。地面もガラスなのに、イルミナの体重をこともなく支えている様子からすると、かなり質量があるものなのかもしれない。
ザックはそんなイルミナを見つめている。目は細めているものの、それは普段通りのザック・ノーガーだった。この場所に慣れているのだろう。
かなり広い部屋のようだ(本当に?)。場違いな電灯が備え付けられているものの、意味を成しているとは思えない。見える範囲を照らしているつもりなのだろうが、ステンドグラスのせいで暴力的とも言える光で照らされているが、向かう先には暗闇が拡がっていた。いったいどういう原理なのだろうか?
極力壁や天井に目をやらないようにしていたが、地面すらガラスなのだ。どうしようもない。そう、慣れるしかないのだ。この部屋にも。今置かれている状況にも。
ザックは腕組みをして動き出す気配はない。ステンドグラスに照らされた表情からは感情が読み取れない。
「だい……じょうぶ。問題ないよ」
吐き気すらしていたが、イルミナは絞り出すように言った。大丈夫でも、口を開ける状況でもなかったが、そうしていないと、心の天秤があっさりと狂気へと傾いてしまいそうだったからだ。
ザックもそれを理解しているのか、進行方向を指さし、珍しく自ずから話し出した。
「最奥はこの奥しばらく歩く」
イルミナの心身を案じたのだろう。気休めにすらならない台詞だったが、話の取っ掛かりとしては悪くない。それを受けて、目を閉じたまま「どれくらい?」と尋ねる。
「そう長くない。数分すら掛からないだろう」
「何があるの?」
瞳をゆっくりと開き、目頭を揉み――それでようやく歩けるほどに回復したので、ゆっくりと並びながら歩みを始めた。
「……見た方が早い」
ザックにしてはずいぶんと歯切れの悪い言葉だ。言い表せないほどのもの。そう思うと、目前にある暗闇が化物の舌先に見えてくる。
恐ろしい何かがあるに違いない。
ザックの言う通り、這うような歩みですら秒針が一回りした程度で視界が開けた。その景色を見たイルミナの予感はあっさりと裏切られることになる。
慣れるしかない。
そう自分に言い聞かせていたイルミナのこころを狂気へと引きずり込んだのは、まさしく彼女たちが最奥についた瞬間だった。
それを見た瞬間、イルミナは嗤った。笑うしかないだろう。それくらい現実離れをした景色。
何故、地下に広大な土地が広がっているのか。
何故、そこかしこに家が建っているのか。
何故、冬の森の最奥、地下の遥か奥底に、町が拡がっているのか。
異質な街並み、その白眉は人形が暮らしているかのように置かれていることだった。長椅子に腰かけている(ように見える)親子の人形がある。馬車を待っているように列をなしている(ように見える)人形がいる。それらには、リック・ゾンダーグ卿とちょうど真逆で顔がなかった。だが、それ以外はまるで生きているかのように作りこんである。杖をついた人形の手には無数の皺が刻まれ老人であると分かる。風船を手に持った人形は今にも走り出さんばかりだ。
何かが――いや違う。何もかもがおかしいが故に何もかも整合が取れている。
「ここが最奥だ」
イルミナは泣き笑いのような表情で隣のザックを見た。
「そしてすべての終着点でもある」
そう吐き捨てた彼はイルミナが初めて見ることになる、怒りの表情だった。
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