断章

簒奪――うば・(い)とる――

 その日、郵便配達人のクロッグという男はいつものように妻の淹れた薄いコーヒーに顔を顰めて家を出た。そもそも彼は生粋の王国民であるので、コーヒーよりも紅茶派なのだ。長年付き添った妻の若干太った体型(そう、若干だ)以外での唯一とも言える悩みの種ではあるのだが、気弱な彼はそれを中々言い出せずにいた。


 ――人には誰だって欠点がある。それを咎めるのは間違ったことだ。


 いつものように郵便局までの道のりをそう考えながら、肩を落として歩く。道中にピーターに会い、「毎日辛気臭い顔をして飽きないな」と背中を叩かれた。この遠慮のない同僚の大きな声も、彼をより気落ちさせるのだが、ピーターはそれには気づかない。

 いつものことだったのでクロッグは何も言わず曖昧に笑うと、これも普段通りに褐色の液体について愚痴をこぼしながら、贔屓にしているパン屋に向かう。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開くと、美味しそうなパンの匂いと聞きなれない声が飛んでくる。

 隣でピーターがその小太りの体型に似合わない口笛を吹いた。クロッグが顔を上げると、そこにはいつもの仏頂面をしたパン屋の主ではなく、水色の前掛けをつけた若い少女が立っている。

 齢五十を過ぎたクロッグが少しどきりとしてしまうくらいに美しい少女は、快活な笑顔を浮かべ、ピーターのくだらない冗談に付き合っていた。どうやら新しく雇った店員のようだ。

 ピーターがこうなると話が長くなるのは、長い付き合いで理解していたので彼はトレイを手にすると、いつものハムエッグサンドが並んでいる棚に向かう。

 だが、常時山のように並んでいるはずの場所には、たったひとつすらも残っていない。ちょうど通りかかった店主を呼び止め聞いてみると、山のような大男が全部買い占めて行ったという。このパンを間食に食べるのがクロッグの日常だった。

 それならば仕方ない。

 クロッグは少女が薦めるパンを二つ買って外に出た。ピーターは未だに少女と話をしている。それに嫌な顔をせずに応対している彼女に、クロッグは好感を持つ。ああいう少女は、産業革命真っ只中な昨今ついぞ見なくなった。


 彼が仕事場に着く頃には、雲が厚くなってきていた。やがて雨が降り出すのは明らかだろう。この時期に雨が降ることは珍しい。

 配達する手紙が濡れないようにしなくてはいけないのはもちろんだが、それよりも名状しがたい予感めいたものがクロッグの心を支配していた。小さな違和感。特に能力のないクロッグではあったが、この予感だけは外れたことはなかった。


 結局遅刻してきたピーターと入れ違いに配達に出かけた頃にはそんなことは忘れていたが、この日のクロッグはどこかおかしかった。几帳面で、真面目だけが取り柄のような男が、とある郵便を配送し忘れてしまったのだ。それに気づいたのは雨足が強くなってきた夕方だったが、仕方なくもう一度とある地区に向けて自転車を漕ぎだす。

「すみません」

 大通りを走っているクロッグに声が掛けられたのは日が沈み始めたその時だった。普段は人で溢れている通りなのに、時期はずれの雨だからか平日の夕刻だからか、クロッグと彼に話しかけた男しかいない。

 まるで、お伽話に出てくる魔法使いかのような背の高い帽子を被った銀髪の男だった。鍔で隠されていて瞳は見えないが、口元だけで笑っている。クロッグの緊張を解くには不十分だった。

「……なんでしょうか?」

「あなたが持っている手紙を見せてほしいのですが」

 笑顔を湛えたまま、男はそう言う。穏やかなものだったが、どこか作りものめいた笑みだ。

「それは出来ません」

 気弱なクロッグだったが、きっぱりと言い放つ。彼は仕事に誇りを持っていた。預かった手紙には、その人の想いが綴られている。それを他人に見せるなんてとんでもない話だった。

「でしたら仕方ない。イザク」

 男が誰かの名前を呼んだ。クロッグが振り返ると、そこには山のような大男が立っている。気配はまるで感じなかった。まるで、今そこに現れたばかりのよう。男は目出し帽のようなものを被り、クロッグを見下ろしている。表情は伺えないが好意的なものでないのは確かだった。空いた穴から見える。ぎらついた瞳がそれを物語っている。

 大男はクロッグの頭を片手で持ち上げた。


 ――ああ、嫌な予感がしていたんだ。


 愛すべき妻でも、口やかましい同僚や、誇りをもって臨んだ仕事でもなく、パン屋で見た水色そのもの、晴れ渡る青空のような少女の笑顔――それがクロッグの最期に考えたことだった。

 鈍い音が大通りに響き、クロッグだったものは首が後ろを向いた状態、背中を見つめるようにだらんと下がり、幾度か小さく痙攣したきり動かなくなった。

 銀髪の男は満足そうにそれを見つめ、クロッグの鞄を漁り始める。「あった、あった」と小さく漏らしたその手には一通の手紙。美しい顔を微かに歪めると、彼はそのままイザクと呼ばわる大男に手渡した。

「イザク、何と書いてある?」

「古代文字。博識なお前さんでも読めないものがあるんですね」

「君が皮肉を言う方が驚きだよ。で、宛名にはなんと?」

「雨で滲んで読めないです。あ、隅に小さくザック・ノーガーと書いてやがるですね」

「やっぱり当たりか。良かったよ、彼だけで済んで」

「ところで、この屍体はどうしやがるんです?」

「ご随意に。食べてもいいし、お腹すいていないんだったらに持っていけばいい。ともかくこの件に遺骸なんてもっての外だから、そういうつもりで」

「理解したです。ハムエッグだけじゃ全然足りなかったからちょうど良かったです。貪ってから行くからお前さんは先に行ってるといいです」

「分かったよ。それじゃあまた後で」

 最後に男は空を見上げ、「全く。たまには晴れてくれてもいいものだろうに」と恨みがましく言うと、その場を後にした。

 通りには咀嚼音だけが響き、その間そこを通るものはなかった。



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