5.『最奥』
「……ということなんだけど」
腕を組んで瞑目したままのザックは、イルミナの言葉に特に反応もなかった。暖炉から薪の爆ぜる音がやけに大きく聞こえる。
冬の森で働き始めて約一年が経つが、最奥なんて場所を聞いたこともなかったイルミナはシャーガーを見送った後、こうしてザックの元へと手紙を持ってきたのだった。とはいえザックは文盲である。便箋十枚以上の長い手紙、その要点を読んだところだったが、ザックから反応は特になかった。
「ちょっと、聞いてるのザック?」
「ああ」
彼得意の仏頂面ではあったが、いつもと違う。決して長い付き合いではないが、イルミナにはそれが分かる。実はザックは表情が豊かだとよくよく観察すると分かるのだ。
――と。
ザックが無言のまま立ち上がった。そのままでイルミナを見つめてくる。意図が掴めずに、イルミナはぼんやりと鳶色の瞳を視るしかない。
「行くぞ」
「どこへ?」
その問いには応えず、ザックは無言のまま境界の間へと向かう。モルグに降りるつもりのようだ。扉の前でイルミナを振り返り、「こちらへ来い」とばかりに顎をしゃくる。
「偉そうに」
イルミナの軽口には取り合わず、今度こそ境界の間へと消えた。渋々と後をついて行く。
ザックが立ち止まったのは無数の棺が並ぶ、モルグの何気ない場所――そのように見えた。目前の棺はリック・ゾンダーグ卿のものだ。それは名札なんか見なくても分かる、毎日顔を合わせている、言わば顔なじみなのだ。相変わらず長身を窮屈そうに棺へと収めていた。まるで眠っているだけかのように瞳を閉じている。
「ちょ、ちょっと、何してるのよ!」
イルミナは大声を出した。それがモルグの高い天井にこだまして肩を竦める。それもそのはず、ザックはゾンダーグ卿の遺体を無造作に持ち上げたからだ。「うるさい」と、声には出さずザックが振り向いてイルミナを睨む。
「死者には敬意を払わなくてはいけないよ」
大好きだった祖父の教えが脳をよぎる。イルミナの行動規範のひとつにもなっているそれは、冬の森へと来てから顕著になった。
イルミナの非難する顔にも頓着せず、ザックは片手でゾンダーグ卿の身体を持ち上げる。今度はイルミナが眉を寄せる番だった。死者は魂が抜け落ちて体重が軽くなると、どこかで読んだことがある。実際に実験した結果だとも。それにしては軽すぎではないか? ザックは平均的な身体つきをしている。筋力なんかも同様だろう。それが軽々と長身のゾンダーグ卿を持ち上げている現実。イルミナは意を決して、ザックが持ち上げたままのゾンダーグ卿の頬に手をやる。冷たい。そして、つるつるしている。
――まさか。
「人形……」
それは紛れもなく人形だった。精巧なものではあるが、触ってみれば確実にそれと分かるものだ。服の上から手を滑らせると、本物のように作っているのは首から上、それに両の手足くらいなもので、それ以外は素材のまま、どこか粗ささえ残るもの。視えている部分との調和がまるでとれていない、子供だましだと感じるほどだった。だが、それで充分なのだろう。事実イルミナは一年近く騙されてきた。彼、ゾンダーグ卿はいつもここにいたのだ。イルミナが着任してから……いや、それよりも遥か昔から。先ず、それを疑うべきだった。
「おかしいと思わなかったのか?」
ザックの声がどこか遠く聞こえる。崖の突端につま先立ちしているような、足元が揺らぐ感覚。そう、他の遺体は『埋葬』が終わるなり、墓地へと向かった。『埋葬』が行われないときも同様だ。彼らが冬の森で一時の覚醒を待つのは、長くて三月ほど。それ以上は、さすがにここでも遺体が傷みだす、そうザックが言っていたじゃないか。
イルミナは冬の森に横たえられている彼らの目録を脳から引っ張り出してみる。Lの項目、そのどこにもリック・ゾンダーグなんて名前はなかった。Rも同様だ。気付いて然るべきだった。これまでの『埋葬』でいくつかヒントのようなものだってあったはずなのに。
「なんで……今まで隠してたの?」
「必要がなかったからだ」
普段通り簡潔にザックはそう言うと、人形を脇へと置いて棺の中に手を置いた。
地震のようにモルグが揺れ、棺の後ろの壁が動き出した。図書館なんて目じゃないほどの手の込みよう。
イルミナは直感的に理解した。間違いない、この向こう側こそが最奥――そして『冬の森の死体安置所』そのものである、と。
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